はるかなあなたへ

kiri

はるかなあなたへ

 ◇

 走る。

 真夏の日差しはきついけど、間に合わなくなっちゃったら嫌だもん。だから、走る。

 空色のワンピースが風をはらむ。


「わっ!」


 立ち止まって裾を抑え、どこかへ飛ばされそうなほど強い風をやり過ごす。

 風が行ってしまった空を見上げた。まだある。まだ見えてる。


「急がなきゃ」

「カナ! なに慌ててんの? どこ行くのよ!」


 張り出し窓にしどけなく身体を預けた姐さんの声がした。


「丘まで! あれが見えてるうちに行かなきゃ!」

「あれ?」


 走り出した背中に、あれって何よ、と姐さんの声が追いかけてくる。手だけを振り返した。

 息が切れる。あと、少し。走る。

 丘の上の光。もう少しで届きそう。精一杯手を伸ばす。

 ◇



 そこで映像が切れた。

 僕は思わず窓に伸ばしてしまった手を引っ込める。

 なんだったんだろう? 顔を外に出して確認する。空の青が映り込む背の高い建物ばかりが、にょきにょきと上へ伸びる。間違いなく僕のいる町だ。


「窓開けるとスクリーン化するサービス? そんなの付いてたか?」


 呟く僕の声も青に吸い込まれていく。消えてしまった映像に写っていた女の子。カナっていったっけ。可愛かったな、一生懸命で真っ直ぐな感じ。うらやましいくらい生命力に溢れた表情が素敵だった。




 僕の家の窓からこれが見えることに気がついたのは、引っ越してから一週間目のこと。


 学生の僕としては家賃が安いのがありがたい。まして学校の近くにこんな物件があるなんて掘り出し物もいいところ。勇んで契約して早速引っ越した。外はボロボロ低層中古アパート(失礼)だけど、中はどうして今時必要な設備はなんでも付いている。


 残念なのは、せっかく開閉式の窓が付いてるのに目に入るのは高層ビルだけ。それでも風は入るだろうと、なんとなく開けて外を眺めてたところに聞こえてきたのがあの声だ。


「急がなきゃ!」


 女の子の声? 聞こえるはずはないんだけど。

 驚いて声のするほうに目を向ける。そして見てしまった。有り得るはずもない外の景色。


 古い映画のワンシーンみたいだ。っていうか、ここ十階だぞ? なんで窓の外を女の子が走ってるんだ?


 一瞬、住居サービスの一環でランダム映像が提供されてるのかなって思ったけれど、ここの窓はスクリーンじゃない。だから開けられるんだし。不思議に思って窓に近寄り手を伸ばす。女の子が向こう側で手を伸ばしていた。

 その途端、映像が途切れる。


「なんだ、これ」


 思わず呟く。わかるわけもないし、僕は首をひねりながら窓を閉じた。


 次に見たのは、髪を結い上げかんざしを挿し、綺麗に着飾ったカナが白いおとがいを上げ、まるでキスをねだるみたいに軽く唇を突き出した顔だった。


「うわっ!」


 窓を開けた途端にこんなの見たら誰だって驚く。僕は後ずさって椅子に足をひっかけ派手に転んだ。


「ねえ、カナ」


 窓の外から声が聞こえる。



 ◇

「なに? 姐さん」

「ほんとにいいの? あんた、まだ一年はお座敷に出なくていいはずじゃない」

「いいの。あたしは早くお金稼いで、ここを出るんだから」


 あたしにはやりたいことがあるんだもの。

 姐さんはため息をついたけど、唇に赤い紅を塗ってくれた。


「姐さん、あたしねえ、学問がしたいの。だから光の丘へ行くんだわ」

「なに夢みたいなこと言ってるの」

「素敵じゃない? 学問って。知らないことがなくなるのよ」

 ◇



 プツンと映像が途切れた。

 なんだよ、お座敷って。素顔があんなに綺麗だったのに、真っ白に塗りたくって。さくらんぼのようだった唇を、真っ赤な口紅で塗って。あんなに着飾ってなにするんだよ。


 でも学問がしたいっていう気持ちはよくわかる。

 僕も今時、誰も手に取らなくなった古い文献の研究のために、こんな辺境まで来てるんだから。これが他の誰かのためになるのかはわからないけれど、僕にとってはとても興味深い研究なんだ。


