8.証言
・男の証言
いつもは寄らないデパートの帰りでした。介護をしていたのですが、母は気分によって、ご飯を食べたりパンを食べたりしていました。母は自分が気に入らないと、朝から何も食べなくなります。だから、美味しいパン屋を探していました。そして、そのデパート内にあるベーカリーショップのパンが美味しいという評判を耳にしました。そこが一番近かったというのも、理由の一つです。母はあまり遠出をするのが好きではありませんでしたから。母に自分の好きなパンを選んでもらおうと思って、連れて行きました。
車椅子をデパートから借りて、ベーカリーだけ見てきました。お恥ずかしい話ですが、家が貧しく、デパートで買い物なんて、まったく楽しめません。初めて店に入って驚きました。店に入ったとたん店員が来て、丁寧に接客をしてくれるんです。でも、商品の値段を見てすぐに場違いなところに来てしまったと、後悔しました。あんな小さなパン一つで数百円もするだなんて、信じられません。すぐに店を出ようと思いましたが、店員がついて来るので、出るに出られなくなって困りました。だから、あんな場違いなところに長居してしまったんです。車体に雪が積もっていたのはそのせいだと思います。それにしても、お金がある人の世界には、こんなところが日常としてあるのだと、驚きました。パンも、三つだけ買って出てきてしまいました。マイバッグは、いつもたたんで持ち歩いているのを使いましたが、あまりに大きいし、中身はパンが三つだけでしたし、ちょっと恥ずかしかったです。
母の介護は大変でした。ほとんど寝たきりの無気力状態でしたから。このままでは、ますます認知症が進んでしまうのではないかと、日々、心配していました。それに、毎晩のように夜中に何回も転倒していたので、ぐっすり眠れたことはここ何年かで、一度もありません。だから今日も疲れていて、眠気も溜まっていたのだと思います。でも、こんなことになるなんて、夢にも思いませんでした。
道路は圧雪状態でしたので、本当に注意して運転していました。それなのに、今日に限って、母のシートベルトをかけ忘れるなんて……。本当に、どう、母に謝ればいいのか分かりません。自分だけエアバッグで助かって、まさか母が外に投げ出されるなんて。しかも、後続車にひかれるだなんて。
ブレーキ痕? はい。スピードを少し出し過ぎていたようだったので、ブレーキを強く踏んでしまいました。そしたらスピンして、ハンドルがきかなくなって、大きな衝撃があって、気が付いた時にはもう、ぶつかっていました。
矛盾している? はい。最初は気を付けてゆっくり走っていました。でも、あそこは見通しの良い直線だったので、疲れもあったせいか、いつの間にかスピードを出し過ぎていたんです。そこに何か、黒いもの……、たぶん、カラスだったと思うのですが、視界にいきなり飛び込んできて、急ブレーキをかけたんです。
あの、一つ質問してもいいですか? はい。ありがとうございます。その、母が死んだというのに、悲しみよりも、何か、こう、安堵みたいなものがあって、そっちの方が大きいんです。もう、ゆっくり眠れるし、仕事を探すにしても正社員を選択できると思うと、何だか罪悪感と言うよりも嬉しさが込み上げてくるんです。これって、よくあることなんでしょうか? それともやっぱり、不謹慎で、親不孝なことなのでしょうか?
・女の証言
私はいつものデパートで買い物をして帰る途中でした。
高級デパート? そうですね。私にとっても高級です。でも、主人が食品は安全面で選ぶようにとうるさいですから。
主人? 開業医をやっています。ただちょっと暴力的なところがあって、少し悩んでいました。事故の時はそのことで、ぼうっとして運転していたかもしれません。それに、前の車は白くて、周りも雪で全部白かったから、気付いた時にはもう目の前に白い軽自動車がありました。
女性をひいてしまったと気付いたのは、全て後になってからです。見上げたフロントガラスが、ペンキをかけたみたいに赤くて、目の前が白から真っ赤に変わって、それがボンネットの上の人間の血だと分かった時には、パニックでした。
すみません。私、怖くて、どうしたらいいか分からなくなって、何もできませんでした。早くその場から立ち去って、嘘だと思いたかった。私は本当に馬鹿です。偶然とはいえ、一人の人間を殺してしまったのに、自分のことばかり考えていました。でも、どうして女性は外に出ていたんでしょう? どうして、私の車だったのでしょう?
話せない? 守秘義務ですか? そうですよね。すみません。
え? カラス? さあ、私は見ていないと思います。私が記憶しているのは、前の車のブレーキランプが目に飛び込んできたところまでです。その後はどうなって追突したのか、詳しいことは、よく覚えていません。今も混乱していて、曖昧な部分も多くて、これでも証言になりますか?
はい。そうですか。良かったです。少しでもご協力できたなら、本当に良かったです。
この一件は、不幸な偶然が重なった事故として、世間に発表された。大きな事件など滅多に起こらない田舎では一大ニュースだった。全国ニュースでは全く取り上げられなかったが、地方ニュースではトップニュースで伝えられた。地方紙の一面を飾り、人々の憶測を呼んだ。しかし時が経つにつれて事故のニュースは風化していき、次第に人々の話題にもならなくなった。
雪国の田舎で起きた不幸な事故は、都会では雪による電車の運休や遅延の情報にかき消される。雪深い田舎の一人の老婆の死は、都会の人々にとって、自分の移動手段よりも軽いのだろうか。もしそうなら、都会と田舎の格差とは、命の格差と言えるのではないだろうか。
それとも、時間が関係してくるのだろうか。まさに、時間の問題だろうか。老婆の一生よりも、多くの人々の遅延分の時間の総数が、上回っているというだけのことだろうか。
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