16.偶然か必然か

 八年越しの付き合いの上、ようやく結婚生活が始まったというのに、ある日突然、警察から連絡が入った。花が交通事故に巻き込まれたという電話の内容に、僕は焦った。花が車にひかれて大怪我をしたと思い込んだのだ。


 慌てて花を迎えに行ったが、花はショックのあまり動きがぎこちなく、表情は強張り、話に受け答えするのもままならない状態だった。


 ようやく花が僕に対して口を開いたのは、車で帰宅する途中のことだった。人形のようになってしまった花の口から衝撃的な言葉が発せられたのだ。



「……『お兄ちゃん』に、会ったの」


 僕は思わずハンドルを雪道にとられ、蛇行した。仕方なく、すぐ近くのコンビニの駐車場に車を停める。エンジンをつけたままにして、暖を取る。


「お兄ちゃんって、十八の時に別れたって言う、男のこと?」


 花は黙って強くうなずいた。僕は花のことが急に心配になった。「お兄ちゃん」と会うとか、会わないとか、そういう単純な問題ではない。


 花はあまりに過酷な離別を繰り返したことによって、精神的に重大な問題を独りで抱えていたのだ。


 それは結婚後、すぐに発覚した。


 家に帰ると、花がいたはずなのに明かりも暖房も点いていなかった。探してみると、花は傷だらけで洗面所で倒れていた。右手に拳大の尖った石が握られ、床に剃刀が落ちていた。花の意識はあったが朦朧としていた。どうやら自傷し、過呼吸を起こして立っていられなくなったらしい。過呼吸がひどい場合、手足が痺れてしまうのだ。僕は花をソファーに運び、花の手足をもみほぐしながらいくつかの質問をした。花はポツリポツリと、降り出した雨のように短く僕の質問に答えてくれた。


「いつから?」

「お母さんが死んでから」

「どうして黙っていたの?」

「こんなことをするのは、異常だって分かっていたから」

「またやってしまうのは、怖い?」


「怖いよ」


花はソファーにもたれて、僕と目を合わせなかった。そしてもう一度、花は消え入りそうな声で「怖いよ」と繰り返しつぶやいた。


「精神科に知り合いがいないわけじゃないけど、嫌?」

「嫌。本当は田嶋さんにも知られたくなかったの。でも、我慢ができなくなった。ごめんなさい」

「僕は怒っていないよ。ただ、少し悲しかった」


 花をベッドに運ぶと、花は泣きつかれた子供のようにすぐに眠りに落ちた。


 それから花は度々自傷を繰り返すようになった。左手に持った石やカッターで、利き腕も自傷してしまうから、家事ができない時もあった。僕はそのたびに応急処置をした。内科医ではあるが、素人よりは包帯が巧く巻けていると思っている。でも、本当はいつか包帯がいらなくなった方がいいと願っていた。僕のそんな願いが通じたのか、花は自傷の回数が徐々に落ち着いてきた。


 そんなタイミングで現れたのが、「お兄ちゃん」だった。僕は激しい憤りを覚えた。もしかしたら、花はまた昔の記憶に支配されて、自傷を繰り返してしまうかもしれない。そう思うと、はがゆくてたまらない。


「まさか、巻き込まれた事故って……」


 花は再び黙ったままうなずいた。


(こんな偶然があるのか?)


 僕は軽い眩暈を覚えた。


「彼は、東京にいたんじゃなかったのか?」

「分からない。介護のために戻ったんじゃないかな」


 年老いた母親の介護のために、上京していた一人息子が帰郷する。つまり、介護離職のよくあるパターンだ。この辺りは超がつくほどの高齢社会で、介護施設は常に満員だ。必然的に、自宅介護となることが多くなる。十分に考えられる可能性だと思う。しかし、何故今なのだ。何故花を巻き込むのだ。僕の怒りはおさまらない。


 介護者が男だった場合、何かしらのプライドから親の介護でやつれている自分を、同郷の友人や知人に見られたくないという話も、この雪国の田舎ではよく聞く話だ。男尊女卑。男は外で働き、女は家を守る。閉鎖的なコミュニティ。そんな中で、男手ひとつで介護をするのは、想像を絶する苦労がある。


 僕自身、実父を今、施設に預けたきりになっている。そして僕ですら、そのことに対して負い目を感じているし、周りに知られたくないと思っている。周りからの「親不孝」という言葉も自分で受け止めなければならない。「お医者さんでお金があるから、施設に入れられるんだ」そんな陰口さえも、聞こえてくる。高齢社会のこの土地では、安い老人ホームはもう定員オーバーだ。仕方なく家で介護している人も多い。僕が預けた施設も、偶然空きができたところにようやく入れたのだ。決して、僕の職業が影響していたわけではない。廃校になった小学校を老人ホームにするところも増えているが、そうすると今度は介護職員が足りない。ハードもソフトも、この土地の少子高齢社会に対応しきれていないのだ。それなのに、親を家で介護しなければ親不孝であり、介護の主体は女性でなければならないという偏見が、まだまだこの土地には深く根を下ろしている。


「『お兄ちゃん』のお母さんが、明美ママを殺したんだから、自業自得よね? 私は、悪くないわよね?」


 警察の話しでは、花は自損事故に巻き込まれただけだという。すがりついてくる花を、僕はそっと抱きしめた。しかしその一方で、花の執着心にも似た恨みには、肌が粟立った。もう十年以上も経っているのに、花は明美という女性を殺した女を憎んでいる。この女が「お兄ちゃん」の実母だったから、余計に恨みから解放されないのかもしれない。よく、「愛」の反対は「無関心」であり、「憎悪」はむしろ「愛」の変化形だと言う。だとしたら花は、愛する「お兄ちゃん」の実母だからこそ、今もこれからも記憶も、想いも、当時のまま、憎悪にとらわれ続けるのかもしれない。


 僕は花をなだめながら、僕自身の中で破裂しそうなほど膨らんだ感情を抑えつけ、なんとか家に戻った。外では、まるで人間を食い殺さんばかりの吹雪が猛り狂っている。外は、暴力的なほどに白く、もう少し遅ければ車でこの吹雪が治まるのを待たなければならなかっただろう。時折吹雪が女の悲鳴のような声をあげたり、男の野太い猛り声をあげたりしている。


 僕は花をベッドに寝かせて、地方ニュースを見る。テレビでは、まだ花が巻き込まれたニュースをやっていなかったので、ラジオをつけながらネットニュースを閲覧することにした。一番情報が早かったのは、やはりラジオだった。ドライバーに事故のための交通規制の情報を伝えるニュースとして、取り上げられていた。思わずボリュームを高くして、メモを取った。電波状況はよくないが、聞き取れる部分だけでも押さえておきたかった。できるだけ情報を集めて、花に、「もう、全て終わったんだよ」と言ってあげたかった。




『田辺――さんは△町の三十歳。隣の市の×市からの帰りに――。母親が外に投げ出され、後続車にひかれて死亡。六十二歳でした。この事故の影響で――は、車両通行止めになり、現在は片側――となっています。これで県内の交通事故死亡者数は――となり、過去最悪の――を上回っています。またこの雪の影響で――……』


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