7.再会


(何かが起きるなら、ここしかない)


そんな確信めいた思いが、脳を支配していた。白い軽自動車は、急にスピードを上げた。まるで花の車を引き離すような速度に、花は一瞬、気付かれたかと心配になったが、そうではなかった。圧雪状態の道路でスピードを上げるのは、自殺行為だ。白い軽自動車のドライバーもそれは分かっているはずだ。


 男は何か、事を起こそうとしているに違いなかった。花は、引き離されまいとアクセルをゆっくり踏み込んだ。しかし次の瞬間、白い軽自動車が急ブレーキをかけて、大きくスピンした。花の自動車はアラームを鳴らして自動ブレーキをかけたが、間に合わずに白い軽自動車にそのまま追突した。この瞬間に何かが白い軽自動車から飛んできたように見えたが、花は悲鳴と共に目をつぶってしまい、何が起きたのか分からなかった。花はエアバッグに守られて無事だった。


 しかし、上に視線をやると、フロントガラスは粉々にひびが入り、真っ赤に染まっていた。錆びた鉄の臭いが生臭さを伴って鼻をつく。


「え?」


 その真っ赤なものが人間の血であり、ひびの入ったフロントガラスがモザイク状になってよく見えないが、ボンネットに乗っているのが人の体であると認識した時、花の金切り声が辺りにこだました。花は頭を抱え、逃げるように車の外に出た。その瞬間、狼の遠吠えに似た風の音がして、積もった雪を舞い上げた。地吹雪と横殴りの吹雪が混ざって、一瞬、ホアイトアウトする。


 男は花に背を向けて、ケイタイで通話中だった。おそらく、救急車と警察に電話をかけたのだろう。男は花に気付くことなく電話を切って、振り返った。男も頭から血を流していたが、そんなことはどうでもよかった。男は花の存在に気づき、ビクリと肩を震わせた。男の瞳に恐れと警戒の色がにじんでいるのを見た花は、冷静さを取り戻した。そして二人は、刺すような痛みをもたらす地吹雪の中で、しばし見つめ合った。互いに、何と言葉に言い表せばいいのか分からない感情を抱いていた。


 遠くの山々が水墨画の風景を作り出していた。それ以上遠くの山々は、雪に塗りつぶされて白くて見えない。近くの黒い針葉樹林が、硬質な音を立ててざわざわと鳴る。遠くの水墨画の世界まで雪原が続いているため、真横から見ると男と花は本当に隔絶された世界に二人だけ取り残されているようだった。


「私よ、『お兄ちゃん』。分かる?」


 男の目は生気を取り戻し、大きく見開かれる。その目の中で、黒い瞳が小刻みに揺れていた。


「は……、な……?」


 男がやっと出したかすれた声を、狼の遠吠えが奪い去っていくが、花には男の口の動きだけで十分だった。男は自分を忘れてはいなかった。時が残酷にも二人を分かち、姿を変えて邂逅させるまで、男は花という人間を覚えていた。花はそれが嬉しかった。


「『お兄ちゃん』」


 花はついに泣きだした。いつものように目頭を押さえるおしとやかな泣き方ではなく、子供が転んで親に助けを求める時のような泣き方だった。男は困惑しながらも、ばつの悪そうな顔をしていた。男は昔の仲間に会いたくなかったのだ。自分の生活が困窮し、同情されるのが嫌だった。それは男のちっぽけだがなけなしのプライドだった。まさか皆の兄貴分だった男が、つまらないただの一人の男であることが嫌だった。しかもこんな雪深い僻地に戻って、スーパーのパートをしながら、母親の介護で疲れ果てている姿を見られることも、嫌だった。情けなかった。

 一方花は、一目見ただけでも、高級そうなコートやブーツを身に着けている。腕時計や装飾品も、何かのブランドものだろう。花がモデルの様な体型だったため、余計にセレブ感が増していた。


「母さん?」


 男はそう言って、後部座席に目をやったが、そこには粉々に割れた窓があるだけだった。辺りを見回すと、赤い血が真っ白な地面に垂れていた。男の母親は、花の車のボンネットの上で仰向けに横たわっていた。腹を抱えるように内側に曲がっていた背中は、外側に反り返っていた。両手両足が、ねじれるように関節を無視して曲がっていた。白髪を赤く染めた血が、ボンネットの上に大量に流れている。


「母さん!」


 男が母親に駆け寄るが、もう手の施しようがないことは誰の目にも一目瞭然だった。唯一の救いは、男の母親が安らかな笑みをたたえていたことだろう。おそらくは即死だ。


「お、かあ、さ、ん?」


 男は冷たくなった母の手を握って慟哭していた。


「お母さん?」


 花は背中がゾクリ、とする感覚を味わった。満足感と達成感がそうさせたのだ。


(やっぱりそうだった)


 花は心の中で快哉を叫んだ。あの老婆は男の祖母ではなく、母親だった。それは花と男にとって、重要な意味を持っていた。つまり今ここで死んだのは花と男の共通の仇だった。花はコートが吹雪でひるがえることもいとわずに、艶然と笑んだ。そして体の中から黒い溶岩が溶けだしたように、体が再び熱くなるのを感じた。


 男はずるずると地面に座り込み、涙を流していた。大量の血が、辺りに飛散していた。花の車のボンネットからは、いまだに血がぽたぽたと落ちていた。それはまるで真っ白なカンバスに、赤い絵の具で染めていくような光景だった。


 男は相変わらず泣いていたが、花はそれが男の演技だと思った。警察が来た時のための、ただのパフォーマンスをしてるに過ぎないと。それを肯定するように、男は言った。


「花、お前まで事故に巻き込んでしまって、悪かった」


男は冷たくなった母親の白髪をすくいあげながら言った。花はそんな男に後ろから抱きつき、男の背中に顔をうずめた。男の体からは、長年の介護で染み着いた腐りかけの果実のような臭いがした。男は母親を介護していた。一体どんな気持ちで自分の大事な人を奪った女の介護をしていたのだろう。花にはそれを推し量ることもできなかった。


「事故なの? 本当にこれは事故なの⁉」

「花?」

「違うでしょ? これは私たちの復讐でしょ? あの時の敵討ちよ! 私とお兄ちゃんの二人で、この人を殺したのよ‼」


 狼のように唸る風の音と、冷えていく体。礫のような雪には、痛みすら覚えていたはずなのに、その感覚すら徐々になくなっていく。


「殺した? 母さんを? 何を言ってるんだ?」

「二人で殺したのよ‼」


 花は叫んだが吹雪に半分持って行かれる。それでも男は、花の声をしっかり耳にした。


「明美ママの仇をとったの‼」


男は、花が「カッコウの巣」で明美さんのことを「明美ママ」と呼んで、とても慕っていたことを、鮮明に思い出した。そして、歳の変わらない自分を「お兄ちゃん」と呼んでいたことも。




 やがて救急車と警察が来て、状況を説明するように求められた。




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