五章 田辺美子
27.良き夫
私はきっと世間の目から見たら、妻としても母親としても、駄目な人間なんだろう。いや、女としても人間としても、きっと最悪な奴なんだろう。
私には、耕作と言う結婚相手がいた。許婚とまではいかないが、親が勝手に決めてきた私の結婚相手だった。耕作は人間として出来た男だった。糸目でくせっ毛で、穏やかで、思いやりがあり、優しかった。誰にでも優しく、誰かを贔屓せず、いつでも笑っている。そんな人間は、私の結婚相手には向かない。女性ならきっと誰だって嫌なタイプだろう。何故なら、女は誰だって自分にだけ優しくしてほしいし、特別な存在として贔屓されたいと望むはずだからだ。そして、特別な笑顔は自分にだけ見せていてほしいはずだ。それが女として普通の欲求だと思うからだ。例えば誰にでも優しいということは、他の女性にも優しいということなので、即座に不倫や浮気の心配につながる。
しかし私には、他に好きな人がいた。耕作とは真逆なタイプの男だった。はっきりした目で、髪の毛は剛毛だった。短気で厳しいが、女性には優しい面があった。そんなところが男らしくて好きだった。自分にだけ優しくしてもらえたことで、特別扱いを受けたという満足感があった。恋人同士になるのは、耕作よりもこの男の方が向いている。結婚するならばこの恋人意外にあり得ないと思っていた。それなのに両親はいきなり見合い写真を私につき出した。
「これがあなたの結婚相手の田辺耕作さんよ。農家の長男さんで、お前にはもったいないくらいに良い人だよ」
母だけでなく、父も耕作を気に入っていた。この辺りでも最近は恋愛結婚がほとんどなのに、何かの冗談だと思った。それに今どきの農家なんて、よほどの大規模農家でなければお金にならないと言うではないか。大きな家庭菜園ぐらいの農家なんて、そもそも農家と言えないのではないか。そんなところを両親がどうやって見つけ、いつの間に話しを進めてきたのかは知らないが、無職同然の家に一人娘を嫁に出そうとするなんて、正気の沙汰とは思えない。
「ちょっと待ってよ。私はこんな話聞いてないよ」
「お前は気性が荒いから、他の人みたいにうまくいかないと思って」
母は、私を一人の自立した人間として見てはいなかった。幼い時から、ずっと、私は母の「作品」であり「所有物」だった。私は母の期待に添うように努力してきたのに、こんな結末が用意されているなんて、おかしい。それともこれは罰なのだろうか。一度も親の敷いたレールから自分の力で外れようとしなかった私への、罰だとでもいうのだろうか。
「まあ、一度会えば分かるだろう」
父はいつも母の言いなりだ。私の意見など母の鶴の一声でいくらでもひっくり返るのだ。
「私は、絶対に認めないから!」
私はそう言って力いっぱいにドアを閉め、自室に引きこもった。これが人生で初めての親への反抗だったかもしれない。今まで我慢してきた反抗心が、突如私の中で爆発した。しかしそれでも、私抜きで私の人生が次々に決まった。まるでドミノ倒しのように、私が見ていないところでドミノはカタカタと音をたてながら倒れ続け、一つの作品に仕上がっていくようだった。結納はいつどこでするのか。結婚式の日取りはいつどこでするのか。結婚式は親戚をどれくらい呼ぶのか。花嫁衣装は着物に決まっているとか、結婚後は新居をどこに用意しようとか。そして子供は一姫二太郎が一番だ、とか。私の結婚なのに、私に対しては全て事後報告だった。後は私が決められた日時に決められた場所で、決められた和服で、決められたことをすれば良い。私はその日時に流されるように結婚させられた。そうだ。私はいつも「させられる側」の人間だった。つまり私の人生は全て受け身なのだと、いつの間にか諦観を持っていた。結婚式だって、私は笑ってやった。笑わせられたからだ。写真にも、親にも、向けられたすべての視線に笑った。心の中ではずっと泣いていたが、それを悟られずに、全てを終えた。なのに耕作はいつもへらへらとしている。いつも笑顔を絶やさないのは結構だが、笑いかける相手がいつも好意的にその笑顔を見ているとは限らない。
