二章 田島花

6.駐車場にて

 ほどよく暖房がきいた店内に、クラシックのメロディが流れていた。白い大理石を思わせる床が、照明を柔らかく反射している。この辺りで一番大きなデパートの中には、いくつものブランドショップが軒を連ね、統一された制服に淡いピンクのスカーフを巻いた店員が、にこやかに「いらっしゃいませ」と言って頭を下げる。店はそんなに混雑していない。一歩店に入れば、一人の客に対して一人の店員が付き添って買い物のアドバイスをしてくれる。ここにいる客のほとんどが、このデパートの常連であり、このデパートで買ったブランド物で身を固めている。田嶋花たじまはなもその例外ではない。この辺りでは高級店として有名なデパートでいつもの買い物を済ませた田嶋花は、自分の車に触れようとして、顔をしかめた。静電気が起こっただけだったが、パチンといって一瞬押し返される感覚は、車が自分を拒絶したようで腹が立った。ゆるく巻いた髪を栗毛に染め、長身で痩せた花は、近所では「美人妻」、「モデルの奥様」などと噂になるほどの新妻だった。一回りも違う年上のエリート医師と結婚したばかりの花は、遠目から見れば、順風満帆に見えた。しかし、近くで見ると花は傷だらけだった。あちこちに包帯が巻いてあったり、バンドエイドが貼ってあったりしている。今は上品なベージュ色のコートで隠れているが、手足だけでなく花の全身に応急処置の痕跡があるのだ。


 花は荷物を後部座席に置いて、運転席に乗り込む。そして顔を上げた時、一人の猫背の男が老婆を車椅子に乗せて、花の目の前を通った。花は男の横顔に見覚えがある気がした。人の名前と顔を一致させることには自信があった花だったが、今の男がまとっていた空気は、花がよく知る男とはあまりにもかけ離れたものだった。男は洗濯して縮んだような窮屈そうなセーターを、色が合わないトレーナーの上に羽織っていた。下は膝がむき出しになったジーパンをはいていた。明らかにクラッシュジーンズではなく、長年はき続けて自然に穴が開いてしまったという様子だった。老婆は白いフリースを着ていたが、ボタンがちぐはぐだった。いや、介護されているなら、ボタンではなくマジックテープがうまくかみ合っていないのかもしれない。下は車椅子に隠れて見えなかったが、着るものに困っているように見えた。


「『お兄ちゃん』?」


 「まさか」という思いと、「もしかしたら」という思いが花の中で激しく交差する。結局、「そんなはずはない」と思ったが、花は男を探していた。そして、白くて古い軽自動車に、老婆を乗せる男の姿を見つけた。男は老婆を抱えるようにして椅子から降ろすと、車の後部座席に座らせた。後部座席には、濃い緑色の大きなエコバッグがあった。男の動きはとてもスムーズで、日ごろから男が老婆の介護をしていることが一目瞭然だった。男はデパートの名前とロゴが入った車椅子を戻すために店内に戻って行った。


 その時幸運にも、白い軽自動車の正面にいた車が駐車場から出て行った。この車の車体が大きかったため、花には老婆の顔も、男の顔も、わずかな隙間からしか見えていなかったのである。これで車の中から、相手に気付かれずに男の顔を見ることができるだろう。花の乗っている車のフロントガラスが、徐々に曇って来た。周りの方から白く視界が遮られていく。花は自分が暖房を入れ忘れていたことに今気づいて、すぐに暖房を入れた。するとフロントガラスの曇りも解消された。花の胸が早鐘を打ち、緊張して汗がにじんだ。


(自分は誰を待っていて、何に期待しているのだろう?)


花は自身に問いかけたが、答えは出なかった。


 男が小走りで車に戻ってくる。その男は、花の知人に酷似した別人だった。だがあんなに背が高く、弱弱しい体つきをした男を、花は知らない。あんなに暗い表情で笑う、頬がこけている男が、花の知っている男のはずがない。花の心に氷の矢が刺さった。それは淡い期待を抱いてしまった自分への代償だった。大きな期待を裏切られるほど、心が急激に冷えることはない。あの男は、花の初恋の人ではなかった。


