19.加害者と紙一重

『仕事も、なかなかうまくいってなかったみたいですし』

「仕事? 田辺隆一は仕事をしていたんですか?」

『ええ。ディスカウントスパーの惣菜を作ってるとか何とかって、言ってましたけね』

「惣菜? 女の人のイメージが強い職場ですね」


 僕は偏見があると分かっていながら、そう言っていた。


『そうなんです。職場でイジメというか、孤立していたみたいで。ここでも精神的に辛かったでしょうね。何しろ女の人ばかりの中に田辺さん一人だと言ってましたから』

「歳の近い人とか、同性の人とかはいなかったんですか?」

『皆、年上の女性たちだと言っていました。雰囲気では、上司は男性みたいでしたけどね』

「上司に相談などは?」

『さあ、そこまで詳しくはないけど。ただ、上司に言ったら、仕返しが怖いんじゃないですか? ほら、チクったとかで』


 それでは子供のケンカと変わらないではないか、と僕は笑いそうになる。しかし、大人の苛めも社会問題化しているのだ。田辺隆一という男は、かなり悪い環境で仕事をしていたということになる。そして、家に帰れば介護が待っている。この男に休む暇などなかったに違いない。


『先生、役に立ったかい?』


 黙り込んだ僕に、多田はそう言った。僕があまり事件と関係ないことばかり質問したので、話したいという気持ちが薄れたのかもしれなかった。


「ええ。ありがとうございました」


僕は明るくそう言って電話を切ったが、ケイタイをテーブルに置くと同時に頭を抱えていた。


(水頭症とアルツハイマー型認知症の併発だって?)


 水頭症も認知症も、多くの被介護者に見られる病気だ。しかし、この二つを同時に発症してしまうと、この組み合わせは介護者にとって大きな負担となってのしかかってくる。CTやテストの結果があれば、詳しいことが分かるかもしれない。アルツハイマー型認知症の場合、記憶を司る海馬という脳の一部が委縮してしまう。このことによって、妄想や妄言にとどまらず、徘徊を引き起こすことで知られている。一方水頭症は読んで字の如く、頭に溜まった水分のせいで、歩行が困難になる。水を抜くことはできるが、腰に刺して脊髄から脳に溜まった水を抜くというなかなかリスクの高い手段である。おそらく、水を抜くことはしていないだろう。そうとなれば、歩行困難な老人が徘徊をしようとするということが日常化することになる。介護者は、毎日、一日中、被介護者を見張らなければならないし、転倒するたびに抱き起さねばならない。僕の場合は、父に対して十分な介護を行う前に施設に預けてしまったが、自宅で一人きりで報われない介護から逃げ出したいという気持ちはよく分かる。


 以前、僕の病院にも患者の付き添いで来院していた女性がいたが、彼女は介護のために鬱病を発症し、自殺したと聞いている。今はその女性の弟が、患者の面倒を見ているが、とにかく口が悪い。弟のように悪態もつかずに懸命に介護していた女性の方が鬱になってしまうと言うのは、何とも皮肉な話だった。田辺隆一もこの女性のような精神状態に追い込まれていたのではないか。僕はそう推察し、花に話してみようと考えた。


(花は加害者ではなく、被害者なのだから)


 夕食後、僕は多田から聞いた話を聞かせ、その中のいくつかについて僕なりの見解を述べた。


「だから、田辺隆一は自殺、もしくは無理心中をしようとして、失敗した可能性が高い」


 花は黙って聞いていた。窓の外は猛吹雪で、家の中に閉じ込められてしまったように思えた。ミステリー小説などでよくある、雪の中で館にとどまらざるを得なくなっている状況。膠着していて、もどかしさだけがつのる。ここは自分の家なのに、僕は何を焦っているのだろう。まるでシャーベット状の氷泥の中で溺れかけて、そのまま冷たい海に沈んでいくような錯覚を覚える。やがて氷泥は氷となり、海の中に僕を閉じ込めるだろう。


「私がひいたことには、変わりがない。それにあの『お兄ちゃん』が自殺するまで追い詰められるなんて、考えられないし、信じられない」


 僕は自分の思いつきに、頭を殴られてような気がした。


「君は、加害者になりたかったのか?」


そう問われた花は、肩をビクリと震わせて、驚愕の表情で僕を見た。まるで自分自身が、自分の気持ちの正体に気付いていなかったように。


「君は、まだ田辺美子を恨んでいて、だから今回の事故が認められないんだよな?」


花はきれいな雫をぽろぽろと落とした。彼女がそうする時は、決まって十二年前のあの日を思い出しているということを、もう僕は知っている。


「だって、ただの事故だったり心中だったりしたらアイツは、明美ママを殺したくせに、ただの被害者として死ぬのよ! そして『お兄ちゃん』が、『お兄ちゃん』だけが、加害者として世間に顔も名前もさらされるなんて、こんな不条理はないわ‼」


「だから君は、お兄ちゃんと一緒に復讐したことにしたかったのか?」


花はしばらく沈黙し、やがてぽつりとつぶやいた。




「そうなのかもしれない」




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