30.助けられなかった

「やっぱり家では君も俺も忙しくて隆一にかまってやれないからな。夕食を大勢で食べるのは楽しいんだろ。まあ、あと一年くらいで大学受験に向けて勉強するだろうから、それまでは恩返しのつもりでボランティアやってるんだろうな」


「大学なんて。しかも国公立なんて……」


 私も耕作も、大学を出ていない。短大ですら手が届かなかった。高校を出てからすぐに就職した私たち夫婦からしてみれば、大学は未知の世界なのだ。夫は農業高校を卒業してからすぐに家業を継いだ。私はごく普通の高校を出て、就職も決まらずにパートで稼いでふらふらとしていた。おそらく両親はそんな私の将来を危惧して結婚話を勧めたのだろうが、私はそのパート先で今の恋人である広大と出会っていたのだ。そして隆一を身ごもって、出産してからはほとんど専業主婦だった。


「鳶が鷹を生んだな」


 夫は嬉しそうに、そして誇らしげに笑った。私は、笑えなかった。


 隆一は夫の予想を裏切って、高校三年の夏になっても家に戻らなかった。自宅に戻るのは、眠る時とシャワーを使う時だけだった。深夜に帰って来る両親よりも早く起きて、タイマーで炊けた白米を塩おにぎりにして、隆一は平日はもちろん、土日も祝日も出かけた。その姿は幼い頃よりも生き生きとして、私にはまぶしくて仕方がなかった。母親にとってその成長は嬉しいことのはずなのに、私の心の歯車はどこか狂っていて、悔しさが沸き起こる。それは曇天にさらに黒い雷雲が発生したかのように、私の心の中に広がった。そしてそのことについて、決まって自己嫌悪する。自分が投げ出した子供を、今さらになって返してほしいと思う自分がいる。そして母として、女として、明美をひどく妬んでいる。それでもなお、広大のことが好きな自分がいる。


 もし結婚していたのが広大だったら、幸せな家庭を持てたかもしれないと、今となってはありえないことを夢想する自分がいる。何て浅ましく、愚かな人間の欠陥品だろう。私は広い和室の片隅に座り込んで、自嘲しながら泣いていた。玄関の方から朝の光がさしこんでいるが、私は首を振ることしかできなかった。私はそちらには行けない人間だ。光を浴びるには、遅すぎたのだ。そして、あまりにも身勝手だったのだ。


 その年の冬は、例年よりも一か月も早く初雪が降った。普段なら初雪は積もらないはずだったが、今年は雪が降り続き、そのまま根雪となった。気温も例年になく低い日が続いた。毎日自分の腰ほどもある雪を片づけるのは、大変な重労働だった。それでも隆一は夜が明けない内に雪かきをした。自分の腰の高さまである雪を、赤い鉄製のスノーダンプに器用に乗せて流雪溝の蓋を開ける。流雪溝の蓋は二重になっていて、一枚目の細かな網目の蓋を開けると、二枚目の粗い格子状の蓋がある。本来二枚目の蓋を開けて除雪作業を行うことはルール違反だが、町の人々は雪かきに不自由なため開けて作業をしていた。しかし隆一は、小さな子供やお年寄り、滑って転んだ人が流雪溝に落ちないように絶対に二枚目の蓋を開けなかった。隆一は人一倍時間をかけて雪を流雪溝に流す。それを気の遠くなるほどに繰り返す。雪の塊は流雪溝に流れている水の流れに乗って、次々と流れていく。まるで自分の中にある感情までも水に流すように、隆一はその作業に没頭した。作業が終盤になると暗かった空が、徐々に白んできていた。しかし隆一はそんなことにも気を取られず、雪を運び続けた。そしてその作業が終わるとすぐに勉強道具とおにぎりを持って朝から出かけた。


 朝の雪は締まったまま凍りついて固まり、スキー板など何もはいていなくても雪の上を歩けるほどだった。圧雪状態の道路に、夜の内に落ちたと思われる雪庇が、粉々に砕けたガラスのように散乱していた。化け物の牙のように太く長く伸びた氷柱は、建物の中の人間をたいらげる寸前に見える。そして屋根から垂れた氷柱が地面にまで達し、文字通り太い氷の柱が何本も等間隔にできる様は、まるで私を檻の中に閉じ込めたようだ。雪庇と共に落ちた細い氷柱の方は、まるでその化け物の小骨が道に生えてきたようだ。その氷筍は、何故か今の私と重なって見えた。





 運命の夜が訪れたのは、寒さの底と天気予報が言っていた日だった。こんなちっぽけで、存在自体が間違っているような人間が、神々しい自然の造形に自分をなぞらえたのが、そもそもの間違いだったのだ。細かい雪の結晶がガラスので出来ているかのように、はっきりとした形を持ったまま地上に落ちて来ていた。


 夕方までいつものように偽りに満ちた日常を送っていた私は、何故かこの日に限って「カッコウの巣」を遠くからでいいから見てみたいと思った。広大と会っていた帰りに、家まで遠回りになると知りながら、車でうろうろとしていた。住所は詳しくは知らない。知ろうとしなかったからだ。ただ、この地区にあると聞いたから、それらしき「施設」を探していた。しかし、変わり映えのない民家が並んでいるだけで、「施設」らしき物は見当たらなかった。しかも今は冬で、屋根のトタンの色さえ分からない。どれも雪に埋もれたカマクラのように見える。外垣がされているから、部屋の様子や窓の形も曖昧だ。時々屋根から落雪する音が、巨人の足音のようにどすん、どすん、と近づいてくるように響いてきた。


 そんな時、真っ白な雪と夜の暗闇のモノトーンの中に、水色の傘が揺れているのが目に入った。傘をさしていた女が、頭上で重くなった雪を払う。重たそうなビニール袋を両手に持っていた。女は横断歩道を渡る。街灯に照らしだされた女は、栗色の髪をゆるく巻いていた。私は何の根拠もなく、その女が戸田明美であると確信した。そして彼女についていけば、「カッコウの巣」にたどり着けると思い、ハンドルを切った。


 しかし歩道と車道には高い雪壁ができていて、私は完全に彼女を見失ってしまった。私は諦めて帰ろうとしたが、そこに突然、水色の傘をさした人影が飛び込んできた。私はアクセルとブレーキを間違えて踏み込んでいた。そこが圧雪された道であることも忘れていた。ハンドルを思い切り切って、今度こそブレーキを強く踏み込む。しかし車は見えない糸で引っ張られるように、明美の体に吸い寄せられた。

そして気付いた時にはもう、彼女の体を吹き飛ばしていた。彼女はまだ、生きていた。私は青ざめた顔で外を見た。車の斜め右側に明美が倒れていたが、かすかに動いていた。明美は右手で流血しているであろう頭を触った。そして信じられないことに、明美は這って雪道を進み始めたのだ。その先には、一軒の明かりのついた民家があった。私はそのただの民家こそが「カッコウの巣」であると初めて知った。私は自分のバッグからケイタイを取出した。今なら、まだ彼女を助けることができる。私はケイタイで一一九を押そうとしたが、できなかった。「カッコウの巣」から出てきた黒い服を人物が、雪に足を取られ、四つん這いになりながら彼女のもとにすがりついた。それはまさしく成長した隆一の姿だった。隆一が建物の中から飛び出してきて、街灯に照らされた彼女に何か言っている。そして隆一は、私の車をはっきりと確認した。私は隆一と目が合ってしまったように思えた。その一瞬は永遠かと思うほどに長く感じた。私は隆一が去ったのを茫然と見届け、手の中にあったケイタイを落とした。




明美が死んだのだと、悟った。





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