9.互いを守る理由

 花は男が働いているであろうスーパーを割り出した。県内にあのロゴを持つチェーン店はいくつもあったが、ディスカウント・スーパーという形で展開しているのは、たった数軒しかなかった。しかもこの辺りではそのスパーは一軒だけだった。早速電話をかけてみると、電話に出たのは大貫という店長だった。花は大貫に事情を説明し、「もう一度謝罪がしたい」と真摯に訴えた。大貫はあっさり了承してくれた。


 働いたことがなかった花は、男が働いているその現場と状況を見て唖然とした。スーパーのバックヤードも初めて見るので、最初はわくわくしていたが、現実を見て表と裏の格差に言葉を失ったのだ。そこは薄暗く、寒かった。生臭い匂いがしていて、床は黒く汚れていた。その床にかろうじてそれとわかる葉物野菜が張り付いていた。唯一事務所だけに明かりが点いていた。しかしその入り口に貼ってある部門ごとの社員表を見て、また絶句した。各部門に人が三人か四人しかいなかったのだ。従業員が一番多いのは、「デリカ」という部門だった。しかしそれでも六人だけだ。男はそのデリカに所属していた。これでは一人休んだだけで業務に支障がでるだろう。つまり、ここの店員は自由に休むことができないのだ。アルバイトとしてでしか働いたことのない花は、こんな現場を初めて見る。就業場所が県内に少ないから過疎地になったと地方ニュースでは言っていたが、それは嘘ではないかと思ったほどだ。


 花は事務所を訪れ、大貫と対面した。大貫は胡麻塩頭の短髪で、背は低いがごつごつとした体つきをしていた。ガキ大将がそのまま大人になったという印象だった。


 大貫は事務所の電話から、デリカの電話につなぎ、男を呼びだしてくれた。


 男は白い作業着に濃い緑色のエプロン姿でやってきた。「来客のため」とだけしか伝えられていなかった男は、花を見てたじろぎ、目を丸くした。そしてマスクを外し、一つ溜息をついた。


「帰ってもらって下さい」


 男は使い捨てマスクを握りしめ、花を明確に拒絶した。花が傷つくと知った上での言葉だった。


「おいおい、何言ってんだ? わざわざこんなところまできてくれたんだぞ? 人の出入りが気になるなら、休憩室使え。今なら誰もいないだろ?」


 大貫は帽子を取って頭を掻いた。男の境遇に同情しているのか、時々大貫が自分を子ども扱いするような言動が、男の神経を逆なでする。しかし男はそんなことはおくびにも出さなかった。大貫が言った「こんな所」とは、謙遜ではなかった。古いスーパーのバックヤードなどは皆同じようなものなのだろうが、電気をつけていないために真っ暗で、外気温に影響されやすい。その上、汚れと湿気などで床は汚く、滑りやすい。花のように高いヒールのついたブーツでここに来るなどとは、誰も考えないのだ。ただそれだけのことで、花は自分とは違う世界にいる人間なのだと、男は思う。


「じゃあ、お言葉に甘えて、部屋をお借りします。十分ほどで帰ってもらいますから」


 男は最後の言葉を、大貫だけでなく花にも聞かせるように言った。そのことに気付いた花は、わずかに頬を膨らませたが、男はそれを無視して「どうぞ」と花を休憩室まで案内する。


 今日になってからまだ一度も使われていない休憩室は薄暗くて寒かった。男は電気をつけ、エアコンのスイッチを入れた。


「ねえ、『お兄ちゃん』」


鼻にかかった、甘えるような声を花は出していた。それは意識的であったのと同時に、その意識そのものが、無意識的な条件反射のようなものだった。


「私、ちゃんと警察に言ったよ?」


絡みつくような、粘度を持った声だ。その言葉に、男の瞳は揺れた。花はそれを見逃さなかった。


「心配しないで、『お兄ちゃん』。私はよく覚えていないから、あれはたぶん事故でしたって雰囲気出して来たんだよ? ほら、あんまり事故ですって断言すると逆に怪しいでしょ? テレビでも、ラジオでも、事故扱いになっていたじゃない」


 男は白いマスクをゴミ箱に捨てる。


「母の遺体は、検屍にまわされたんだ」


 伏し目がちな男の告白に、花の顔は一瞬にして凍った。


「やっぱり、あれは『お兄ちゃん』が……。ううん。あれは二人でやった事よね? そうでしょ? 二人で明美ママの敵討ちしたんでしょ⁉」


 花は真っ赤にただれた男の手を、白く美しい手で包んだが、男はその手をすぐに振り払った。


「何を言っているか分かりません。あれは、事故です。検屍だって、念のためだと言っていましたよ」


「『お兄ちゃん』!」


「止めろよ。気持ち悪いんだよ! 三十路にもなって兄妹ごっことか、勘弁してほしい! 俺はもう、お前が知っているような奴じゃない。お前の『お兄ちゃん』は、もう死んだんだよ‼ 俺はもう、全部忘れたいんだ! お前のことも、明美さんのことも、全部‼」


 男は肩で息をしながら言った。花は肩を落として俯いた。


「ずるいよ。そんなのずるい! 私はちゃんと『お兄ちゃん』のことを守ったのに、『お兄ちゃん』は私のこと、守ってくれないの⁉」


花はセーターの腕の部分を肩まで捲った。そこには包帯が巻かれた細い腕があった。


「見て」


花は包帯を取って、その下にあった痣や傷を男に晒して見せた。


「お前、それ。まさか……」


あきらかに殴られたり、刃物で傷つけられたりした痕だ。花の利き腕の右腕にあるのだから、他人がやったことに間違いはないのだろう。


「まさか、今の旦那さん?」


花はうつむいたまま深くうなずく。


「こんなこと、誰にも言えない。言ったら、きっと殺される。守ってよ、『お兄ちゃん』。私も『お兄ちゃん』を守るから。お願い」


 花は泣くのを必死にこらえて男に近づくと、一枚のメモを渡した。花の手は微かに震えていた。それが紙を伝わって男にも伝染する。


「平日の日中なら、いつでも大丈夫だから」


そう言って、花は男のもとを去って行った。男はメモをポケットにしまって、新しいマスクをつけてデリカに戻った。


 二回の手洗いと、青いビニール手袋。容器の身と蓋。男の変わらない日常。そこに、小太りの男が顔を出す。




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