2.あってはならない
「手伝うなら、やっぱり宿題をやってからにしてちょうだい」
明美さんは腕で目を擦りながら言った。玉ねぎは、もうとっくに切り終わっていた。明美さんが切っていたのは、人参だった。明美さんに背中を向けたままの俺は、そんなことには気づかず、黒くて傷だらけのランドセルを手繰り寄せた。ランドセルの傷は、男の勲章だ。最近のランドセルは色も選べるし、デザインも凝っている。少し前までは女の子が赤で、男の子は黒と決まっていたという話が嘘みたいだ。俺はそんな嘘みたいな少し前の方が良かったと思っている。ここに来る小学生のほとんどは、ランドセルの色もデザインも選ぶことができないからだ。もし今でも赤と黒のランドセルしかなく、デザインもシンプルだったら、誰が貧しい家の子か分からずに済む。そうなればからかわれたり、苛められたりする最初の要因がなくなるに違いない。
「面倒くせぇ」
俺は悪態をつきながら国語のプリント教材を摘み出し、テーブルの隅に置く。B5版の国語のプリント教材だ。表に文章問題。裏に漢字テストがついている。白黒の印刷で、いかにもそっけなくて、つまらなそうだ。続けて筆箱を取り出して、プリントが飛ばないように上に置いた。ランドセルは足元に置きっぱなしだ。
「ちょっと、隆一。そこでやるの?」
そことは、台所にある四角いテーブルの上のことだ。食材や段ボール箱が乱雑に置いてあったが、俺は気にしなかった。
「いいじゃん。別に」
「隣の部屋に行って」
「嫌だね。もうちょっとでガキ共が来るじゃんよ。そしたら隣の部屋でテレビつくから、集中できねぇよ」
「隆一だって小学生でしょうが」
「俺は最高学年。あいつらは俺より年下。まあ、四十路過ぎたババアから見たら、俺もガキなんだろうけどよ」
「もう、口ばっかり達者になって! じゃあ、他の子が来るまでに宿題を終わらせればいいでしょ?」
「はい、はーい」
俺は筆箱の下からプリントを抜き取る。左下に鳥の絵が描かれた文章問題だった。
「ん?」
俺はこの鳥に見覚えがあった。この家の玄関ドアに描かれた鳥と酷似していたからだ。プリントの題名には『カッコウ』と書いてあり、それを読み進めていくと、カッコウが子供を育てるための巣作りや、子育てそのものをしない鳥であると書いてあった。俺はこの時初めてカッコウと言う鳥の性質を知った。
「え?」
俺は珍しく文章を何度か読み返したが、やはり同じ内容が書いてある。どうやら読み間違いではなさそうだ。鉛筆の背で頭を掻いた俺は、思わず「ねえ」と声を出していた。
「何?」
明美さんが料理をしながら答えた。大鍋に、野菜をごろごろ入れる音がした。
「ここって、『カッコウの巣』だよね?」
「うん」
「何でその名前にしたの?」
「どうしたの、急に?」
明美さんが手を止めたので、俺はプリントをその手に渡す。すると明美さんは「ああ」と嬉しそうに声をあげた。まるで帰り道で偶然四葉のクローバーを見つけた少女のような、明るく自慢げな声だった。
「隆一に話したこと、なかったね」
そう言いながら明美さんは俺にプリントを返し、大鍋の火を弱火にした。そして俺を後ろから羽交い絞めにするように抱きしめると、「カッコウの巣」の由来を語り始めた。
「カッコウはそこに書いてある通り、巣作りをしない鳥なの。そしてカッコウは子育てもしない。隆一は托卵って知ってる?」
俺は真っ赤な顔をしながら首を振る。すると優しい声が、頭の真上から降ってくる。その声は雨のように乾いてささくれ立った心に浸みわたり、光のように降り注ぐ。
「托卵っていうのはね、他の鳥の巣に、自分の卵を産み落とすというものなの。そしてカッコウはその巣の親鳥に、自分の子供を育てさせるのよ」
「逆じゃん。ここは親が夕食の面倒みられない奴らに、飯食わせたり、子供同士で勉強教えたりする場所だろうが。托卵してんのは実の親で、ここは托卵されてる側じゃねぇか」
俺の顔は、憎悪と嫌悪で醜く歪んだ。そして俺はお門違いにも、明美さんに対して反感を抱いた。
「最後まで聞きなさい」
