ネタバレ ~初めての夜が明けたら15年前の朝でした。~

春待ち木陰

ネタバレ ~初めての夜が明けたら15年前の朝でした。~

 

「ももって好きなヤツいんの?」


 休み時間。何気ない会話を装って日高君がももに尋ねた。


「居るよ」とももは即答する。


「綾香ちゃん」


 そして私の名前を口にした。


「ありがとー」と私は笑ってももを抱き寄せる。


「私もももが好きだよー」


「きゃー。綾香ちゃーん」とももは喜んでいた。


「いや、そーゆー好きじゃなくて」と日高君は苦笑いしていた。


「そーゆー好きだもん。あたしは綾香ちゃんが好き」


 ももが言った。


「はいはい」


 日高君とももの間に座っていた関さんが「中二にもなって友達同士で好きとか」と不愉快そうに呟いた。


 私は知っている。関さんは日高君の事が好きで、日高君がももの事を好きなのだと誤解していた。だから関さんはももが嫌いだった。ももに罪は無い逆恨みだ。


「綾香の事は置いておいて。好きな男はいねえの?」


 私は知っている。日高君はももが好きで、ももに探りを入れているように見えはするがその実は日高君の親友の小野寺君がももの事を好きで小野寺君の為にそんな事を聞いているのだ。私達とはクラスが違っていて、ももと直に接する機会が少ない小野寺君の為に日高君は普段からちょいちょいとももの個人情報を探っていた。


「昨日のテレビ、見たか? そうそう。ももは醤油派か? 塩派か?」


「駅前にカラオケ屋が出来たの知ってっか? もう誰かと行ったか?」


 等々。


 更に言えば小野寺君はそんな事を日高君に頼んではおらず、日高君は良かれと思って独断でお節介を焼いているのだ。


 ただ小野寺君も小野寺君でそのお節介を「止めろ」とは言わなかった。小野寺君は日高君からもたらされるももの情報を享受していた。


 私は知っている。


「中学生になっても高校生になっても大学生になってもオトナになっても、あたしはずっと綾香ちゃんが好きだもん」


 ももの「好き」はいわゆる「LIKE」だ。「LOVE」じゃない。


「男の子だったら日高君の事も好きだよ」


「だから! そういう事を言わない!」


 無邪気に伝えたももを関さんが怒鳴りつけた。


「ももは『男の子として』日高を好きなわけじゃないでしょ!」


「落ち着いて。落ち着いて。関さん。大丈夫だから」と私は口を挟んだ。


「何が大丈夫なのよ!」


「何が」か。私は知っている。関さんと日高君はこの中学校を卒業後、同じ高校に進学するも「仲の良い友達」のまま高校も卒業してしまう。大学生時代の四年間は疎遠になってしまうがその後、偶然に再会して付き合う事となって結婚をする。子宝にも恵まれる。三十路手前のクラス会では二人ともとても幸せそうにしていた。