 カナも知りたいことがたくさんあるんだろう。画面の中のカナに何かしてあげたいけれど、映像なんだよなあ。


 それでも僕は窓を開けるたび、いつ見られるともわからない続きを心待ちにするようになった。


 次に見た画面の中のカナは、姐さんという年上の人と同じように着物を着崩し、張り出し窓に腰掛けていた。

 同じような建物が並ぶその町は湯屋と、多分、遊女屋を兼ねている。昼と夜の顔が違うんだ。夜の赤い灯火に照らされてカナの表情はなまめかしい。男の声と手がカナを呼ぶ。

 僕はカナの嬌声きょうせいに耐えきれず窓を閉めた。


「よう、進捗どうですか、ってんだ。研究進んでるか?」


 慣れ親しんだ悪友の明るい声が僕に絡む。


「うるさいな、見ればわかるだろ。今やってる」

「そば屋の出前かよ」


 古書研究の場でしか通用しないような混ぜ返しをしてきた悪友は、僕をのぞき込んで酷い顔色だとしかめっ面をした。


「赤門でも地球東洋史は研究者の数が少ないし、俺も専門外だから手伝えることはあまりないかもしれん。だが愚痴くらいは聞いてやる。親友だからな。なにがあった?」


 ここは古い書画の現物を元に研究できるエリアで通称「赤門あかもん」という。

 エリア正面が赤の大扉で、そこからついた通称だったけれど、今ではエリアそのものが赤門で通るようになった。昔もそう呼ばれた場所があったっていうのを古文書で見つけた時はおもしろく思ったものだ。


