25.雪に赤

「え? 二人はもうそんなことまで考えてるの?」


 私は二人が付き合っていることは知っていたが、もう結婚を考えているとは思っていなかった。しかし二人の表情は明らかに「は?」という顔だった。そしてすぐに二人は否定した。


「えー、気持ち悪い。お兄ちゃんはお兄ちゃんだもん」

「こっちのセリフだ!」

「言っとくけど、明美ママ、私とお兄ちゃんは絶対あり得ないから!」

「俺も。花とは絶対にないな」


 私が勘違いをしていたことに気付き、二人は爆笑していた。私まで涙が出るくらい笑った。この時私は、こんなに幸せな時間を過ごしていていいのかと思ったほどだ。




 

私が四十八になり、もうすぐ二人が「カッコウの巣」を卒業するという雪の日に、私があんなことになるまでは。





 ある日、私は水色の傘をさして、雪道を歩いていた。天気予報では明日は晴れると言っていた。その放射冷却のせいか、今晩は一段と冷え込んでいた。降っている雪も温かい時に降る牡丹雪ではなく、ガラスの粉のような雪だった。足を踏み出すたびにシャラシャラと硬質な音を立てている。呼吸さえ凍ってしまうと思えるほど、吐く息は煙のように吐き出され、吸うと鼻や喉に刺さるように痛い。


 「カッコウの巣」では、私が考えた節約レシピをもとに、隆一と花が料理を作ってくれていた。小中学生も、もう何人か集まってくるころだろう。かじかむ手に、ビニール袋が食い込んでいた。中には近所の方からいただいた芋や白菜が入っていた。冬場の野菜確保は重要だった。しかもこの冬は夏場に台風が日本各地を襲ったため、野菜の高騰が止まらない。まさに青天井だと言わんばかりに日に日に野菜の値段は上がる。この早めの大雪も、近年の異常気象のせいだと言われていた。


 私は「カッコウの巣」に、温かな光がともっているのを見て、安堵した。白い息が大量に私の口から吐き出される。皆で食事を囲む場所が、自分の居場所であることを心から嬉しく思った。最後の横断歩道を渡り、気が緩んだ。


 私の後をつけるように後ろから走ってきた車の存在に、私は気付かなかった。私は雪の回廊を抜け、車道に足を踏み入れる。そこさえ渡れば、「カッコウの巣」はすぐ目の前だった。その瞬間、赤い軽自動車が目の前にあった。タイヤの空転する音が響くが、私に声をあげる暇はなかった。私の視界は雪雲の間からのぞいた星々が輝く美しくも冷たい夜空をとらえ、反転する。次に目にしたのは、圧雪された車道に、赤い絵の具を垂らしたような光景だった。その赤い絵の具が自分の血であることに気付いた瞬間、激しい頭痛と吐き気が私を襲った。寒気がして、体に力が入らない。足が、もう役に立たないのだと知った瞬間、私は雪道を這っていた。私が這った後にはハケではいたような血の跡が続いていた。真っ白な雪道を赤く染めながら、強い吐き気と眩暈を感じながら、私は必死に匍匐前進をした。赤くにじんでいく、温かな光を見つめながら、必死に雪をかく。もう、冷たさなど感じている余裕はない。


(帰らなければ。待っている子供たちがいる)


 私の足は、グロテスクにあらぬ方向に曲がっていた。


(届けなければ。お腹を空かせた子供たちのところまで)


 不思議と、痛みさえも消えていた。


(生きなければ。私を『ママ』にしてくれた子供たちのために)


 私の喉が、吹雪に似た音を立てていた。再び私の口から白い息が大量に漏れる。右手を伸ばし、「カッコウの巣」から漏れ出た光をつかもうとして、私の手は宙を掻いていた。


(生きたい‼)


その想いを最後に、私の視界は暗幕を張ったように途切れた。私はもう二度と、動くことはできなくなっていた。




 花と隆一の耳に、外から大きな音が飛び込んできた。誰かの悲鳴のようなスリップをする音。そして重い衝撃音。近くで何らかの事故が起きたことは明白だった。そして明美はまだ帰って来ていない。そろそろ帰って来る時間のはずなのに。二人は顔を見合わせ、互いが不吉な予感を覚えたことが分かった。


 先に動いたのは、隆一だった。すぐに玄関に出て長靴をはく。


「私も行く」


花も自分の長靴を取り出しながら言う。


「駄目だ。お前は子供たちを頼む。絶対外に出すなよ」


隆一に睨まれた花は、素直に身を引く。


「分かった。気を付けて」

「頼んだ」


 隆一は外に飛び出し、そのまま車道に出た。車が通行しているかどうかなどは、確認する余裕はなかった。長靴が滑って、前のめりに倒れそうになった瞬間、何かが視界に入った。白銀の世界の中に、赤い塊と黒い塊とベージュの塊が、スライドした。すぐに見てはいけないものを見たことに気付いた。街灯がスポットライトのように照らし出したそれは、雪道の上に横たわる明美の姿だった。赤い塊は血塗られて硬く何かを握ったような拳だった。黒く見えたのは、本来栗色の髪の毛だった。ベージュはコートの色だった。


「-――-……っぅ……‼」


 声にならない声をあげて、隆一は雪の塊をまたいで転び、滑りながら不恰好に明美に四つん這いになって近づいた。膝に解けた雪が水になって浸み込んでいく。ガラスの破片で指を切ったように痛いはずが、そんな感覚をも凌駕する現実を隆一は見たのである。コートもないのに、体が火に包まれたかのように熱かった。


「明美……さ……ん……‼」


 隆一は明美の呼吸を確認し、後ろを振り返った。大きなハケで真っ白な道路にひかれた赤い線は獰猛で、生々しくて、そして何より痛々しかった。そして、赤い線の上には赤い手形が所々に押されていた。その先に、見覚えのある赤い軽自動車。ナンバープレートは雪で見えないが、隆一にはそれが自分の家の車であると、はっきり分かった。そのボンネットの上には、明美の水色の傘が、憐れな骨組みを晒して突き刺さっていた。隆一の呼吸は急に激しくなる。顔を覆うほど、白い息が吐き出される。


「う、嘘、だろ⁉」


隆一は「カッコウの巣」に土足のまま踏み込んで、電話をかけようとした。しかし隆一の手から受話器が滑り落ちる。かじかんだ手が赤かったのは、寒さのせいだけではなかった。その様子に明美の状態を察した花は、隆一から受話器を奪って、救急車を呼んだ。そして、花は玄関に走り出す。それを必死に隆一が走って止める。靴下のまま飛び出そうとした花を、隆一は玄関ドアをかばうように立って阻止していた。


「私も……‼」

「止めろ‼」




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