恋人と教会でウェディングドレスを着ている自分の姿を何度私が夢に見て来たかも知らないで、周りだけが盛り上がっている。しかし、もうすべてが決まっていたので、私は田辺耕作の妻として、田辺家に嫁入りした。新居と言うのは、田辺家の二階一間だけだった。
結婚式の途中、私は無性に恋人に会いたくなった。この恋人との関係や恋心だけは、私が私の人生において唯一能動的でいられることだった。
私は耕作と結婚して間もなく子供ができた。どう計算しても、どう考えても耕作の子供ではなく、関係を続けていた恋人の方の子供だった。世間ではこれを不倫だというかもしれないが、私は無理矢理結婚させられただけだった。私は純愛を貫いているのだから、正当なのは自分だと思っていた。本当は同じ職場の同僚だった
広大は冷たい目でこう言い放った。
「お前には興味があるが、子供は迷惑だ。だいたい、本当に俺の子供だって証明できんのか? 金目当てだったら、他を当たってくれ」
私はあまりの衝撃に、何も言い返せなかった。その後は怒りに震えた。私は広大が子供を喜んでくれるとばかり思っていた。私との純愛の末に出来た子供だったからだ。しかし広大にとっては純愛などではなかった。私の体が目当てで、私と自分の子供は、金目当ての道具と見なしたのだ。それはあまりにも残酷な言葉だった。どうせ私に味方などいないのだと知った。まさに四面楚歌だ。実の両親も義父母も、夫も恋人も、本当の意味で私を慮ってはくれない。全ては家と体裁のためなのだ。
「おろすか、旦那の子供だって言えばいいだろ。大丈夫。バレないって」
その言葉は、私にとって悪魔の囁きだった。子供を堕胎するにはお金が必要だし、子供を殺すことを夫の両親は許さないだろう。子供を堕胎しようとしたことが分かれば、当然子供が不貞の結果生まれたのだと分かってしまう。そうなれば子供共々、田辺家から追い出されるかもしれない。しかしもう私には居場所がどこにもないのだ。実家に戻れば「恥知らず」とされるだろうし、広大に認知してもらうこともできない。だからと言って、シングルマザーとしてやっていく自信もない。でも、もし私のお腹に夫の子供がいると分かったら、私は夫の家で、もうこれ以上肩身の狭い思いをしなくて済むのではないか。幸い、夫と広大の血液型は同じA型だった。だから子供の血液型から本当の父親が割りだされる心配はない。私はこの嘘を一生貫き通す覚悟を決めた。居場所がないのなら、作ればいいのだ。どんな手を使っても、良いではないか。幸い、この嘘で誰も不幸になりはしない。私さえ黙っていれば、皆がハッピーエンドだ。
私は良い義娘を演じるために、仲が悪かった義母をわざわざ相談役に選んだ。こういう狡猾な所はきっと実母に似ている。
「お義母さん、私、生理がこないの」
なるべく不安そうな顔で、おどおどした落ち着きのない態度で、下腹部を抑えて上目づかいに言う。まさに、女性だけの秘密の会話をしているというように。そのセリフの持つ力は偉大だった。義母の目の色が変わり、私に対する接し方まで変わった。妊娠を匂わせるセリフを言った日には、夕食に赤飯が出たくらいだ。
「あれ? 今日、どっかの祭りだっけ?」
義父はとぼけた声でそう言った。夫も、同じようなことを言った。この辺りでは神社や地蔵堂のお祭りの際に、「御護符」として赤飯を炊く風習があるからだ。男二人が似たような顔で、不思議がっている。義母だけが鼻歌まで歌い出しそうな勢いで、私に食事の量を増やすように勧めた。そんな義母の様子に、義父が目を輝かせた。義父は手を付けようとしていた茶碗と箸を中途半端な位置で静止させたまま、口元を緩めた。
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