「はいはい、アナン様は見目麗しくお優しい方ですもんね」

「もちろんだ。で? 本当にどうしたんだ。なにかあったのか」


 アナンは整った浅黒い顔を心配そうに向けてくる。

 こいつが言うなら僕はそうとうに参ってるんだろう。昨夜、見てしまった映像が衝撃的過ぎて立ち直れてないんだと思う。


 カナは今の僕より年上に見えた。時間が進んだ場面ってことなんだろう。

 ああ、もう僕はカナのことをただの映像には思えなくなってるのかもしれない。


「ハル、聞いてるのか?」


 言いたいけど言いたくない。心配してくれてる、その気持ちは嬉しいんだけど。


「ハル?」

「聞いてるよ……実はさ」


 それでも結局、僕は事の次第をアナンに話した。

 やっぱり言わなきゃよかったかなあ。でもカナの可愛さを自慢、っていうのも変かもしれないけれど、なんとなくそんな思いもあって話してしまった。

 最後まで黙って聞いていたアナンは、ううんと唸って腕を組む。


「俺、今日お前んに泊まるわ」

「え?」

「あ、めしの心配はしなくていいぞ。持ち込むから、家主やぬし様は気にすんな」

「なんでそうなる」

「見なきゃわからんだろ?」


 それはそうなんだけど……

 アナンにカナを見せるのが嫌だと思っている自分に驚く。不思議な事象なのだから解明はしたい。したいのだけど見せたくはない。


 さっきは自慢したいなんて思っていたのに、どういうことなのかと自分に問いかける。答えは返ってこない。

 もう僕の心はちぐはぐな事だらけだ。


 そうしているうちに食料片手のアナンが部屋へやって来た。


「へえ、中もボロかと思ったら全然違うな。快適そうだ」

「そうなんだよ。家賃も安いし、いい部屋借りたなって思う」


 それで、とアナンは例の窓に手を掛ける。


「これか……開けるぞ」


 一瞬の躊躇ためらいの後に、窓が開けられた。夕闇に尖塔がいくつも浮かび上がる。


「赤門の中だな」


 アナンの言葉に、僕はなぜかホッとした。


「いつでもあの映像が出るわけじゃないんだ」

「ふうん、スクリーンにもなってないし、何なんだろうな」

「それは知りたい」


 そうだな、と悪友は僕に向かって缶ビールを投げてくる。受け止めそこねたらどうする気なんだ。

 もう一本はアナンが自分で開けた。シュッと炭酸の小気味いい音がする。


「はあ、昔も今もこれは変わらないだろうな」


 僕も頷いて喉に流し込む。きっと昔の人もほろ苦いのどごしを楽しんだだろう。

 何気なく目を上げて驚いた。

 手から缶が転げ落ちる。ビールがシュワシュワと床に広がっていく。


「カナ……」


 急に見えた映像に戸惑う僕の隣で、素早く窓に目を向けたアナンが首を傾げた。


 アナンには見えないのか? 僕が見てるのは、これはカナの死の場面だ。

 やつれた顔で目を閉じ布団の中にいる。あの姐さんという人が目を真っ赤にしていた。病気かなにかだったのだろうか。若いはずの顔が痩せこけて悲しいくらいに老いて見える。


「おい、ハル! 聞こえてるか? 俺を見ろ!」


 だいぶ体を揺すられてたらしい。クラクラする。


「アナン?」

「そうだ! 俺だ。お前は何を見た」

「カナが、死んでしまった」

「俺には何も見えん。いつもの赤門の夕暮れの空とビルの群れだ」


 そんなわけない。だって今もカナは死の床で……


「崩れて……? 嘘だ、これじゃまるで九相図くそうずじゃないか」


 いつもの数倍の早さで映像が進む。体が崩れ白骨化していくカナの姿が見えている。

 僕だけなのか? 僕にしか見えないのか?

 アナンは僕を離し、音を立てて窓を閉めた。カナが消える。


「何を見た」

「カナの死を」


 虚ろな目と声で僕が応える。


「……確か、引っ越して一週間くらい過ぎた頃から少女が見えたって言ってたな」


 僕は頷いた。


「それじゃあ一ヶ月ほどで人の一生を見たことになる。やっぱり誰かの持っていた映像じゃないのか」

「カナは生きてた! いや、生きてる。学問がしたいって、お金稼ぐんだって、あんなにがんばって。僕はカナを助けたい」


 そうだ、これは多分、一目惚れってやつだったんだ。カナを見るたびに胸が高鳴ったのはそのせいだ。僕はカナを死なせたくない。カナを救いたい。


 馬鹿を言うなとアナンは僕の考えを否定する。

 いいや、わかってる。お前は僕の話だけで同じ仮説を立てたんだろう? だから否定する声が小さいんだ。

 アナンの目線が泳ぐ。逃さないぞ。言えよ、彼女を見ている間に僕が立てた仮説と同じなんだろう?


「……たとえば、あれがこことは違う世界とか、過去の世界とかだったとして、だぞ。あっちはお前のことを知らんのじゃないか?」

「最初の出会いから始めればいい。僕はカナにいろんなことを知ってほしい。病気になったら治してやりたい」


 常になく大きな声で言い切った僕を見つめて、アナンはため息をついた。

 馬鹿な奴だと思われてるんだろう。それでもいい。カナを愛おしく思っている僕は、死んだ場面を見たからといって今すぐこの思いを捨てられるわけがない。


「もし仮説どおりの世界なら、窓を開ければまたカナに会えるはずだ。そしたら僕はカナのところに行く道を探す」

「本気で言ってんのか」

「もちろん」

「俺としちゃ諦めてここから引っ越してほしいんだがな」


 僕は笑って窓に手を掛ける。


「カナに会えなかったら、そうするかもね」


 窓を開けた。




 何度目の夏だろう。

 カナが走る。光の丘に向かって風のように走る。


「わがままでごめん。僕はどうしてもあの世界に行きたいんだ」


 僕は迷いを捨てて言う。


「猫は夏へ続く扉を知ってるらしいが、俺は知らんからな」


 アナンは軽口を言って笑った。

 大昔に書かれた物語の中に、そんな猫がいたらしい。僕は研究対象が違ったからあまりよく知らないんだけれど。

 もう引き止めるのは諦めてくれただろうか。


「窓の外は赤門だぞ。わかってるのか」

「わかってないな、窓の外はカナのいるところだよ」


 僕らの話はいつまで経っても平行線だ。アナンはあの仮説を決して認めようとしない。それでも僕に協力してくれる。それを言ったらアナンは照れくさそうに白い歯を見せた。


「お前は俺の親友だからな。事象を調べるくらいのことは協力するさ……けど本当はな、いなくならないでほしいって思ってるんだぞ」

「文献に書いてあったんだけど、ある日ふっといなくなる人ってさ『神隠し』っていうモノに会うんだって。僕がいなくなったら、それに会ったんだって思ってくれよ」


 これももう何度目だろう。馬鹿なことを言うな、と小突かれた。


 もしもに備えて身の回りを整理した。後のことは手紙に書いてアナンに託そう。世話ばっかりかけちゃうな。

 きっと悲しそうな目でそれを読むんだろう。泣くなよ? 親友。

 僕は行く。

 薬も揃えた。カナの知りたい学問がどの程度のものかわからないけれど、教えられることはあるだろう。


 カナが走る。光に向かって手を伸ばす。


「今までありがとうアナン。僕は行くよ」


 光に向かって、その先のカナに向かって、僕は手を伸ばした。

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