 でも。言えない。私は何も口には出来ない。


 それは関さんや日高君の為でもあった。


 私が今、下手な事を言えば未来は変わってしまうかもしれない。


 強固な意思や必然を変える事は簡単ではないだろうが関さんと日高君は「偶然」に再会するのだ。日々の重なりが偶然を生むのならその日々に手を加えてはいけない。


「まあまあ。とにかく落ち着いて。日高君も分かってるでしょ? さっきのももの『好き』がどういう意味か」


「とーぜん」と日高君はまた苦笑いを浮かべていた。


「ミイラ取りがミイラになってどーするよ」


 ちょっと意味が違う気もするが日高君の言いたい事は伝わった。小野寺君の件を知っている私には。ももや関さんには意味が分からなかったかもしれない。


「ミイラ? 何の話?」とももは小首を傾げる。


「何言ってるのよ」と関さんの機嫌は少しだけ回復していた。


 怒ってばかりに見える関さんだが本当は凄く可愛い女の子なのだ。


 私は知っている。


 今から十五年後までの未来を。




 十五年後。二十九歳。その最後の夜。三十歳を翌日に控えて私はずっとずっと好きだったヒトと初めて一夜を共にした。同じベッドで手を繋いだまま一緒に眠った。


 そして目を覚ましたら中学生になっていた。戻っていた。十五年前に。


 私はあの日に帰りたい。またあの夜を迎えたい。


 今はまだ私の事を「LIKE」としか思っていない彼女ともう一度キスがしたい。


「好きだよ」とじっと見詰め合いたい。


 諦める事も疑う事も忘れてただ幸せを感じ合いたい。


 添い遂げたい。


 私はももが好きだった。「LIKE」ではなくて「LOVE」だ。


 小学生の頃からだ。中学生になってもまだ好きだった。


 私は知っている。その気持ちは高校生になっても大学生になっても社会人になっても変わらない。私はずっとずっとももが好きだった。


 その気持ちを抱えたまま私は今、中学生に戻っていた。


 今から十五年後までの「好き」がこのまだ薄い胸には詰まっていた。


 今の私は当時の私とは比べ物にならないくらいにももの事を愛してしまっていた。


 そのせいだろうか。勘違いしてしまいそうになる。


「綾香ちゃん、好きー」


 当時も耳にしていたはずのももの「好き」が「LOVE」に聞こえる。


「綾香ちゃーん」


 腕に抱き付いてくるももの体温はこんなにも高かっただろうか。


 十五年後の夜、ももは私を「好き」だと言ってくれた。


 もしかしたら今の段階でももうその「好き」の芽ぐらいは出ているんじゃないか。「好き」の花はまだ咲いていないとしても。


 いや違う。今のももは私の事を「LIKE」としか思っていない。私は知っている。


「――綾香ちゃん」


 ももが私の名前を呼んだ。「ん?」と私は現実に目を向ける。


「ずっとずっと変な顔してる。そんなに難しいの?」


 ももが私の手元を覗き込む。


 私はノートにシャーペンの先を置いたまま「ずっとずっと」考え込んでしまっていたらしい。ノートの隣には科学の教科書も開かれていた。


「どこだ? 俺で分かるところなら説明するぞ」


 小野寺君が言ってくれた。


「教科書の文章って逆に解りづらい書き方してるときがあるよな」


 フォローも忘れない。いや中学生男子の発言だと考えると天然か。


 小野寺君は根っから優しくて本当に良い男の子だった。


「んー。多分、大丈夫」と私は小野寺君からの提案をお断りする。


「でもありがとう。やっぱり後で聞くかもしれないけど。今は大丈夫」


 これがフォローだ。二十九歳の社交辞令だ。


「了解。遠慮しないでいいからな」


「うん。そのときはよろしく」


 私達――私とももと小野寺君の三人は今、放課後の教室で自習していた。私とももの教室だ。そこにクラスの違う小野寺君がやってきていた。


 自習の目的は来週から始まる期末試験に備えてだ。日高君が「親友の小野寺君を巻き込んで」このお勉強会をセッティングしたが、自習の開始からわずか五分で「急用」を思い出して、言い出しっぺの幹事だったのに帰宅してしまった。


 その際、日高君は私に何やら目配せをしていたような気もするが鈍感な私は何も察する事が出来なかった。十五年前は本当に。今回は意図的に。


 更には誘ってもいなかったのに、


「私も教室で勉強しようかな。家だと集中できないから」


 と自主的に参加してきたはずの関さんも開始から七分で、


「やっぱり家で一人で勉強した方がはかどるかも」


 と、まるで日高君の事を追い掛けるみたいにして教室から出て行ってしまった。


 あっという間に五人から三人だ。


 こうなると気が抜けて、


「私達も帰ろうか」


「そうだな」


「はーい」


 となりそうなものだったが。


 この日の私達は何故か取り残された三人のまま自習を続けていた。


「ねえねえ。小野寺君」


 ももが言った。


「クラスが違うと授業の進みって違うでしょ? 私達と一緒に勉強してて大丈夫?」


「え、あー」と少しだけ考えた後、


「多少の違いはあるかもしれないけど期末試験の範囲は一緒なんだから大丈夫だろ」


 小野寺君はニカッと白い歯を見せて笑った。


 何の笑みだろう。笑顔がこぼれるような答えだったろうか。


「小野寺君て頭良いの? 綾香ちゃんに教えられるくらい」


「あー。科学は得意ってか好きなんだ。他の教科は別にして科学なら自信があるぜ」


 連続でももに話を振られて、小野寺君が張り切って答える。


 その中学生男子らしい言動に私は「ふふふ」と微笑んでしまった。ももを巡る「恋敵」ながら、十五歳も年下の男の子だと思うと素直に可愛らしいと認めてしまえる。


「えー。綾香ちゃんだって頭良いんだからね。ね? 綾香ちゃん」


 ももは言ってくれたが、


「どうかなあ。去年まではそれなりだったと思うけど。二年生になってからちょっと授業が難しく感じてるよ」


 私は謙遜で予防線を張っておいた。


 正直、心と頭は二十九歳のままだからと気を抜いていた。気楽に考えていた。高を括っていた。今更、中学生レベルの試験なんて楽勝だと思って問題集を開いてみたら意外や意外と難問だった。


