3.雪の日に
朝、大きな音がして、その音で目が覚めた。おそらくわずかな振動も伝わっていただろう。もっと夢の中の温もりを感じていたかったが、それは叶わなかった。俺はもういい歳をした大人になっていたし、現実は理不尽で、厳しい。ケイタイで時間を確認する。夜闇の中の液晶画面に浮かんだデジタル時計は、まだ四時を回ったところだった。いや、この雪の日に四時は遅い方だろう。除雪車が車道も歩道も三時ころには雪をはらっていくからだ。
雪が音を吸って、静寂が広がるというのは幻想だ。雪は、うるさい。そして、凶暴だ。屋根に積もった雪は重いものを引きずった時の、ずずずっというくぐもった音を響かせ、終いにはドドドドと雪崩を起こす。雪崩というよりも、滝と言った方がイメージしやすいかもしれない。まるで、地震が起こったような振動が襲う。雪の先には氷柱もついているので、その下にいたら死ぬ可能性もある。地方のテレビ局が一メートル四方の雪がどのくらい破壊力があるのか、実験した映像があった。一番上の新雪はふわふわしているが、その下には締まった雪が堆積しているため、屋根の高さからその雪の塊を落とすと、ガラスやコンクリートブロックがいとも容易く粉々に割れる。
昨日の天気予報の積雪量情報は、二番目の五センチから十四センチと表示されていた。大雪注意報や着雪注意報も出ていなかった。確かに五センチから十四センチ程度の雪なら大したことはない。東京にいた頃はそれくらいでも大騒ぎしていたが、ここでは少ないほうだ。東京なら雪で公共交通機関が麻痺するのは当たり前だったし、あちこちで人が転倒する光景を見ることができる。中には滑って転んだ拍子に怪我をする人も出る。ここでそんな話をすれば笑い話だが、東京では切実だった。NHKの積雪量情報は、三段階だ。一番少ないのは一センチから四センチ。二番目は五センチから十四センチ。三番目は十五センチから二十九センチだ。もちろんその予報では足りずに、その倍以上の積雪となることもしばしばあった。こうなると、もはや家の玄関が圧迫されている状態だ。スコップで掘り進めなければ、家から出ることすら困難になる。
除雪車がこないということは、五センチくらいしか積もらなかったのだろう。除雪車のドライバーも大変だ。歩合制だから雪が多く降れば収入も増えるが、作業も増える。キリンのような形の除雪車とトラックが一組となり、除雪車が下から掻き込んで上から放出する大量の雪を、トラックが荷台で受け止めて、近くの雪捨て場に運んでいく。相棒がいなくなったキリンは、雪の壁にさらに雪を乗せていく。車道と歩道の間には、四メートルはあろうかというほどの雪の壁が、分厚くそそり立つ。雪の壁は、地層のようだった。この地層に赤いラインが入ると、「赤雪が降った」と言って、そろそろ雪が降らなくなる目安としていた。しかしこの「赤雪」は黄砂が飛ばされてきたものであり、赤いラインが入っても、雪が降り続く年もあった。その他にも、蟷螂の卵やカラスの巣が上にあるほど、その年の雪が多いとか、カメムシが多いと雪が多いとか、様々に言われていた。雪国の知恵というよりは、迷信に近かった。豪雪地帯の中でも、雪が多い町だった。毎年のように、大型除雪機が意図せず生み出す壁は、大人でも迷ってしまいそうな迷宮だった。
白黒の世界。雪を見すぎてはいけない。雪目になってしまうから。
今日は玄関から道路までの除雪をしなくて済むと思うとそれだけで、気が緩みそうになる。外を見ると、まだ暗い夜の帳が降ろされたままになっている。それでも明るく見えるのは、雪があらゆる光を反射するからだ。そしてなにより、寒かった。おそらく室内の気温も氷点下の気温であろうが、気にしてはいられない。俺がもたもたしている間に、また近所の人から白い目で見られるかもしれない。まだそれだけで済めばいいが、救急車や警察を呼ばれては大変だ。ここは田舎だから、家と家はだいぶ離れている。それにもかかわらず、母は隣の家にまで聞こえる音量で叫ぶのだ。こんな牧歌的な何もないところに緊急車両が現れたら、何事かと集まった野次馬で人垣ができるに違いない。