明美は両手で、俺の顔を強く挟んだ。左右から押しつぶされた俺の顔は変顔になっていた。それを上から覗き込んだ明美さんが声をあげて笑うから、俺は「止めろ」と言って明美さんの手を払った。すると明美さんは「冗談、冗談」と言ってまた笑う。本当によく笑う人だ。
「カッコウのヒナは、巣の卵より早く羽化して、一番最初に何をすると思う?」
「親を求めて鳴くんじゃないか?」
生まれてすぐに世界を見たら、自分の親がいなかった。それは何とも心細く、悲しく、寂しい状況だろう。人間の赤ん坊なら、間違いなく泣いているだろう。だからカッコウのヒナも当然鳴くのだろうと思った。しかし明美さんは穏やかな声で、残酷な事実を告げた。
「ううん。まだ目も開かないカッコウのヒナは、他の卵を外へ押し出して、全て割ってしまうの」
「げー、最悪じゃん」
俺は実際に見たこともないカッコウに、吐き気をもよおすほどの嫌悪感を抱いた。まるで自分と母親との関係のようだと思ったからだ。俺の母親は「忙しい」が口癖のような人だった。父も十分多忙だったが、父は文句一つ言わないし、時々俺にかまってくれたり声をかけてくれたりしている。しかし母親は明らかに俺を邪見にしている。俺を不快そうににらみ、一言も話さない。まるで俺を無視しているようだ。自分の子を育てない母親。他人を犠牲にして生きる子供。本当にうちの母子はカッコウに似ている。
「カッコウのヒナは巣も、巣の持ち主が運んでくる餌も独り占めして、育ての親よりも大きく育つの」
「それって、巣の親鳥は自分のヒナじゃないって分かんないの?」
自分より大きいヒナを見た親鳥が、まだカッコウのヒナを自分の子供として育てるのにはどう考えても無理がありそうだ。
「分からない。でも、自分の子供を全滅させられた親鳥は、最後に巣に残ったヒナを必死で育てるのよ。ただ、不思議なことに、他の親鳥に育てられたはずのカッコウのヒナは、ちゃんと生みの親の鳴き声を覚えるの」
「何で? だって、オウムとかインコとか、飼ってる鳥はその家の人の口癖を覚えて話すこともあるんだろ? だったら、カッコウも育ての親の鳴き声で育ったんだから、その鳴き声の方を覚えるんじゃねぇの?」
「さあ。そこまで鳥に詳しくないから」
「違うよ。何でここが『カッコウの巣』なのかって話だろ?」
俺は無性に腹が立った。明美さんの温かい手を振りほどき、椅子から勢いよく立ち上がり、明美さんの正面に立つ。明美さんは、哀しげに眉をひそめていた。ぐつぐつと具材が煮える音がする。あれだけ鳴いていたセミの声は聞こえなくなっていた。まるで、世界が終ってしまったかのように、静かだ。
「『カッコウの巣』は、本当はあってはならないの。だって、子供たちが帰る場所は本来、自分の家でなければならないから。そして、子供はやっぱり親の子供だから、育ての親の鳴き声は覚えるべきではないから」
明美さんはこんなに残酷な話をした後でさえ、微笑していた。ただその声は優しさの中に、誰かを説得するかのような強さを持っていた。
俺は力任せに椅子を引き倒した。椅子が床に叩きつけられて、大きな音をたてる。どうしようもなく黒く凶暴な獣が、自分の中を血の循環と共に駆けずり回っているように感じた。
「俺は、カッコウじゃない! カッコウみたいに、最低な奴にはなりたくない!」
大人になって子供ができたら、子供に絶対寂しい想いはさせないと思っていた。奥さんも子供も大事にして、幸せな家庭を作るのだと心のどこかで決めていた。まだ小学生の俺にとってそれはおぼろげな決意だったが、いつもどこかで考えていることだった。拳を握りしめて地団太を踏む俺の頭を、明美さんはそっと愛撫した。今にも泣き出しそうな顔をしていたのに、無理に笑って、俺の中の獣をいつも鎮めてくれる。泣くことも、怒ることも、結局は明美さんに甘えていたのだと知った。明美さんの体温を感じていたいがために、いつも俺は泣いたり怒ったりするのだ。
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