 そう言えば、テレビのクイズ番組では偏差値の高い大学を卒業しているという芸能人達が小中学生レベルの問題に四苦八苦やら一喜一憂やらしていた。


 普通の大学を普通に卒業して普通に働いていた二十九歳の頭では、もっと難しいと感じてしまって当然だろう。


 試験やクイズ番組以外では使わない知識だ。普通に過ごした十五年の間に忘れてしまっている事も多いし、そもそもはじめから耳を素通りして頭の中にまでは入っていなかった知識も多い気がする。


 このままでは不味いかもしれない。


 中学生時代――十五年も前の授業内容なんて覚えている事の方が少ないくらいだ。


 このままでは「当時」よりもずっと低い点数を取ってしまうかもしれない。


 未来が変わってしまう――?


 それは駄目だ。


 ここは本気で頑張らないといけない。


 ただ逆に点数を取り過ぎてしまって順位が一桁にでもなろうものならそれはそれで未来が変わってしまいそうだ。


「頑張り過ぎてしまわない程度に頑張ろう」


 私の呟きを耳聡く聞いていたももが、


「はーい」


 と返事をしてくれた。


「そうだな。急に詰め込み過ぎると溢れるからな」と小野寺君も同意してくれた。


 それでも、私達三人は完全下校時刻の六時になるまで二時間以上も一生懸命に勉強してしまった。


 その日の帰り道、


「綾香ちゃん。今夜、電話してもいい?」


 帰路の途中で小野寺君とは別れて私と二人だけになった途端にももが言い出した。


「電話? 何? 今は話せない事?」


「今はっていうか。話したい事があるっていうんじゃないんだけど」


「ん?」


「綾香ちゃんと電話しながら二人でさっきの勉強の続きがしたいなあって」


 ももからの意外なお誘いだった。


 ももの成績は確か中の中の上程度でもも自身は勉強が好きでも嫌いでもないという印象だったが実際のところ、ももの本当の心持ちは他人の私には分からない。


「さっきの勉強、楽しかった?」


 笑いながら私は聞き返した。


「んー。うん、んー」とももは曖昧に頷いた。


「綾香ちゃんと二人の方が良いかもって。それに関ちゃんも勉強は家でした方がって言ってたし」


「あれ。関さんは『家で一人で』した方がはかどるとか言ってなかった?」


 私はちょっとだけイジワルを言ってしまった。ふふふと笑う。


「えー。だって。本当に一人だったら勉強しないと思うし。綾香ちゃんと一緒だったら頑張れると思うんだけど。ダメかなあ」


 夜に自宅の自室で電話線を介した二人きりのお勉強会か。


 中学生同士に相応しいほのかな甘みが醸し出される非常に魅力的な提案だったが、


「夜に電話を繋いだまま二人それぞれの事をする――かあ。そういうのは女子高生がしてるイメージだなあ。うーん。中学生の私達にはまだちょっと早くないかな。今は止めておこうよ」


 私ははっきりと断ってしまった。


「そこからどんどんエスカレートしちゃいそうで」と適当な言い訳も付け加える。


「あー。そっかあ。そうかも。そのうち二十四時間ずっと電話を繋げておきたいとか思っちゃいそう」


 何気ないももの呟きに私はドキリと不意を突かれてしまった。


 思わず私は前言を撤回してしまいそうになる。


 ももは「そっかあ」と残念そうにはしていたが案外と簡単に引き下がってもくれていた。私にとってそれは本当に魅力的な提案であったから、ももに重ねてお願いされていたら押し切られて「しょうがないなあ。じゃあ少しだけ」なんて頷いてしまっていたかもしれない。


