第4話

「えっ、なんで……?」


 ガランとした部屋の中を見た時、私にはそれしか言えなかった。




 成長した私はそれなりの大学に入り、それなりの企業に就職した。

 半年ほどしたある時、合コンでひとりの男性から猛烈なアプローチを受け、付き合うことになった。

 彼の言葉はいつも素晴らしく甘く、私の口の中を幸せで満たした。


 彼は「独立して自分の店を持ちたい」と夢を熱く語り、私はそれを応援したいと思った。

 その頃の私は交通事故で父を亡くし、慰謝料やら保険金やらで数千万の貯金があったのだ。


「まとまった資金をお持ちなら、投資したほうがいいですよ。マンション投資だったら、将来おふたりで住むこともできますしね」


 彼の友人の不動産業者の勧めに、彼は照れ臭そうに笑って言った。


「まだプロポーズしてないのに、勝手に話、進めんなよ」

「だって結婚するつもりなんだろ? だったら…」

「俺がその気でも、萌がどう思ってるか分からないだろ」


 そう言って、彼がほんの少しだけ不安そうな表情を見せたので、私は「薬指のサイズは9号だよ」と笑って言った。

 自分の言葉で口の中が優しい甘さで満ちる。


 私は、幸せだった。


 

 その後、すぐに彼と一緒に指輪を買いに行き、マンション――ふたりで住むためのものと投資用の2軒――の契約も済ませた。

 署名しなければならない書類がたくさんあったので、彼の友人がすべて代行してくれた。

 私は実印も通帳もすべて彼に預けていた。


 いくら婚約者でも普通の人間ならそこまでしないかもしれない。

 でも私には人の嘘を見破る能力があるのだから、彼も彼の友人も、疑う理由がなかった。


 だから買ったばかりの家具や家電がすべて持ち出されてもぬけの殻になったマンションを見ても、残高がゼロになった預金通帳を見ても、自分が騙されていたのだとはとうてい信じられなかった。


 彼と共同名義で買ったはずのマンションが私ひとりの負債になっていて、しかも2軒とも相場よりかなり高い金額で買わされていたこと、知らない間に私の名義で消費者金融から多額の借金がなされていたことを知っても、まだ「騙された」という考えには辿り着けなかった。


 貯金を全て失った私には、マンションローンと消費者金融への返済の両方など払えるはずもなかった。

 マンションはすぐに2軒とも売ったが、売り急いだのともともと相場より高く買わされていたせいで、どちらも買った時の半値だった。

 半値でしか売れなかったせいで、マンションを失ったのにまだ多額のローンは残り、消費者金融への返済はそっくり残った。

 返済はすぐに滞り、サラ金が会社に何度も電話をかけてくるようになって業務に支障をきたしたため、私は会社を辞めさせられることになった。




『なんか大変なことになってるって聞いたけど、大丈夫?』


 私を心配して、優花が電話をくれた。

 母は音信不通で父は亡くなり、頼れる人が誰もいなくなっていた私は、中学時代の親友からの電話が泣きたくなるほど嬉しかった。

 私は涙を流しながら、自分の身に起きたことをすべて話した。


『なんで実印とか渡しちゃったの。ちょっと信じらんない』


 呆れたように優花が言ったので、私は自分の能力のことを話した。

 母からきつく止められていたので、今まで家族以外には打ち明けたことがなかったのだ。


『……萌、あんた疲れてんじゃない? 嘘を見破る能力なんて、あるわけないじゃん』

「本当だってば。中学の時に優花を好きだって言った男の子の嘘だって見破ったし」

『中学の時って、まさかそれ、大樹のこと?』


 急に、優花の声が冷たくなった。

 

『この前、たまたま大樹に会って言われたんだけど、私のこと中1の時からずっと好きで、あんたから私にカレシがいるって聞かされて諦めた…って。

 なんでそんな嘘ついたの? それも訊きたくて電話したんだけど』


「だからそれは、大樹君が優花を好きだって言ったのが嘘だって分かったから――」


『だーかーら、嘘を見破る能力なんて、あるわけないじゃん。

 もしあるなら、あんた何で今そんなことになってんの?』



 不意に、目の前の霧が晴れるように、全てがつながった。



 共感覚とは、ひとつの感覚刺激から通常の感覚に加えて別の感覚が無意識に引き起こされる現象で、バドル系マンガやファンタジーに出てくるような異能ではないのだ。


 嘘を見破る特殊能力などでは、ない。

 

 父の出張を嘘だと思ったのは、父の不在が寂しくて出張に行ってほしくなかったから。

 いつも父の言葉に甘味を感じていたのは、父は文字通り私を甘やかすばかりだったから。

 後妻や再婚後の父の言葉に苦みを感じたのは、父を独り占めしたくてもそれが叶わなかったから。

 大樹君が優花を好きだと言った時に苦く感じたのは、私も大樹君が好きだったから。


 比喩的にも「甘い言葉」「苦言」と表現するし、「梅干」と聞いて「すっぱい」と感じるくらいのことならば誰にでもあるのだろう。

 私はただ、好き嫌いや快不快のような感情が、味覚に強く結びついている認知特性の持ち主であるだけだった。


 それなのに私は、自分に特別な能力があると信じていた。


 いや、共感覚について知ったあの時、本当は気づいていたのかもしれない。

 ただ、認めたくなかったのだ。


 自分に特別な能力があれば――自分が特別な存在であれば――愛してもらえると思ったのだ。


 小言を並べるばかりで私の言葉をまともに聞こうとしなかった母や、叱るべきときであっても、ただ甘やかすばかりで親としての責任を果たしていなかった父から、本当の意味で愛してもらえると信じた。


 信じたかった。


 自分には愛される価値があると、ただそう信じたかった。

 





 

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