28.誰に似ている?

「おい、まさか」


 義母は笑いながら何度もうなずいた。そして、あっさりと私を置き去りにした。


「耕作、良かったな」


 義父母はもう私を見てはいなかった。義理の両親が見ているのはいつも夫だけだ。私にもねぎらいの一言の一つでもあると思っていたが、一言もなかった。


「え?」


 夫は何に対しても鈍かった。この時もそうだ。夫だけ、まだ祭りのことを考えていたに違いない。私は恥ずかしそうに箸を止めて、黙ってうなずいた。


「おめでとう、耕作」

「赤ちゃんの名前は男の子だったら隆一、女の子だったら隆子たかことかが良いんじゃない?」

「おお、そうだな」


赤ちゃんの名前すら私に決めることができないのか、という思いが私の心にひびを入れる。これを暗澹たる思いと言わず何というのだろう。よりにもよって義母は、義父の名前から一文字取った名前を子供に付けるらしい。そしてそれはもう私の権利ではないのだ。何だか生まれる前に子供を義理の両親に奪われた気がした。この子の命名権は、初めから私にはなかったし、この子の存在自体も私のものではなかった。そうなってくると、腹の中の子供はひどく憐れで気味の悪いものに思えてきた。もう名前も決まっているが得体の知れない存在が、私の中で育っていく。この世に生まれるために、私の中で呼吸の練習をしている。排泄もしている。本当の両親からは望まれてもいないのに、必死に生きようとしている。私が望んでいなくても、確かにそれは、私とつながっていて、まさに一心同体の命だった。義父母は興奮冷めやらぬ様子で子供の話しを続けていた。


 夫は素直に私の妊娠を喜び、産婦人科の情報を集め出した。夫は毎日浮かない顔をしている私を医師の前に連れ出し、「マテニティブルーでしょう」という診断結果に満足していた。義母は私の体を気遣ってくれるようになったし、義父は男の子が生まれると決めつけていた。私は初めてこの家の一員だという自覚を持つことができたが、それと同時に大きな後ろめたさがあった。


『大丈夫。バレないって』 


 私の耳にはこの言葉がこびり付いたままだった。


 そして私は、元気な男の子を生んだ。義父は義母の言うとおり、子供に「隆一」という名前を付けた。この辺りで長男が生まれたとなれば、その子の将来のほとんどは決まってしまっているも同然だ。すなわち農地と家を継いで、親の面倒を見る女性と結婚して次世代の孫を作ることだ。私が初めて見た隆一に感じたのは愛情ではなく、恐怖だった。隆一は、全く夫に似ていなかったのだ。私は愕然とし、恐怖におののいた。夫は赤茶けた猫っ毛だったが、隆一はたわしのような剛毛だった。夫はひょろりとした体形で筋肉などなさそうだが、隆一は赤ん坊ながらにしてごつごつとした印象を受けた。決定的だったのは、顔の部分、特に人の印象に関わる目だった。夫が一重で糸のように細い目だったのに対して、隆一はぱっちりとした二重だった。隆一が持って生まれた特徴は、全て実の父親である広大にそっくりだったのだ。そして、どこをどう見ても、絶望的なほど夫には似ていない。だから夫の両親も素直に喜べずにいた。近しい親戚が来院した時も、田辺家の赤ん坊を見つけられず、首を傾げて不審がっていた。しかし夫だけは少しも怪しまずに手放しで喜んでいた。本当に夫の疎さにはがっかりだった。だがこの夫の喜び方が、親戚や義父母の猜疑心を取り払ったのも事実だった。夫まで顔を曇らせていたらきっと私は、不義を疑われて子供の本当の父親を詮索されていただろう。