 それほど魅力的に感じていたももからの提案をはっきりと断ってしまった理由は、その電話を繋いでのアレコレは「十五年前」にはしていなかった事だから、だ。


 その前段階、小野寺君を加えたももと三人での勉強会は記憶に残っていた。


 確かに三人で自習をした。


 記憶の中でも五人から始まってすぐに日高君と関さんが居なくなっていた。


 今回の件は記憶と合致する。


 けれども。夜に電話をしながらの勉強会はしていない。私の記憶には無かった。


 ももの事は大好きだけれど。流石にももと交わした会話の全てを記憶しているわけじゃない。「今夜、電話してもいい?」だなんて遣り取りが「十五年前」にもあったかどうかは正直、分からない。覚えていない。だからといって、確実に無かったとも言えない。


 ただ「夜に電話をしながらの勉強会」は確実にしていなかった。


 提案の段階でもうこんなにもドキドキしてしまうイベントだ。無事に開催していたのなら忘れるわけがない。


 そして。そこまでの提案ながら、当時の私なら断ってしまっている可能性は十分にあった。


「十五年前」の私には遠慮があった。葛藤があった。常に悩んでいた。自分で勝手に踏み止まってしまっていた。


 何の奇跡か冗談か思い掛けずやり直せてしまっている今なら自分の気持ちにもっと正直になってももに誘われるまま、むしろこちらからももを誘って、思うままイチャイチャとしてみたいところだけれど。


 ももと結ばれたあの夜をもう一度迎える為には我慢をしないといけない。


 出来る限り「十五年前」と同じ道筋を辿りたかった私は涙を呑んでももからの誘いを断った。内心、大いに揺れながらも最後まで前言撤回はしなかった。


 期末試験が無事に終わると続いては球技大会だ。


 球技大会は女子と男子に分かれてのクラス対抗戦だった。


 それも全クラス総当たり戦ではなく負ければ終わりのトーナメント形式だ。時間の都合があるのだろう。


 女子の競技はバスケットボールと卓球、男子は同じくバスケとサッカーだった。


 バスケに参加していた私のチームと卓球に参加していたもものチームは共に一回戦で負けてしまって、私の勇姿をももに見てもらう事もももの頑張りを私が応援する事も出来なかった。


 球技大会自体はまだまだ数時間も続くのにもう手持ち無沙汰となってしまった私とももの二人は体育館内の壁際に腰を下ろして、


「残念。負けちゃったねえ」


「ねー。あーあ。綾香ちゃんが試合してるところ見たかったなー」


「同じ時間帯の試合だったからねえ。そういう意味でもくじ運が悪かった」


「場所も体育館の一階と二階だったもんねー。同じ階だったら横目で見られたのに」


「自分の試合中に? 集中しなさいよ」


 他愛もないオシャベリをしていると。すぐ向こうで関さんが一人、右に行ったり、左の方に来てみたり、そわそわ、うろうろとしている姿が見受けられた。


「あれー。何してるんだろー。関ちゃん」


 関さんはももと同じ卓球のチームに参加していた。チームはトーナメントの一回戦で敗退だ。ももと同じ境遇である関さんもやる事が無くなっているはずなのだが。


 私は「よッ」と立ち上がって、


「関さん。どうかした?」


 と関さんに声を掛けた。ももが気にしていたからだ。


「え。あ、……別に」


 関さんは私に振り向いてすぐにまた前を向いてしまった。


 関さんの前方には生徒達の厚い壁があった。その壁の向こうでは男子達がバスケの試合をしていた。


 ああ。なるほど。関さんは日高君の活躍を見守ろうとしていたのか。


「なにー? なにが見えるの?」


 のんびりとももが私の隣にやってきた。


 目の前に立ち塞がる生徒と生徒の間からその向こう側を覗き見ようとももが大きく首を傾げる。


 偶然だろう。私の右肩にももの小さな頭がそっと乗せられた。


「えッ!?」


 その瞬間を迎えて初めてももが首を傾げていた事に気が付いた私は、変な勘違いをして大きく驚いてしまった。勢い良くそちらを向いてしまった。


「えッ!?」という私の悲鳴に、


「え?」


 と驚き返したももも同じように私の方へとその顔を向ける。


 私とももは超が付くほどの至近距離から互いの目を見合った。


 ももの目に映る私が私を見ていた。


「うわッははは……」


 驚きを笑い声で誤魔化しながら私はももから顔を背ける。


 このときももがどういう反応をしていたのか。私は知らない。見えていなかった。ただ何の言葉も聞こえてはきていなかったから、ももは何も反応などしていなかったのかもしれない。


 恥ずかしい。


 ももと顔を寄せ合った事を恥ずかしがってしまった事が恥ずかしい。


 恥ずかしがってしまった顔をももに見られた。恥ずかしい。


 ももには格好良い私だけを見せたいのに。情けない姿は見せたくないのに。


 ――気が付けば球技大会は終わっていた。


 体育館から校舎の中へと戻る途中、私とももの二人は何故か小野寺君に「せっかく応援してもらったのに勝てなくてごめんな」と謝られてしまったが私には小野寺君を応援したという記憶がなかった。覚えていない。


 応援したのか? 私が。小野寺君を?


