31.たった一欠けらの

 私は人を殺してしまった。つまり、殺人犯だ。その事実に私の体はがくがくと震え、歯は噛み合わせがうまくいかないほどだった。そして何より隆一の一番大事な者を、私が奪ったのだ。私は明美を助けることが出来たかもしれないのに、できなかった。いや、しなかった。結果自体は同じでも、そこにいたる経緯はその感情によって大きく異なる。ひしゃげたボンネットには明美の傘が、骨組みを半分晒して突き刺さっていた。それは偶然とは思えなかった。まるで最期の彼女のメッセージのように見えた。蜘蛛の巣状に割れたフロントガラスには、明美のものと思われる血がついていた。冷めて硬くなった体は動けなかった。ただ荒い吐息が白く激しく吐き出されていた。


 死んだのは明美の方だったのに、私は走馬灯のように昔のことを思いだしていた。子供ができた時の広大の言葉は絶望をもたらし、奪われた命名権は怨恨となった。手放した幸せは失望を告げ、成長する隆一には恐怖した。そして子供を奪った女性には、激しく嫉妬した。それらが今、まさにこの一瞬に混然一体となって、私を襲った。


 私は無意識の内に車の外に出ていた。明美のもとには少女が泣きついていた。美しい少女は、明美の遺体を抱きしめるようにしながら私に何かを叫んだ。しかしあまりの衝撃に、私の五感は全て喪失状態だった。ただ、「人殺し!」という言葉だけは、私の鼓膜を大きく震わせた。その前後はノイズのように聞き取れなかった。

私は罪には問われなかったが、隆一は私を見なくなった。言葉を交わすこともなかった。当然だ。隆一はそのまま上京し、私は夫と二人で暮らした。


 しかし隆一が大学三年になった頃、夫に癌が見つかり入院した。隆一はケイタイを変えたらしく、通じなかった。そのため仕方なく大学の事務に電話をかけて、夫の病状を隆一に伝えてもらった。それでも隆一はしばらく帰ってこなかった。おそらく、悩んでいたのだと思う。隆一が帰ってきたのは、夫の死期が迫った頃だった。この頃の夫は、抗がん剤治療を止めていた。


 そして隆一は夫が亡くなる前に、私とは会わずに東京に帰った。当たり前のことなのに、私の心に風穴があいたようだった。


 夫がいなくなった家は寂しく、広かった。こんなところに幼い隆一が帰って来ていたのだと思うと、愕然とした。私は夫がいなくなって初めて、隆一の気持ちを理解することが出来たのだ。私は一日中、何もせずに呆けて暮らしていた。これまで日課としてきた家事もやろうとは思えなくなり、食事や着替えという日常の基本的で根本的な部分でさえ、億劫で仕方がなかった。次第に時間も、年も、日時も忘れていった。


 テレビの時間と外の暗さと、ちぐはぐな自分の格好を見て、私はようやく自分がぼけ始めていることに気付いた。


 私はすぐにいつ使ったのかもわからない日に焼けた便箋を本棚の中から引っ張り出し、電話の脇にあったボールペンを握った。長い間埃にまみれていたボールペンのペン先は固まって、インクが出なくなっていた。私はそれでも便箋一枚を無駄にして、ボールペンの先からインクを絡め出すことに成功した。そして次の便箋に文章を書き始めた。文章と言っても考えながら書いたわけではない。始まりは小学生の作文のように「私は」から始まっていた。それに加え、同じ内容を何回も書いた気がする。それでも私が私でいられるうちに、書いておかねばならなかった。それが唯一、私が隆一にしてやれることだったからだ。隆一は私を許すことができないだろう。きっと近いうちに私を殺しに来る。これが私のただの被害妄想ならいいが、それでは済まないに違いない。隆一を、ただの殺人犯にしたくない。それも、母親殺しの極悪人として世間の目に晒されるのは我慢ならない。だから私は必死にペンを走らせた。私が私である内に、私がしてきたすべてのことを、正直に全て書ききろう。それから、遺書も書いておこう。私がこの先、ふとしたきかっけで自我を再び取り戻した時に、自らの命でせめてもの償いができるように。つまり、機会に恵まれれば自殺できるように。隆一が万が一にでも警察に捕まった時に、せめて殺人罪ではなく、自殺幇助となるように。ただ一つ書かなかったのは、隆一の出生の秘密だけだった。


人は私を忌み嫌うだろう。それでいい。それでも私は幸せか幸せでなかったと聞かれれば、幸せだった。


そして、あの時、殺意があったかと聞かれれば。




「そうかもしれない」





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