14.大切さは失って気付く
「今でも、歳を重ねるごとに思うんです。母が死んだ歳に、また近づいたんだな、って。そうすると、死がまじかに迫ってきている気がして、全てが無駄なように思えて、虚ろな感覚がしてきて、何もやる気が起きなくなってしまうんです。だから、いまだにどこにもエントリーシートを出していないし、企業面接会にも行けなくて。本当は、自分が亡くなった母に甘えているということは、分かっているんですけど……」
エントリーシートとは、ネットで送信できる履歴書や願書のようなものだと聞いたことがある。一般企業を受ける場合、このエントリーシートが企業へのファーストコンタクトとなるため、就活生には重要な物らしい。僕は一般企業を受けたことがなかったため、実物は他の学部の友人に見せてもらったことしかない。
花は強く拳を握りしめ、さらにその上からもう一方の手で強く拳を握っていた。体を硬くして、ピンと伸ばした腕をつっかえ棒にして、ようやく座っている体勢を維持しているようだ。銀杏の並木がざわめき、その音が驟雨のように響いてくる。
「そのことは、君の大切な人に伝えた? 東京にいる彼に、ちゃんと受け止めてもらえた?」
花はうつむいたまま髪を振り乱すように大きく首を振った。
「彼氏、じゃないんです」
「え?」
「もう、大切な人でさえ、ないのかもしれません」
花は小さく震える声で、告白した。
「お兄ちゃんみたいな人でした。私はとても慕っていて、そして気付くと片思いをしていたんです。でも、それを口に出してしまったら、『お兄ちゃん』が『お兄ちゃん』でなくなってしまう。ううん。もしかしたら、永遠に私の手の届かない存在になってしまう。私は結局、『お兄ちゃん』を失うのが怖かったんです」
花は照れたように自嘲し、「臆病なんですよね、私」とつぶやいて、膝を擦り合わせた。照れを隠すように。もしくは寂しさを隠すように。
「田嶋さんのことも、良かったら教えてください。あ、でも私、今日は午後からバイトがあって……」
大学生のアルバイトと言えば、居酒屋が多い。夜の時給がよく、多くの店でまかないを出していることが、大学生にとって魅力的なのだという。僕は腐っても医学部生だったので、塾の講師や家庭教師のアルバイトをしていた。花も居酒屋ではないだろう。どんなところでアルバイトをしているのか気になったが、あえて聞かないことにした。花のようなタイプは、自分の日常への干渉を嫌う傾向があるからだ。
「僕のことは気にしなくていいよ。また、会える?」
「はい。田嶋さんのお話も伺いたいです」
初めて花の積極的なところを見て、それが自分を対象としてくれていたので、思わず浮足立つ。
「甘いもの、好き?」
「え? はい」
「じゃあ、今度は大通りの喫茶店でケーキはどうかな?」
「嬉しいです」
「じゃあ、僕はこれで」
合コンの最初に自己紹介をして、ケイタイとメールアドレスを交換していた。
その日の内に、合コンの支払いの件で幹事役の友人と連絡を取った。友人は「悪いことをしたから」と言って、僕と花の分の支払いを拒否した。実は僕と花が帰った後、友人二人も腹の虫が治まらずに早々に合コンを切り上げて帰ったのだという。女性二人からは罵声が浴びせられたが、花に対する言動で性格に問題があると分かっていたので、何を言われてもそれ以上腹が立つことはなかったという。二人の女性の職業は驚くべきことに、まがりなりにもモデルだった。二人の女性は売れない地方紙を中心に活動する、いわゆる読者モデルだったのだ。この話を聞いた僕は、何だかとても腑に落ちる思いがした。他人を蹴落として自分の仕事を守っている彼女たちにとって、おとなしいライバルを排除しようとするのが、日常茶飯事というわけだ。僕はもう今度こそ合コンには行かないと友人に明言した。友人は平謝りを繰り返し、最後には花と僕がその後どうなったかを聞きたがった。僕は何もなかったと答えた。すると友人は、花だけは惜しかったと口にする。本当に男は懲りないと、あきれるしかなかった。
僕は花以外の女性のデータを事務的なもの以外、全て削除した。
後日、僕と花は再会した。チーズケーキが絶品と噂される小さな喫茶店だ。カウンター席とテーブル席があったので、一番目立たない角のテーブル席を選んだ。木製のアンティーク調の椅子とテーブルは飴色に柔らかく輝き、店内は程よく薄暗い。小さくジャズがかかっていて、大人の雰囲気を醸し出している。コーヒーの香ばしい香りが店を満たしていた。
僕はブラックコーヒーだけを注文し、花には紅茶とチーズケーキを注文した。僕は甘いものが苦手だ。それらが全てテーブルの上に揃う。チーズケーキの表面は軽くブリュレされていて、中はスフレ状になっているのが見える。花はさっそく三角の淡い黄色のケーキにフォークを刺して食べ始めた。
「美味しいです」
花は笑う。その時の笑顔は、言葉では言い表せない。危うく、こちらまでつられて笑いそうになる笑顔だ。花は顔全体で自分の感情を表現するのだと感心した。
「今日は田嶋さんのことを伺えるんですよね? 楽しみです」
「僕の話しは、あまり面白くないかもしれない」
「そんなことはありません。私が『お兄ちゃん』以外の人に興味を持ったのは、田嶋さんが初めてですから」
僕は花にそう言われ、素直に喜ぶことができなかった。僕は花の「お兄ちゃん」に嫉妬しているのだ。嫉妬する男ほど女々しいものはないと嫌悪してきたのに、自分がそうなっている。歳が一回りも違う青年に、消えてほしかった。この世から、とは言わないから、花の記憶から消えてほしかった。そうすれば、僕が花にとってかけがえのない男になれるからだ。
「お母様は、いつ……」
花は語尾を濁した。
「気にしなくていいよ。僕の母が亡くなったのは、僕が小学生の時だったからね。それからは開業医の父が男手ひとつで育ててくれたんだ。母を亡くした父は、仕事にのめり込んでいたから、父から愛情を受けたという具体的な記憶はないけど、父もそうすることでしか、生きていけなかったから、きっと」
僕はコーヒーを一口飲む。苦味とわずかな酸味が絶妙に美味しい。コーヒーを焙煎する香ばしい香りが店の中に満ちていた。
「では、今のお仕事はお父様の後を継いで、ということですか?」
「皮肉だよね。でも、父の背中を文字通り見て育ったから、その背に多くの患者さんの命がかかっていて、父は母を救えなかった分、患者さんを救っていると思えたから」
「でも、医学部は入るのはもちろん、入ってからも大変だと伺ったことがあります」
僕は苦笑いを浮かべてうなずいた。
「運よく一発で入れたけど、医学部は六年だから、経済的にも気力や体力的にもしんどかったな。でも、人の命にかかわる仕事だからしんどくて当然だったんだよ。今になればそう思えるということだけど」
「専門とか、ありますよね?」
「ああ、ただの内科だよ。父がそうだったから」
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