 どうして?


 そもそもこの球技大会はクラス対抗戦で小野寺君は私やももとは別のクラスだ。


 応援する理由は無いはずなのだが、


「ううん。ゼンゼン。小野寺君は頑張ってたよー」


 ももの発言から察するに少なくともももは応援をしていたようだった。


 が覚えていない。思い出せない。


 私が思い出せるものはももの目に映る自分の姿ばかりだった。


 夏休みを挟んで運動会。小野寺君と日高君がリレーの選手に選ばれた。


 クラスの違う小野寺君と日高君は仲間同士ではなくて敵同士だ。


 私とももと関さんはそれぞれに違う思いから日高君を大声で応援した。


 競技がリレーだったので「よーいどん!」と同じタイミングでスタートできたわけではなかったが結果として先に次の走者へとバトンを繋いだのは応援していなかった小野寺君の方だった。


 秋も深まって校外学習。二年生全員が近場にある美術館へと連れて行かれる。


 その道中。私とももは並んで歩いていた。道路の右側。私の右手側にももが居た。横断歩道を渡って道路の左側に移る。その際にごちゃついてしまったせいで、本当に偶然、私はももの右側に立った。その立ち位置のまま歩みを進める。


 横断歩道を渡る前、左を向いて「綾香ちゃん」と笑っていたももが、


「あれ? 綾香ちゃん?」


 横断歩道を渡った直後に違和感を訴えた。それから右を見て、


「あ。綾香ちゃん」


 にこにこにこーと顔全体で微笑んだももは、


「すごいね。さすが。綾香ちゃん。やさしい。かっこいい」


 手放しで私を褒め始めた。


「ん? え? なに?」と呟いてしまってから私は「……ああ」と察した。


 ももは多分、私がももの事を庇って歩道の車道側をひそかに選択し続けていると勘違いしたのだ。そう「勘違い」だ。ただの偶然だ。横断歩道でごちゃついてももの右側に来てしまった事も、もっと言えばその前にももの左側を歩いていた事も。私が意識してそうしていたわけではなかった。


 けれども。ももの「勘違い」を言葉にして訂正しようとすれば「私が車道側を歩いているのは偶然だから」なんてツンデレみたいな話をしなくてはいけなくなる。他のクラスメイト達もすぐ近くを歩いているのに。


 また、ももは「すごいね。さすが。綾香ちゃん。やさしい。かっこいい」と言っただけで「車道側ウンヌン」に思い至ったと明言しているわけじゃない。もしかしたらそこまで考えが及んでいないかもしれない可能性もなくはない。その場合にわざわざ私の方から「車道側ウンヌン」と語り始めたりしてしまったら大恥をかく事になる。


