4.薬

「毎晩、毎晩、起こされる方がよっぽど嫌だよ。それに、もし俺が熟睡してたら、ずっと一人で叫び続けるの? おもらしまでして、風邪ひいたらどうするの? 大体、もし転んだときに頭を角にぶつけたら本当に危ないんだぞ? 本当に寝たきりになってもいいのか?」


 「毎晩」と言ったが、正確には「毎晩」ではない。母はまれに転ばずに普通のトイレに入ることがあるし、これもまれにポータブルトイレを使うことがある。どちらも母の気分と運次第だ。そして、トイレに行きたくなる時間も当然、決まってはいない。だから、いつ、どこで、転倒して喚き始めるのかは分からないのだ。


「おもらしなんか、してない!」


 母は失禁することが昼夜問わず多いが、それを認めたことは一度もない。椅子の上の座布団がびしょびしょにぬれていても、母は膀胱の感覚までなくしているので分からないのだ。その上自分の尿であるにもかかわらず、母は俺が濡らしていると思い込んでいた。


「はいはい。もう分かったから、着替えようか?」


 俺は大きなため息をして諦めた。認知症の人に自分の非を認めるように責めるのは、逆効果であると思い出したからだ。


「おもらしなんか、してないって言ってるのが分からないのか⁉」


「じゃあ、パジャマが濡れているから着替えようか? 下着も全部ね」


 母は紙おむつをはいていたが、町から支給される「おむつ券」では粗悪品しか買えないため、転んだら必ずもらしてしまう。この町に薬局は一つしかなく、そこは町長の実家だ。一か月で二千円の「おむつ券」が支給されているが、町内でしか使えず、その薬局で売っている成人用のおむつはちょうど二千円の物一種類しか置いていない。サイズだって、MかLしか選べなかった。他の自治体では同じ二千円の支給でも、全国チェーン店のドラッグストアで品質のいい紙おむつとお尻拭きシートなどをまとめて買うことができた。うらやましく思ったことが何度もあるが、口に出さないことにしている。不満を言ってもこの町はくみ取ってはくれないだろうから。この町は少子高齢社会であるのに、子供のことだけを考えているように見える。育児だけでなく介護環境や働く場所が整わなければ、定住することは難しいということに気付いていない。


 母が着替えをしている間、俺はトイレットペーパーと使い捨てのトイレ用ウェットテッシュで、床を掃除する。息は白く、足先は赤く、指はかじかみ、体は冷え切っていた。母の着替えを取りに行って、洗濯機を回す。その間に朝食を準備する。


「今日は何を食べるの?」


 母は寒くなったのか、それともまだ眠りたいのか、布団から頭だけを出している。今日は母にも予定が入っているのに、呑気なものだ。起きていられる体でありながら、隙さえあれば眠ろうとする生活を送っているために膀胱の感覚を失ったことを、母は自分のこととしてとらえていなかった。


「食べたくない」

「駄目だよ。薬が飲めなくなるだろ」


 母の薬を管理するのも、俺の役割だ。薬を次の通院日までに飲み終わらないと、医者から注意されるのも、俺だ。


「ご飯? パン?」

「パン!」


 答えがあった分だけ、今日はまともだった。いつもなら不満と嫌味と悪口を叩きながら、「食べない」とか「食べたくない」とかを繰り返して起きることさえ拒否する。ストーブで部屋を暖めてから、母を茶の間に移動させる。その歩みは亀より遅いと言っては、亀に失礼なくらい遅い。廊下の窓には、まるでアールヌーボーの画家が描いた芸術作品のような霜が、模様となって浮かび上がっていた。これはこれで幻想的で美しいのだが、俺はもう「ああ、やっぱり今日は冷えたな」程度にしか思わなくなっていた。そして、この冷え方ならさすがに雪は積もるくらいは降らなかっただろうと、一人合点する。母を椅子に座らせて、キャスター付きのテーブルを母の目の前に置く。俺は母にメロンパンの袋を破って渡す。母の指は袋の端をつかむことができないほど不器用になり、袋を開けられないほど握力も落ちていた。俺は母がパンを食べ始めたのを確認して、ホットココアに漢方薬を混ぜて持っていく。朝食後の薬は多い。特に母は漢方薬が嫌いで、薬剤師に相談した。そうしたら薬剤師はココアに混ぜると飲みやすいと教えてくれた。


