17.守秘義務
その後は吹雪のための公共交通の乱れや、トンネルの封鎖などのニュースが続いた。僕のメモ用紙には、黒いボールペンで「田辺」という名字と「△町」という地名がくっきりと書きとめられていた。それは自分の字とは思えないくらいに強い筆圧で書かれ、文字の周りをぐるぐると何重にも線で囲ってあった。自分が相当苛立っていることが客観的に見えるメモだった。
そして最近、「△町」という地名を誰かから聞いた記憶があることに気付く。その誰かは、「田辺」という名字も言っていた気がしていた。僕は目を閉じて眉間に皺が寄るまで考えた。
(思い出せ。誰だ?)
記憶とは感情と情報の交差地点において作られると、誰かから聞いたことがある。だから面白いと感じた情報は記憶に残りやすい。反対に興味を持たなかった情報は、記憶に残りにくい。僕はその時、大して興味を抱かなかったが、自分に関係することとして記憶したはずだ。
(声? 誰の?)
男の声だ。記憶にはいくつもの特徴がある。感情に記憶が左右されやすいということの他に、五感に由来する情報もまた、記憶されやすいとされている。僕は記憶の隅からその人物を探り当てた。
「林さん?」
僕ははっとして、すぐにケイタイの履歴を見た。
「あった」
ディスプレイには、「ケアマネージャー 林さん」と表示されていた。右上の時計を見て、相手がまだ就業時間内だということを確認し、発信ボタンを迷わず押した。二回目のコールの途中で、別の職員が出た。
「お世話になっております。
一郎とは、僕の父の名前である。
「こちらこそ、お世話になっております。林は今、外出しております。何か急ぎの用ですか?良かったら、戻り次第伝えますが……」
職員は何か深刻な用事だと思い込んだらしい。僕が医師であり、父も施設にいることから、僕の方から林の所属している老人ホームに連絡することは、滅多にない。
「いいえ。ちょっとした確認です。直接お会いしたいのですが、いつ頃だと空いてますか?」
僕はつとめて明るい声を出す。
「そうですね。明日でも大丈夫ですか?」
「ええ。もちろんです」
「午後からだと、たぶん空きがあると思いますので、戻ったら折り返し電話差し上げます。こちらのケイタイの番号でよろしいですか?」
職場の固定電話には、僕の電話番号が通知されているのだろう。職員が僕のケイタイ番号を確認しているのが分かる。
「そうですか、助かります。ありがとうございました」
僕はケイタイの通話を切って、溜息をもらした。どんな理由があれ、他人を騙したり嘘をついたりするのが苦手だ。
ケアマネージャーの林とは僕が初めて父を介護することになった時に、よく世話をしてくれた初老の男であった。彼にだけは、花が精神疾患を抱えていて父を看ることは不可能だと理解してもらう必要があった。だから大切な契約の時には、全て僕の都合に合わせてもらった。その一方で、僕も医師として彼らに協力する立場にある。介護認定には通院している医師からの診断書が必要だし、家族が専門医にかかる時には紹介状が必要だった。
折り返しの電話がかかってきたのは、夕方の五時を回ってからだった。
『遅くなりまして、申し訳ありません』
「終業時間、ぎりぎりですね。大丈夫ですか?」
『ええ、なんとか。一郎さん、お元気ですか?』
林は父の入所している特別養護老人ホームに所属しているケアマネージャーであるが、父が入所した時点で別の職員の管轄となるので、父の詳しい様子を今は知らないのだ。僕は便宜上、微笑んで答える。
「はい。もちろん」
『そうなら、良かった。明日の午後二時くらいはどうですか?』
「分かりました。では、明日の午後二時で」
『はい。伺わせていただきます』
いつもの柔らかな物言いで、林は電話を切った。
そして林は翌日の午後二時ちょうどに僕の家を訪ねた。林ほど時間に正確な人間を僕は見たことがなかった。
花は、今日家にいない。花の精神的なことや「お兄ちゃん」のことも気にかかったが、花の方から気晴らしに行きたいところがあると言われれば、それを否定するわけにもいかない。何しろ僕は花の居場所であり、僕の方から能動的に花に干渉してはいけないからだ。
林はいつものように、重たそうな黒いバッグを持ち歩いていた。中には恐ろしいほどの書類がぎっしり入っていることだろう。二人でソファーに向かい合って座る。林は、いつものユニフォームである老人ホームの名前が入ったジャージ姿だった。一方僕は臙脂のカシミヤセーターにジーパンという普段着だった。医者のユニホームである白衣を着ていなかったため、林は被介護者の家族として僕に向き合っていることを意識しただろう。
「林さんは以前、△町に住んでいる方の担当をなさっていたと、言っていましたよね?」
「はい。よく覚えてますね」
初めて会った時の自己紹介で、林自らが言っていたのだ。元々△町のケアマネージャーだったんですが、と。
「△町の担当だった頃、田辺さんという方の世話もなさっていたと、以前、少しお話してくれましたよね?」
林の笑顔が急激に硬くなる。その表情は肯定したと見てよさそうだ。
「本当は守秘義務があって、駄目だったんですが、つい、うっかり。違反でしたね」
「その方、今、どうしてますか?」
「守秘義務です」
林は困ったように笑うが、目は笑っていなかった。
「昨日、亡くなったんじゃないですか?」
「え?」
「昨日の事故で亡くなった
僕は今朝の地方新聞の地方欄をテーブルの上に広げる。そこには僕が警察で聞いたこととほぼ同じ内容が載っている。ありがたいことに、花の名前は伏せられていた。
「林さんの口の堅さを信用して言います。ここにある後続車は、実は妻が運転していた車なんです」
僕が記事をさしながら言うと、林は目を激しく動かした。
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