 私はももに嘘を付きたくなかった。ももを騙したくはなかったがそれでも、ももの「勘違い」をこの場で訂正する事は難しかった。


 多分、きっと、恐らくは間違いなくももは「勘違い」をしていると思われるが今はどうしようもない。


 非常にきまりが悪いが仕方がなかった。


 ももは他人の優しさに敏感だった。


 それはもも自身が優しいからとも思えるし、もっと単純に優しさを欲しているからとも思えた。ももは優しい人が好きだった。


 十二月。冬休みが始まる直前の事、ももは小野寺君に告白をされた。


 もうすぐクリスマス。


「綾香ちゃん。あのね。あたし、小野寺君に告白されたんだ」


「十五年前」の道筋をなぞれば、ももと小野寺君は恋人同士になる。


 その交際は中学校を卒業して高校生になっても続き、大学生になっても途切れず、二人は夫婦にまで至る。


 だがその途中で一度だけ小野寺君は不貞を働いてしまう。


 小野寺君は根っから優しくて本当に良い男の子だった。


 他意無く優しくされた一人の女性が自然と小野寺君の事を好きになり、その熱烈な想いにほだされてしまった小野寺君は一度だけその女性と肉体関係を持った。


 それはまだももと小野寺君が結ばれる前の出来事だった。


 小野寺君の初めての女性はももではなかった。


 根っから優しくて本当に良い男の子の小野寺君はその事をももに白状してしまう。


 ももとの初めての夜での事だった。


 ももは何となく気が付いていたそうだ。それでも知らないふりをしていた。


 知りたいとは思っていなかった。


 なのに。


 小野寺君はももに問い詰められたわけでもないのに自白した。


 洗いざらい全てを打ち明けた。


 小野寺君はももを愛していたから。


 懺悔した。罪を告白して赦しを請うた。


 ももは赦すしかなかった。


 知らないふりをする事ですでに赦していたようなものだったが、小野寺君の懺悔によってそれが明確となった。


 小野寺君は赦しを得て、ももは事実を受け入れた。


 ももの胸の内、ずっと有耶無耶にしていた何かが定かな質量を持った。


 確かに存在する思い。だがその名前が分からない。


 この頃からももは小野寺君の優しさをただの優しさとしてだけ感じる事は出来なくなってしまっていっていた。


 結婚後、両家が集まって会食していた席でももはぽつりと小野寺君の過去の不貞の事実を漏らしてしまった。


 怒られた。


 小野寺君にではない。自分の家族に。小野寺君の家族に。


 そんな話は他人に聞かせるものじゃないとか一度くらいはとか昔の話だとかむしろ男の甲斐性だとか謝ったんだから赦してやれとか一度赦したものを蒸し返すなとか。


 悪い事をしたのは小野寺君の方だったはずなのに。現実で責められているのはももだった。まるでももの方が悪いみたいだった。


「その程度の事で」と誰かは言うだろう。だがももにとっては「その程度」の事ではなかった。


 その後、


「誰も優しい人が居ない」


 ゆっくりとだったが確実に精神を病んでいったももは「最期」に全てを吐露してくれた。それは遺言のようなもので相談や愚痴ではなかった。


「死にたい」


 と呟いたももを私は強く抱き締めた。きつく抱き締め続けた。


 ももが私を「好き」だと言ってくれたのはそれから半年も経ってからだった。


 精神的に参っていたももを無理矢理に抱いたわけじゃない。


 私は準強制猥褻をはたらくつもりはなかった。


 私とももは苦難を乗り越えながら互いに想い合って結ばれた。


 あの夜、私とももは確かに幸せを感じたはずだ。真実の愛を確かめ合ったはずだ。


 あの夜を再び迎える為には、ももにまた「死にたい」と呟かせなければならない。


 ももは精神的に参った事から私の思いを受け入れてくれた。


 でなければ生粋の異性愛者であるももが同性の私を「好き」だなんて思わない。


「付き合ってほしいって言われた。クリスマスの日に二人で出かけようって。ねえ。どうしよう。どうしたらいいかな? 小野寺君の事、綾香ちゃんはどう思う?」


 私がまたももと結ばれる為には――。


「――止めておきなよ」


 私は言った。口が勝手に動いていた。


「え……?」とももが目を見張る。


 嗚呼。これで「十五年前」の道筋からは大きく外れる。


 私とももが結ばれる未来は消滅した。


 でも。


「なんで?」とももが言った。


「ももに幸せになってほしいから」と私は答える。


「小野寺君じゃダメなの?」


「無理だね」


「そうなんだ……」


 ももは「じゃあ」と私を強く見た。


「綾香ちゃんなら?」


「え……?」


「綾香ちゃんがあたしを幸せにしてくれる?」


「……え?」


「それともあんな未来はもうこりごり?」


「もも……?」


「小野寺君との事を反対してくれたから。わかっちゃった。綾香ちゃんはあたし達の未来を覚えてる。そうでしょう?」


「それって……ももも?」


「あたしが何をしても綾香ちゃんはゼンゼン、昔の綾香ちゃんのままで。また一緒になるには前と同じように小野寺君と過ごさなくちゃいけないんだと思ってたけど」


 ももも私と同じ事を考えていたのか。ももはあの夜を覚えていた。


 私の目から涙が溢れる。


「……嬉し泣き?」とももが小首を傾げる。


 違う。


「哀しい」


 私は答えた。


「何が? どうして?」


「ももには幸せになってほしかったのに。ももは覚えてるんでしょ?」


「死にたい」と呟くに至ったその思いを。


「うん。でも。ちゃんとあたしは幸せだよ。綾香ちゃんが居てくれるなら」


 ももは笑った。



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