「誰かー! 誰かぁ! 助けて、助けてぇ! 誰かああぁ!」
母がまた、外に聞こえるような大声で誰かに助けを求め、喚き始めた。この家にはもはや、母と俺しかいないのに、母は俺の名前を呼ばない。おそらく、俺の存在すら、認識していないだろう。そしてこの母の叫び声を聞いた近所の人々が俺の家の前に集まったこともある。今では「またか」という程度だろうが、この声を聞けば誰でも初めは警察沙汰だと思うに違いない。
俺は部屋から飛び出し、白い息を吐きだしながら、廊下を走る。足の裏から冷気が上がってくる。顔は冷たいと言うよりも痛い感覚に近い。体の表面からじわりじわりと、寒気が侵食してくるのが分かる。雪焼けを起こして赤くなった頬が、ピリピリといっている。
「誰かあああぁ! 助けてえええっ!」
大声で喚き散らす母親は、すっかり尻餅をついていた。しかも何か臭うと思ったら、盛大に失禁している。母の目の前には倒れた歩行補助具と、トイレのドアがあった。どうやらトイレに行こうとして、歩行補助具を使って歩いてきたが、ここで補助具の操作を誤り、補助具共々横倒しになったらしい。一度転倒すると、母はもう自力では起き上がることができない。足が内側に曲がったまま、固まってしまっているのだ。しかもその曲がり具合は、日を追うごとにひどくなっていた。整形外科の医師に相談したが、「歳だから」と諦めるように言われた。俺が歩行補助具を横にどけると、母はようやく喚くのを止めた。白髪の老女となった母は水頭症を患っている上に、夜は睡眠導入剤を飲んでいる。水頭症とは、脳に水が溜まり、歩行を困難にしてしまう病気だ。その上夜は睡眠導入剤のせいで、ただ立っていてでさえ眠気でふらつくことがあった。その上認知症も重なり、「自分がボケていない」ことや「自分は何でもできる」ということに執着しているように見えた。
「ほら、起こすよ」
俺は利き足である右足を母の股の間に入れて、両腕を母の脇の下に深く差し込む。
「せーの!」
そう言いながら、母を抱きかかえるようにして立たせる。この状態のまま、歩行補助器を手繰り寄せて母に捕まらせる。もう何十回こうして立たせたか分からない。我ながらもう介護職員並みに慣れてきている。
「何で、部屋のポータブル使わないんだよ?」
俺の口から、何十回目かの同じ言葉が口を突いて出る。一年ほど前に、
「ポータブルを何で使わないか、って、きいてるんだよ!」
思わず俺は苛立って大きな声で母を責めていた。認知症の老人に対して、これはやってはならない行為だと分かっていても、そうせずにはいられなかった。最近介護に疲れて来たのか、心のバランスがうまく取れない時がある。報われない努力を毎日強制されているような日々なのだから、当然と言えば当然だった。
「ウルサイ、ウルサイ! あんなオマルに誰がするもんか! 部屋が臭くなったら、お前が責任取れるのか⁉」
「だから、ちゃんと水を張って、臭い消しも入れたから大丈夫だって、刈屋木工の人から説明受けただろ!」
「あんな奴らの言葉、信じられるか! 嘘に決まってる! お前だって、本当は面倒だと思ってるんだろ? 汚いと思ってるんだろ?」
ポータブルの方に用を足したら水洗トイレに中身を流し、また水を張って、臭い消し剤を入れなければならない。これを毎日繰り返さなければならないというのは、確かに気が滅入る話だった。しかし、もっと苦痛なことがある。こんな時間に起こされることだ。今日は偶然にも雪かきをしなくて済むが、それまでは毎日のように雪かきをしていた。せっかく雪かきがないのだから、せめて五時まで眠っていたかった。
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