「男の子は母親に似るって言うけど、本当だな」


 顔も声も緩みっぱなしの夫が、子供の猿のような顔をしげしげと見ながら言った。


「うん。そうね」

「でも、耳の形とか、輪郭とか、俺にそっくりだな」


 まだ形の定まっていないような顔の部位を選んで、夫は嬉々として言った。


「私も、そう思っていたところよ」


 私の笑顔がぎこちないことに、夫は気付かなかった。夫はもしかしたら、私がまだマタニティブルーだと思い込んでいたのかもしれない。そして夫だけは、私の産んだ子供が自分の子供であると信じて疑わなかった。まだ人間の子供かニホンザルの子供かも分からないような、小さな命。全く子供を気にしていなかったと言えば、嘘になる。しかしそれ以上に、私はこの子供を見るのが怖い。これは田辺家の長男なのだから、田辺家の嫁である私が喜ばないのはおかしい。何より私は母親になったのだから、喜ぶべきだ。そんな義務感だけが私の心を縛り付けていた。


「だよな。だよな」


 夫はまるで歌でも歌うように言って、何度もうなずいた。


 退院してからも、夫は飽きることなく隆一を眺め、笑い、抱き上げてはあやす。疑うことなく出生届を出して、家では家事も育児も積極的に手伝ってくれた。夫以外の家族はまるで魔法が解けたかのように私への興味を急速に失った。そして隆一だけを田辺家に迎え入れ、またしても私は居場所を失った。


 私は隆一が成長していくにつれて、どんどん広大に似てきたらどうしようかと不安で仕方なかった。広大との間に出来た子供だという点においては隆一を愛せるのに、血のつながらない耕作と隆一を見ていると子供は恐怖の対象でしかなかった。最近では悪夢に悩まされるようになった。隆一が広大に変身して、私の不貞を田辺家に言いふらして歩くという夢だ。


 そんな板挟みの中にあって、私はこの大きなストレスから逃れるためにまた広大と会うようになっていた。自分の弱さに嫌気がさすのに、どうしてもやめられなかった。隆一の出産前にあれだけひどい言葉を投げつけられたのに、愚かな私はまだ広大に恋をしていた。


 隆一が幼稚園に通い始める頃、義父が癌で亡くなり、その一年後には義母も後を追うように病死した。家には私と耕作と、隆一、そして義父母の治療のために作った大きな借金が残された。義父母は両方とも、保険に入る余裕がなかったのだ。夫は代々続けてきた農家を辞めて、建設業社で働き始めた。最近は専業農家では生活ができない。せめて兼業にするか、農業を辞めて会社に入って働くしかないのだ。畑の大部分は売り払い、田は他人に貸して主食の米を毎年もらうことにした。私は家で家事と育児をしながら、少しだけ残した畑で野菜を育てていた。代々会社員の家系に育った私は、幼稚園や小学生の頃に体験学習でして以来、農作業をしたことがなかった。日焼けや虫は嫌だったし、爪の間に土が入ったいり服が汚れて汗臭くなるし、これ以上に最悪という言葉が当てはまるものはなかった。しかし日中、外に出ていなければ近所から陰口を叩かれるし、少しでも手を抜くと雑草ばかりが育って作物が育たない。だからその家の畑を見れば、その家の人々がいかに勤勉かそうでないかが分かると言われるのだ。色や形の悪い野菜は家の食卓にあがり、良い物は道の駅などで販売した。こうして借金を少しずつ返済していき、もう少しで借金の返済が終わるという頃、隆一は小学校に入る歳になっていた。それはさらなる出費を意味していた。隆一には最近流行のランドセルも、学習机も買ってやれなかったが、隆一はそれに対して文句一つ言わなかった。


 この隆一の小学校入学を機に、私はパートを再開することにした。しかし、パートはただの口実で、ただ単に広大に会いたかっただけだった。夫も夜遅くまで働いていたため、隆一は家で一人になることが多かった。まだ親が恋しいだろうとか、寂しいだろうとか、隆一に申し訳なく思う一方で、私はこの期に及んでまた隆一の存在を疎ましく思いもしたのだ。




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