29.母親失格

 母親失格と世間には言われるだろうが、どうして母親だけが責められるのだろうか。どうして女だけが悪いのだろうか。子供は男女一組でなければ生まれないにもかかわらず、どうして父親は責められずに済むのか。社会が悪い。男だって悪い。そう私は責任転嫁して、広大と会った。男を責めながら男と会うということは矛盾しているが、広大と会うことで共犯関係めいたものを維持しておきたかったのかもしれない。


 そんな中、小学五年生になったばかりの隆一が、珍しく私を呼んだ。その声は明らかに緊張していた。


「お母さん」


 久しぶりに自分をそう呼んだその声が、もう変声期を迎えていたことに驚くと同時に、全身に冷や水をあびたようになる。声までもが、広大に似ている気がしたからだ。


「な、何? お母さん、今、忙しいのよ」


声がひっくり返り、動揺が隠せない私は、またこの子から逃げようとした。


「俺、『カッコウの巣』に行きたいんだけど、面接があるんだ」


 一瞬、隆一が何を言っているのか分からなかった。面接の部分は分かったが、「カッコウノス」とは一体何なのか? 「行く」というからには場所なのだろう。塾か、中学校か。しかし家に学習塾はもちろん、私立の中学に行かせる余裕がないことは隆一がよく分かっているはずだ。隆一は私が思っていることが分かったかのように、説明をした。


「子供限定の、無料の食堂に行こうと思ってるんだ」


 隆一は自分の居場所がこの家にないと分かっていて、自らこの家を出て行く気なのだと私は察した。そして私は隆一が家以外に自分の居場所を見つけようとしていることが気に食わなかった。私はこの家にずっと縛られて暮らしてきたのに、その息子は小学生ながらにして外の世界を知り、この家の呪縛から一人だけ自由になるなんて、許せなかった。一時的であれ、私と一心同体であったものが、何故私から離れて自由の身を手に入れられるのだ。何故私ではなく隆一だけが、光ある方へ行けると言うのか。私は納得できなかった。


「そこ、あんまりいっぱい人が来るから、面接で本当に困っているか審査があるんだ。それが面接で、一回でいいから……」

「お父さんと一緒に行きなさい」


 私は隆一の言葉をぴしゃりとふさぐ。その容赦のない言い方に、隆一は私の顔を泣きそうな目で見つめたが、すぐ自分の足元に視線を泳がせた。


「分かったよ」


 隆一は怒るでも泣くでもなく、ただそう言って自分の部屋に戻った。隆一は私に「一緒に行こう」と言えなかったに違いない。そんな我が子に私はひどいことをした。その自覚はあっても、良心がとがめることはなかった。そして隆一は私に言われた通り夫と一緒に「カッコウの巣」へ面接に行き、結局隆一はその食堂に通うようになった。話によればその食堂の代表は女性だという。それも私たち夫婦とそんなに歳が離れていないようだったと、夫の口から聞いた。この女性のことが何故気にかかったのかは、この時は分からなかった。私はこの時、隆一に怯えることに疲れ始めていた。そして広大との関係も、家事と同じように惰性的になっていた。夫の顔は、見るのも嫌になった。


(何をしていても疲れるだけだ)


毎日朝から晩まで、同じ思いでいっぱいだった。何をしていても、つまらないし、やる気が起きないのだ。


(死んでしまおうか)


そんな暗い考えが、時々頭に浮かぶようになっていた。無気力で、無味乾燥な日々。惰性的で暗澹たる日常。感情というものが生き物だったなら、私の感情は死んでいたのだろう。


 そんな私とは逆行するように、隆一は「カッコウの巣」に行くようになってから明るくなった。そんなに面白いところなのか、暇さえあれば家を飛び出して「カッコウの巣」に入り浸るようになった。ただ、隆一の口から頻繁に「明美さん」という名前が出てくるようになったことが、少しだけ気になった。その靴の中に一粒の小石が入ったような気分は、弛緩した私の心に一抹の感情を呼び起こした。私は、生まれる前の隆一に義母が名付けを行った時のことを、思い出していた。今まで隆一に執着をしていなかったにもかかわらず、その明美と言う女性に、隆一が盗られてしまうのではないか。そんなふうに思ったのだ。


 隆一は小学校を卒業し、中学校に入った。すると隆一はほとんど家に帰ってこなくなった。「カッコウの巣」では、自分が食事をするだけでなく、手伝いを積極的に行っているようだった。


 高校受験の時には、隆一が書いた志望校の名前のリストを見て、声も目玉も飛び出そうになるくらい驚いた。蛙の子は蛙だと思っていたのに、三校とも県内で一、二を争う進学校を、隆一は志望校として挙げていた。


「滑り止めの私立は受けないから、心配しないで」


 隆一は宣言するようにそう言った。その表情は、自信に満ち溢れていた。私はただ、保護者の欄にサインして判子を押した。保護者でもなければ養育者でもない自分が、隆一が決めたことに何も口を挟むことはできなかった。


 そして隆一は見事に第一志望の高校に合格したのだった。隆一が合格した高校は、一流大学に毎年何人もの学生を輩出している、地元では知らない人がいないほど有名な進学校だった。近所でも隆一の合格は評判になり、私のところに他の母親が「子育てのコツ」を聞きにやって来るほどだった。それはもう、笑うことでしか対応できなかった。私の教育方法などをまねしていたら、きっとろくな子供に育たないだろう。おそらく隆一を変えたのは、「カッコウの巣」での体験なのだ。


 この高校入学を機に、隆一は家から姿を消した。私は夫から、隆一は早朝には図書館に出かけ、夕方からは自分が食事をしながらボランティアをしていると聞いた。


「ねえ、明美さんってどんな人?」


 夫は隆一が「カッコウの巣」に入る前、一度だけ面接で明美に会っていた。そんな質問は無意味で、その答えは自分にとって無関係なはずなのに、愚かにも私はその女性について知りたいと思ってしまった。隆一が何もしてくれない母親を見限ったのかもしれない。そして見限られた私は、息子と仲良くしている女性に嫉妬していたのかもしれない。


「とても明るくて、感じのいい人だったよ。歳より随分若く見えたっけな。でも、女一人で大勢の子供を相手にしているせいか、たくましい感じも受けたよ。一度離婚して、子供を流産した経験もあるそうだ」


「そう。いい人なのね」


 まるで残念な結果を耳にしたときのような声を、私は溜息と共に吐き出した。明美という女性に嫌な部分が少しでもあれば、私の心は少しは落ち着いたかもしれないのに、夫はどこまでも正直だった。例えば明美が特定の子供を贔屓するとか、強制的に手伝いをさせるとか、そんな些細なことで良かったのに。そういった人間的で世間的な欠陥が明美にも少しでもあれば、私の心は救われたのに、夫は明美に好印象しか持っていないようだ。夫は誰かの文句も言わないし、愚痴をこぼしもしない。それが夫の最大の長所であり、短所だった。

私は何故か「負けた」と思った。しかも、女として敗北を味わっている。私は結婚して子供がいるのに、バツイチで未婚の子供もいない女に負けたのだ、と。私は歳より上に見られることが多い。最近、老け込んで来たのだ。そういった面からも、私は明美という女に負けてのだ。


「どうして隆一はあそこに行くのかしら?」


答えは分かりきっているのに、問わずにはいられなかった。




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