15.私の居場所

 花は「へえ」とうなずいて、チーズケーキを口に運ぶ。僕もコーヒーに口をつける。このささやかな沈黙で、語り手の交代が促された。そして愚かなことに僕は、花にきかずにはいられなかった。


「お兄ちゃんって、どんな人? どうして、東京に行っちゃったの?」


 口に出したことを、すぐに後悔する。花に忘れてほしいのに、また花に辛い思いをさせてしまうのに。


「とっても強くて、優しい人。私のヒーローみたいな人でした。ケンカも強くて、私を泣かせた相手は、必ずやっつけてくれました。あ、『お兄ちゃん』って言っても、同い年なんですけど、いつも守ってもらっていたので、『お兄ちゃん』って呼んでいたんです」


 花は一度口をつぐんだ。何かを逡巡し、何かを決意したかのように僕を見た。


「田嶋さんは、『カッコウの巣』って、知ってます?」

「あれ、カッコウって、巣を作るんだっけ?」


 花はほくそ笑んだ。悪戯が成功した子供じみた笑顔だった。花もこんなふうに笑うのだと少し意外だったが、違った一面を見られたという喜びが勝った。


「『カッコウの巣』は、居場所のない子供の面倒を見てくれる食堂の名前だったんです」


 語尾が過去形だったことが気にかかったが、僕は口を挟まずに聞く。


「私も、『お兄ちゃん』とそこで出会いました。そこには母親代わりをしてくれていた明美さんという女性がいて、皆から『明美ママ』と呼ばれて、慕われていました。でも、私と『お兄ちゃん』がもう少しでカッコウの巣を卒業して、それぞれの道に進もうとしていた矢先、明美ママは亡くなりました。『お兄ちゃん』の母親が運転する車にひかれて、死んだんです。その日から『お兄ちゃん』はカッコウの巣には戻ってきませんでした。大学も東京の大学に進学して、その後は都内の大手印刷会社に就職を決めたらしいんですけど、『お兄ちゃん』とは、音信不通で、ケイタイの番号も住所も変えられたらしくて……」


僕はようやく合点がいった。花は実母と明美という二人の「母親」を亡くしているのだ。そして「兄」は、後ろめたさからなのか、音信不通だ。男も花と同じ歳と言うことは、まだ大学四年になったばかりだ。それなのに、もう大手から内定をもらっているということが花の耳に入るくらいだから、よっぽど優秀な人材なのだろう。


 僕は香りも味も消えたコーヒーを飲み干した。カツン、と小さくコーヒーカップが皿にぶつかる音がした。自分がこんなところで緊張するとは思ってもみなかった。


「花さんは、就職を目指しているんだよね?」

「え、はい」


 いきなり僕が話を変えたせいか、花は戸惑いを見せた。


「永久就職も考えてみませんか?」

「それって……」

「僕と結婚を前提にお付き合いしていただけませんか?」


 花は唇をかみしめて、下を向いた。そして、絞り出すような声で、僕に答えをくれた。


「ごめんなさい」


苦しそうにしながら、花は訥々とその理由も聞かせてくれた。


「もう、これ以上、大切な誰かを失いたくないんです。だから私は、もう大切な人を作らないと決めたんです」


 それは、僕がある程度予想していた答えだった。そして、その優しさが故に孤独を選択した花を、僕は抱きしめたかった。しかし今は、花の凍てついた心を温める方が優先だった。もし、花の言うことが全て本当ならば、彼女は大学にいる四年間をずっと一人で過ごしてきたことになる。友人も、恋人も、教員も、全てに距離を取り続ける四年間は言葉では安すぎるくらいに辛かったのだろう。サークルにもゼミにも属さず、自分の帰属性すらあやふやで、自分の立場がなくなるような感覚を、花は自分一人で抱えていたのだ。合コンはおそらく無理矢理あの女性二人に頼まれたのだろう。花はきっと、二人の誘いを断りきれなかった。それでも花は誰かを不幸にするくらいなら、自分が一人であった方が良いと考えていたのだろう。まるで花自身が不幸の元凶であるように、幼い彼女は思ってしまったに違いない。自分が所属したところはうまくいかなくなるし、自分が大切に思い、仲良くなった人は最悪な形でいなくなる。花はきっとそう思っている。だから花にとって自分が所属している団体は大学とアルバイト先だけなのだ。そして花が社会的な帰属を求められた時、大学以外ではアルバイト先ぐらいしかない。アルバイトをしていたことがせめてもの救いだった女子大生を、僕は花以外に知らない。だから、せめて僕だけには心を開いてほしいと切実に望んだ。


「本当は、田嶋さんともあの時お別れしておけばよかったのに、私は優柔不断で、田嶋さんと話しているのが楽しくて、ついこうして会ってしまいました。ごめんなさい」


「僕は、いなくなったりしないよ。君を独りにしないと約束する」


 花は大きくかぶりを振った。おそらくこんなセリフは、男女問わず花に多くの人々がかけてきた言葉なのだろう。


「皆、優しいからそう言ってくれます。でも、どんなに気をつけていたって、暴走してきた車にはねられたら、死ぬんです」

「じゃあ、僕は君の大切な人でなくていい」

「え?」


 花は思わず顔を上げて、僕を凝視した。


「好きにならなくていい。大切に思わなくてもいい。空気とか、道端の雑草とか、その程度の認識で構わないから、僕を君の居場所にさせてくれないか?」


 僕は随分と妙な言葉を口走っていた。羞恥心はなかったが、自分でも理解できない言葉だった。これではまるで、初めから花の「お兄ちゃん」に永遠にかなわないと敗北宣言したようなものではないか。僕を見つめた花は、目を丸くして口も半開きだった。そして一筋の涙が、花の頬を伝った。


「田嶋さんは、それで幸せなんですか?」


 涙をぬぐうこともせず、花は言った。もしかしたら花は、今自分が泣いていることでさえ気付かなかったのかもしれない。


「幸せの形は、人それぞれだよ」


 僕は、花の幸せの形がどんなに歪んでいても、彼女の幸せを願い、叶える決意をした。


 それから僕と花はお互いがどうしても会う必要がある時だけ、会うようになった。花は会うことを避けていたし、僕も仕事が忙しかった。一年に一度会うか会わないか、という状態だったが、それでも八年後、僕と花は結婚した。僕が結婚届を役所に取りに行って、僕の記入欄にだけ書いて、指輪と一緒に花に渡した。花は自分の欄を埋めて、市役所に提出した。結婚式は、開かなかったし、親戚を招いて飲み会をすることもなかった。なんともあっさりとした結婚だったが、僕と花らしいと思えた。




 花は今でも僕のことを相変わらず「田嶋さん」と呼ぶ。自分が「田嶋花」になったという自覚がないのではなく、僕のことを今でも「大切な人」にしたくないという、彼女なりの距離の取り方だった。

 




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