 母は一口かじったパンに顔をしかめ、中をほじくり出した。畳の上にパン屑がボロボロと落ちるが、母は気に留めない。ノミやダニなどの害虫は喜ぶかもしれないが、俺は掃除のことを考えて頭が痛くなった。


「どうしたの?」


「まずい。中に何も入ってないじゃないか」


「え? 前はメロンパンがいいって言ってたじゃないか。だからわざわざ買って来たんだぞ?」


「もう食べない。食べたくない」


 母は一口かじって、中をボロボロにしたメロンパンを、テーブルの上に投げ出す。その食べ物をゴミのように扱う姿に苛立ちながらも、俺はそれを抑えてメロンパンを母のもとに引き寄せる。母は、他人が自分の世話をするのが当然だと思っている。そして自分が一番偉いと勘違いをしているのだ。だから全て人任せであるのに「ありがとう」という礼を言うこともないし、間違いを認めて謝ることもしない。自分の全てが正しいと思い込んでいるのだ。そしてすべての元凶は俺だと思っているに違いない。


「薬、飲めなくなるから、半分くらいは食べろよ。それに、今日はデイサービスの日だろ?」


 母はデイサービスを週に二回だけ、利用している。九時半から十六時まで、老人ホームで母を預かってもらうのだ。送迎もあるし、施設で風呂にも入れてもらえるので、俺にとってはありがたかった。母もデイサービスには行きたいらしく、その日だけは朝食を食べることが多い。今日も、しぶしぶココアでメロンパンを流し込むようにして、半分は食べてくれた。残りのもう半分は、当然のように俺に押し付けてくる。何故かこういう時にだけ「もったいない精神」があって、自分が指でほじくった食べ物でも、自分がかじりついた食べ物でも他人に食べさせようとする。本当に有難迷惑だ。


「お前が食べろ」


「いや。俺はもうご飯食べたから、いらないよ。てか、パンに文句があるなら、今度から自分で選んだら? スーパー、連れて行くからさ」


「お前、私を車椅子なんかに乗せて、連れまわす気か⁉」


 母は、偏見の塊である。車椅子に乗ること自体を恥じだと思っているらしく、病院に連れて行くときですら車椅子を拒否するので毎回苦労する。俺も母の介護をする前までは、車いすの人に同情していたが、今になってみるとそれは間違っていたのではないだろうか、と思う。車椅子の人は、同情なんて求めていないし、車椅子を押している人こそ大変な思いをしているという考えが、俺には抜けていたのだ。


「薬、飲んで」


 俺が薬を渡すと、ぶつぶつ文句を言いながらココアで飲み始める。

 

「じゃあ、デイサービスの物はここに入れておいたから、玄関に置いておくよ」


 俺は母の下着やおむつ、日誌、昼食後の薬などが入ったバッグを下駄箱の上に置く。まるでわがままで大きな子供を幼稚園に送り出すようなものだ。


 その間に洗濯機がとまったので、手早くそれを物干し小屋に干す。古い家で貧乏だったから、洒落たバルコニーなどはない。ただの物置小屋の空いたスペースに物干し竿を吊り下げただけの、簡素な手作りの物干し小屋だ。


 それから母がこぼしたところを箒で掃いて、俺は玄関を気にしつつ、ギシギシと鳴る階段を上る。二階にある自室で仕事に行く準備をするためだ。自室にはシングルベッドがあったが、母が転倒するようになってから一階の和室で寝起きしている。布団のないベッドは寒そうで、部屋の気温がさらに下がったように感じる。俺は白いポロシャツに黒のスラックスをはいて、バッグに財布やケイタイを入れる。俺の今の仕事は週三回のパートだ。母がデイサービスに行く日と、ヘルパーさんが来てくれる日だけ、近所のスーパーで働いている。母の個人年金と俺のわずかな稼ぎで、何とか食いつなぐ日々。元々俺の家は裕福な家ではなかったが、今ほどひどい状態ではなかった気がする。未婚の俺は子育てをしたことがないが、子供の成長を見るのは、楽しいに違いない。しかし老人介護の場合、悪くなることはあっても良くなることはまれだから、正直、しんどいな、と思う。専業主婦は職業的な扱いを社会において受けているが、専業介護者は職業的な立場が与えられないのは何故なのか、不思議に思うこともある。


 思わず、ため息が出る。


 そんな時、また下で大きな物音がした。母が廊下で喚いている。しかし今度はやけに遠くに母の声が聞こえてきた。




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