11.感情は変化する
男の平凡で淡々とした日々に転機が訪れたのは、男が花の携帯に電話をかけて数日後だった。男は花に、どうしても確かめたいことがあったのだが、花は男の言葉を塞いで、場所と日時を指定してきた。花に男が呼び出されたのは、ビジネスホテルだった。しかも、花が用意した一室だ。部屋の番号を何度も確認した男は、ようやくドアをノックした。少し間が開いて、ガチャリと鍵とチェーンが外れる音がして、花が出てきた。花はシャワーでも浴びていたのか、下着にバスローブと言う妖艶な姿だった。コンディショナーの香りが髪から漂い、花を包んでいるようだ。この部屋の位置ならば、さぞいい景色が見られただろうに、厚い遮光カーテンがすでに閉められ、部屋はオレンジ色の光で満たされていた。
「どうぞ」
そう言って、花は一脚しかない椅子を男に差し出した。花は男と向かい合うように、ベッドに腰掛ける。
「十八の時以来ね。もう十二年も経っているなんて、信じられない」
花は組んだ脚に頬杖をついて、笑顔を浮かべた。
「花、君は……」
「どうしちゃったの? 『お兄ちゃん』はもっと明るくて、元気のいい人だった。それなのに今は目の下に隈を作って、げっそりとしていて、何だかとても……」
「不幸に見える?」
男は猫背をさらに丸めて、手を組んで自嘲した。
「君は、結婚したんだね?」
男は花の左手薬指に、ダイヤをあしらった結婚指輪をしているのを眺めながら言った。
「うん。今の名字は田嶋。
「でも、幸せとは遠いところに、君もいる」
「そうね。結婚したら、幸せになれると思っていた。子供のころに見ていた物語のヒロインって、いつだって好きな人と結婚して、めでたし、めでたし、だったから。だから私もそう思っていたの」
「馬鹿よね」と、花は吐き捨てた。
「でも、好きだったから結婚したんだろ?」
花は表情を硬くして、黙ってうなずいた。
「彼も、私と似た境遇だったの。お母さんを幼くして亡くしていて、父親の手で育てられたけど、その父親ともうまくいかなくて。だから惹かれたの。たぶん、お互いがそうだった。付き合っている時は優しかったのに、結婚したら急に暴力を振るうようになったの。やっぱり、カッコウはカッコウなのよ。実の親の愛を知らずに育った人間は、所詮、他人を愛することなんてできない!」
「でもカッコウは、育ての母親からの愛を、一身に受けて育っていく」
「じゃあ、どうして実の母親を殺したの?」
男はゆるゆると首を振った。
「あれは本当に事故だったんだ」
「嘘よ‼」
「どうして十二年も経って、復讐なんか考えるんだよ? もし復讐するとしたら、あの日にもうやってるよ!」
「十二年経ったからよ」
「は?」
「十二年間、恨みも憎しみも蓄積されて、どこで殺意に変わるか分からない‼」
「殺意……」
あまりに生々しい言葉に、男はかがめていた身を起こす。この生々しくも非現実的な言葉を、男は笑い飛ばすことができなかったのだ。それは長年一人で介護をしてきたせいで、男の心の大事な部分が麻痺してしまったからなのかもしれなかった。
花は立ち上がってバスローブの紐をほどいた。下着だけになった花の体のいたるところには、無数の痣や傷があった。見ているだけで痛々しかった。
「見て。これが今の私の現実なの」
「止めろよ‼」
男は花の体から目をそらした。
「警察に被害届でも出したらどうだ? 夫婦間の問題だ。俺にはどうしようもない」
「警察は信用ならないわ。まともに取り合ってくれないもの」
花は力が抜けたようにベッドの上に座りこんだ。
「俺に、どうしろと?」
「昔の『お兄ちゃん』なら、夫を懲らしめてくれた」
花は見えるはずのない風景を眺めるように、カーテンを見つめた。
「歳をとったんだ。いつまでも十代でいられるわけじゃない」
「そうね。もう、子供じゃない」
花は書き合わせたバスローブを脱いで、絨毯の床にはらりと落とす。
「昔の『お兄ちゃん』だったっら、私を夫から解放してくれた。いじめっ子に猛烈に殴りかかって、私を助けてくれたみたいに。期待していた私が馬鹿だった。私も歳をとったのに、私はいつまでも幼い『お兄ちゃん』にすがって生きてきた。時間が状況を変え、人間も変えてしまうことは、理解していたはずなのに」
頭で理解していたことが、心では理解できていなかった。脳で感情は作られるはずなのに、やはり人間にとって頭と心は別物なのだ。花はそう思った。花は下着も脱いで、一糸まとわぬ姿となった。男は明らかに狼狽していた。
「何をしてるんだ? 服を着ろよ」
花は目をそらし続ける男に抱きつき、無理矢理接吻をした。
「大人のやり方で、夫から私を解放して。私は今でも『お兄ちゃん』のことが好きだよ。今の夫とは、間違って結婚してしまったけど、私が本当に好きだったのは、ずっとずっと、『お兄ちゃん』だけだよ」
花は再び男に接吻した。男は考えた末に、それを受け入れた。男は自分の服を床に投げ捨て、花をベッドに押し倒した。男の思考回路は焼けただれ、問うべき問題を置き去りにした。花が自分を求めていること。花が今でも自分に助けてもらいたがっていること。それが、全てだった。
あの一件は、確かに事故だった。しかし、本当にそうだったろうか。花が言うように、あれは殺人事件ではなかったのか。男の焼けただれた脳内を、花の嬌声がかき乱す。四肢が絡み合うように、思考と記憶も絡み合う。
そして男の脳裏に「心中」という不吉な言葉が浮かび上がる。男は花の唇を塞いで、それを消し去る。
(馬鹿な。そんなはずはない)
花も男も、息が乱れていた。それでも花は幸せそうに微笑していた。
「二人で殺したのよ。私たち、共犯ね」
男は黙っていたが、花が達したのを見届けると、ぼそりとつぶやいた。
「そうかもしれない」
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