 ならば、あの老婆は誰だったろうか。眠っているように見えるあの老婆は、男の祖母に当たるのだろうか。濃い緑色のバッグと一緒に、後部座席に運びこまれた白髪の老婆。


 花は自分が勘違いをしていることに、ようやく気が付いた。花が知っていたのは、男の方ではなく、あの老婆の方だった。老婆を知っていたから、あの男を知人だと思い込んでしまったのだ。そしてあのエコバッグにも、花は見覚えがあった。濃い緑に、白で葉っぱのロゴが印刷された大きな袋。ディスカウント・スーパーの開店記念の時に、記念品として何年か前に配られた物だ。花はその店に行ったことはないが、新聞広告でロゴを何度か目にしたことがあった。また、使い勝手がいいのか、近所の人でも持ち歩いているのを見たことがある。しかし、ディスカウント・スーパーで買い物をするような人が、この高級デパートで何をしに来たというのか。お世辞にも整った身だしなみはしておらず、どこのブランド品も持っていない。そんな老婆とやつれた男に、このデパートは明らかに不釣り合いだ。そして雪さえ積もっていなければ、すぐにこの男の車もこの駐車場では悪目立ちしただろう。この駐車場には新車ばかりが並んでいて、しかもそのほとんどが最新モデルだ。中にはキャンピングカーまである。駐車場の白線が雪の下になって見えなくなっていても、他の客の車の大きさを考えて間隔を空けているところが余裕と慣れを感じさせる。しかし男の車は明らかに車間を間違えている。それだけを見ても、男がこのデパートに慣れていないと分かった。今は雪がチラチラと舞う程度だが、男の車には雪が積もっていた。雪用のワイパーが凍結防止のために皆立てられていて、雪で作られた巨大なカタツムリが駐車場に並んでいるように見える。おそらく長い間デパート内にいたのだろう。男は軽く雪をブラシで払ってから、ワイパーを元の位置に戻した。それにしても古くて使い込まれた車だ。中古車かもしれない。ナンバープレートも積もった雪で真っ白になっている。その車のワイパーが動き、フロントガラスの雪を払い始めた。白い軽自動車が、駐車場を出ようとしているのだ。


 花はある可能性を考え付いて、戦慄し、体が急に熱くなった。


 急いで花も車のワイパーを動かして、薄く積もったフロントガラスの雪を払う。タイヤが雪道用のスタッドレスタイヤなら、ワイパーも雪国仕様だった。凍ったフロントガラスがガリガリと不快な音を立てる。そして、道順に従って車道に出る。そして雪が踏み固められて真っ白になった道を、走り始めた。白い軽自動車を追いながら、花は体が震えているのを感じていた。心臓の音が耳元で鳴りはじめた。トクトクトクという早鐘とは違う、ドクン、ドクン、という一音一音が鼓膜を震わせるはっきりとした音だ。それはまるで何かのカウントダウンのように聞こえた。


 やがて車は見通しの良い直線道路に入って、しばらく走った。反対車線では畑を耕すトラクターに似た動きをする黄色く大きな除雪車が、赤いブレードで雪をかき込み、上から勢いよく放出していた。除雪車の相棒のようにぴたりとくっついていたトラックが、その放出された雪を荷台で受け止めていた。トラックの荷台はすぐに雪で満載となり、遅い除雪車を追い抜いて雪捨て場になっている河川敷に向って走り去った。除雪車はトラックが戻ってくる間、高い雪壁の上からさらに雪を積む。私はそんな除雪車の雪のかきこみ方を見ている内に、小学校低学年の頃を思い出した。雪まみれになりながら、新雪に顔型や人型をつけて遊んだ。雪の上で楽しそうな悲鳴をあげながら、女の子たちだけで遊んでいた。雪合戦よりも高い雪の上から歩道に向って滑り落ちてくるのが、楽しかった。手の届く氷柱を手折って、アイスのように舐めていた。そんな時、ふとしたことから私の長靴が雪にはまって抜けなくなってしまった。友達も手伝ってくれて、雪の中から掘り出そうとしたけれど、結局駄目で、爬行して靴下のまま家に帰って怒られた。あの長靴は、その後春になって出てきた。他人の家の畑の真ん中に、ぽつん、とピンクの長靴が置いてあった。私はそれを見てみぬふりをした。


 時々、強風が吹きつける。道路の両側に風よけの銀色のフェンスがあるが、自然の猛威を前にして全くの無力だった。フェンスの外側は山裾まで田畑が広がっているため、遮る建物もなく車体に風と雪が一緒になってぶつかってくる。あまりの風に、ハンドルを取られそうになるのを、ぐっとこらえる。曇天を飛ぶ規則正しいV字形の白鳥の隊列が、ぐにゃりと歪んで、流されそうになる。花はいつも使っているこの道が、不吉に思えて仕方なかった。

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