13.銀杏並木で

「いや。僕はいいよ。向田さん、立てる?」


 花は栗色の巻き髪から真っ赤になった目をのぞかせ、うなずいた。


「行こうか?」


 僕が最大限に優しく言うと、花は消え入りそうな声で「はい」と答えた。僕と花は振り返りもせずに居酒屋を後にした。


「どこか落ち着ける場所、知ってる? 君の好きな所でいいよ」

「大学の、中庭……」

「大学って、そこの〇〇大?」


 僕はすぐ近くの大学の方向をさす。花はそれを見てうなずく。


「大学生?」

「はい。四年生です」


 僕は花がまだ大学生であったことに意外性を感じると共に、とても納得していた。外見こそ大人の女性であったが、人前での精神的な脆弱さが世間ずれしていないと思ったからだ。


「四年と言うと、まだ二十二か?」

「はい。あの、先生は?」


 僕と花は、ゆくりと大学を目指して歩き始めた。


「先生はやめてくれ。僕は君とちょうど一回り上だよ」


 花は驚いたように僕の顔を一瞬見た。


「若く見えます」

「よく言われるよ。童顔ってやつだろ?」


 僕は溜息をつきながら銀縁眼鏡を押し上げる。眼鏡をしていなかった頃、僕はよく学生と間違われた。それが大学生ならまだいい。時として高校生に間違われたことさえあった。それ以来、僕はコンタクトはしないことにしている。


「あの、田嶋さん。今日は日曜日ですし、大学に入っても田嶋さんなら学生と言っても通ると思います」

「童顔が役に立ったな」


 ふてくされたようにそう言った僕に、花は初めて声をあげて笑ってくれた。大学のキャンパスに足を踏み入れる。悪いことをしているわけでもないのに、何だか僕は疎外感を感じる。僕は隣県の大学の医学部を卒業しているため、地元であるにもかかわらず、ここの大学に入ったのは初めてだ。これをアウェー感と言うのだろうか。「〇〇大学」と掲げられた正門の前で立ち止まる。休日と言っても学生たちは、せわしなくキャンパス内を行き来している。僕は花に聞こえないように小さく溜息をついた。


「行こうか」

「はい」


 花が一歩前に出て、中庭に僕を誘う。それはまるでモンシロチョウが僕を後ろから追い抜いて、目の前を飛んでいくような感覚を覚えさせた。花は化粧をしていなかった。していたとしても、ごく薄いものだっただろう。その分、花の素材の良さが前面に出ている。だから花が蝶に姿を変えたなら、きっとけばけばしいアゲハチョウや不吉なクロアゲハではなく、小さな白い蝶だと思った。花の背は高くて、僕の手と同じ高さで揺れるから、僕は思わず彼女の手を握りそうになる。それをこらえるように、僕は両手をポケットに入れた。桜の花弁が雪のように舞う中で、僕の手は汗ばんでいた。花が桜吹雪の中で揺れている。それはまるで写真集の一ページのように美しい。しかし、花はそんな僕の心の声を聞いたかのように唐突に言った。


「桜の花は、嫌いです」

「どうして?」

「散っているところが、雪が降っているように見えるからです」


 花は寂しげに笑う。


「母が死んだ日を、思い出すからです」


 僕はそう言う花が、今も母親が亡くなった日に生きているのだと思った。


 大学内には銀杏並木が正門から裏門まで続いていた。春の銀杏並木は青々として、それもすがすがしくていいのだが、やっぱり秋に来たかったと思わずにはいられなかった。秋には落葉した黄色の銀杏並木に黄金の絨毯が敷かれることだろう。


「ふふっ」


 僕の視線に気づいた花が、小さく笑った。泣き顔よりも、やはり笑顔の方が人は誰でも魅力的に見えると思った。僕が不思議そうな顔をすると、花は僕が思っていたことを言い当てた。どうやら花は女性特有の勘が鋭いらしい。だから逆に他人が気にならないことまで気になってしまう。例えば友人、もしくは知人だと思っていた女性二人が、自分を合コンに誘った意味だとか。


「秋の黄色の絨毯を想像しませんでしたか?」

「そうだけど?」

「私も初めて見た時にはきれいだと思ったんですけど、臭いんです」

「ああ、そうか」


 銀杏の落葉と共に実も落ちる。その実を人や自転車、車が押しつぶしていく。確かにあの独特の銀杏の臭いが大学全体に漂っているのは、そうとう臭いだろうと思った。


「ここです」


 花が言っていた中庭とは、人文学部棟と図書館棟に囲まれた四角い静かな所だった。確かに、ここが好きな人は居酒屋が苦手かもしれないと思えた。花はスプリングコートの裾を気にしながら木製のベンチに座り、僕に隣に座るように促す。上を見上げると、一枚の巨大な空色の折り紙をはめ込んだように見えた。空が高い。そんなに広くはない空間だったが、木々が絶妙なバランスで植えられ、小鳥たちが舞い降りてくるせいか、閉塞感は感じられなかった。


「先ほどは、助けていただいて、本当にありがとうございました」


 花は僕の方に体を傾けて、頭を下げた。


「君のお母さんはいつ?」


 不躾な質問だと知りながら、きかずにはいられなかった。


「私が幼い頃、亡くなりました」


予想通りの答えが返ってきたところで、居酒屋にいた二人の女は所詮人間のクズだと思った。そして僕は自分がずる賢いことを承知で、切り出していた。


「僕もだよ」

「田嶋さんも、お母様を?」

「うん。僕が幼い頃、事故死している」


 花はうつむいて、自分の中で何か納得させるように何度かうなずく。


「そうでしたか。でも、田嶋さんは立派ですね。私は馬鹿だから、大学までしか進路を決めていなくて、今はもう四年なのに、まだあやふやで。大学も、何かを学びたいからという理由よりも、いじめっ子を見返したいという理由の方が大きかったんです」


 花はそこまで言って、深呼吸をした。ハクセキレイが鳴いて飛び去った。その代わりに二羽の雀が戯れるように舞い降りて、しばらく中庭を飛び回っていた。



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