一章 田辺隆一

1.涙の理由


 ああ、これは、夢だ。


 そう簡単に、そして明確に断言できる夢を見た。だって、俺が二人いたんだから。大人の、つまりは現在の俺はここに立っているのに、小学生の俺が温もりを求めて泣いていた。まるで、親猿から無理矢理引き離された小猿のように、顔を赤くして。

 俺は――、小学生の俺は、服が泥まみれで、体中にかすり傷を負って泣いていた。涙はいくつも頬を伝い、鼻水と混ざって、泣きはらした顔をぐしょぐしょにした。顔にできた傷や膝の皮が剥けたところに涙が当たって痛いから、俺はまた泣く。もう、一人では泣き止むことができなくなってしまったのか。このどうしようもない痛みが去るまで、俺は一人で泣き続けようというのか。


 いや、違う。


 この時の俺は、誰かにすがりたかったのだ。誰かに慰めてほしくて、誰かにかまって欲しくて、泣き続けたのだ。その誰かとは、家族や先生ではなかった。何故ならそこは家でも学校でもなかったから。


 新聞紙を無造作に丸めて水に濡らしたかのようなひどい顔に、そっと手が当たる。今まで、求めても手が届かなかった温かい手だ。自分の両手が俺の鼻水や涙で汚れることもいとわずに、、俺の両頬を包み込む優しい手だ。


「ほら、もう泣かないで」


 真綿の様な白く、柔らかい女性の声。そしてその声の主は、わざわざ冷たい床に両膝をついて、俺と視線を合わせるように正面から向かい合った。ゆるく波打つ栗毛の髪を肩まで伸ばしたその女性は、いつもの笑顔で「ね?」と、小首をかしげて見せた。それを見た俺は急に胸が苦しくなって、女性の言葉とは裏腹にさらに激しく泣いた。すると女性は俺を強く抱きしめて俺の頭を愛撫した。


「ねえ、隆一りゅういち。雪って、涙の匂いがするんだって。今、雪の匂い、してる?」


 女性は涙声を押し殺すようにして、ささやいた。自分のTシャツの胸のあたりが汚れることも気にせずに。俺に自分の涙を見せないように。大人の女の人が泣くところを初めて見た俺は、最初の時こそ驚いたが、今はもうこの女性の涙もろさにも慣れてしまった。この女性は子供たちに感情移入しすぎるのだ。子供たちと一緒に喜怒哀楽し、自分の弱さを隠そうとしない。俺はそんな女性の態度を好ましく思っていた。俺は、ただただ、何度もうなずくことしかできなかった。こうしていれば、互いに互いの泣き顔を見ないで済むことを、初めて知った。そしてその匂いはやはり、雪の匂いに似ていると思った。今は夏だから、季節外れの雪の匂いだ。この匂いを嗅いだのは、これが初めてではない。


「今日も花のために、ケンカしてきたの?」

「それ以外で、ケンカなんてしねぇよ」


 俺は鼻水をすすって、腕で目をぐいと擦った。まるで目的を果たしたから、もう泣く必要はなくなったとでも言わんばかりだ。


はなを守っているんだね」

「当然だろ? 俺はあいつの『お兄ちゃん』だからな」


 女は「そう」と言って微笑した。天使が笑みを浮かべたみたいだった。

そのうち、俺の涙も完全に止まり、女の人の胸の中に顔をうずめている自分が急に恥ずかしくなって、俺の方から女性を押し返した。女性のまなじりにも、水滴があった。細い笹の葉の先にくっついた朝露のように、きれいな雫だった。


「何で、そっちが泣くんだよ?」


俺は女に向って、子犬のように吠えた。女は自分の着ているTシャツが、テロテロと光っていることにも気づかずに、目を擦った。そして「隆一の泣き虫がうつったかな?」と言って笑う。


「シャワー室、借りるからな」


 俺は耳まで赤くして、傷の汚れと顔を洗うために水道に近づく。蛇口を下にひねって冷水を出し、傷口についた泥を洗い流す。水がすりむけたところにしみて、顔をしかめる。そして蛇口の水に突っ込むようにして、顔を洗う。そして、使い終わったらすぐに蛇口をしっかりとしめる。ここでは、水道代も節約しなければならない。ここは慢性的に資金不足であることを、隆一は小学生ながら知っていた。


「消毒、用意しておくから」

「自分でする!」

「はいはい」


聞こえてはいるが、反射的に答え、反射的に言葉とはちぐはぐに動いたのだろう。俺がシャワー室からわざと大きな足音と歩幅でやってくると、女はもう棚の上の薬箱をテーブルの上に置いていた。普通の家庭に置いてあるであろう箱よりも、随分と大きな薬箱だ。しかも、棚の一番上には薬箱が三つも四つも並んでいた。ふたを開けた女は、最近バンドエイドの減り具合が早いことに心を痛めながらも、その小箱を取り出して薬箱の中に戻す。


 俺がわざと怒ったような顔を作って戻ると、バンドエイドの小箱がテーブルの上に置いてあり、その横でココアが湯気を立てていた。ココアが入っているのは、サッカーボールのイラストが描かれた俺のマグカップだ。俺は傷にてきぱきとバンドエイドを張り付けると、椅子に座って、ココアを飲み始めた。夏なのにホットココアが用意されていることに、不思議と不満はなかった。むしろ俺の体も心も温かい飲み物を欲していた。そして、そんな子供心を分かってくれるのが、料理の支度を始めた女だった。冷蔵庫に磁石で張り付けられたホワイトボードに、今日のメニューが書いてあった。今日はカレーだ。ここではよくカレーが出る。食材がなくなってくると、残り物を全部具にしてしまえるから都合がいいのかもしれない。


「なあ、明美あけみさん」

「何?」


女――戸田とだ明美は、エプロンを締めながら答える。


「その、あ、ありがと」


最後は口ごもってしまった俺は、明美さんに背を向けたままだった。それでも明美さんが「どういたしまして」と明るく答えるので、俺は何だかとても幸せな気分になった。そして、「幸せ」とは、こんなにも胸が温かくなるものだと知った。


「なあ、手伝ってやってもいいぞ」

「宿題は?」


俺は頭にカチンときた。


「先生みたいに……、親みたいに……、言うなよ」


 明美のリズミカルな包丁の音がぴたりと止んで、静かになった。外ではカナカナカナと、蝉が悲しげに鳴いていた。どこからか、シンナーの臭いが風に運ばれてくる。この辺りは豪雪地帯のため、夏の内にトタン屋根にペンキを塗らなければならない。そうしないと雪の滑りが悪くなって家が雪の重みで潰れてしまうからだ。その周期は三年に一度だが、一回塗るだけで三十万くらいかかるため大きい出費となる。以前は屋根の上に人が乗って屋根の雪下ろしをしていたが、落ちて怪我をする人が続出した。専門の雪下ろし業者に頼む人もいたが、その業者は逆に命綱が仇となり、首つり状態で発見されたこともある。だからそれ以来、この辺りの人々は夏にペンキを塗って、雪から家を守っているのだ。ひいては家の中にある自分たちの命と生活を守っていると言えるのかもしれない。


 振り返った明美さんも充血した目で俺を見つめていた。俺は、すっかりたじろいでしまった。


「な、何だよ? 何で泣いてんだよ!」

「隆一、玉ねぎを切ると、どうして涙が出るの?」

「は?」


再びの沈黙に、蜩の声が聞こえてくる。今度はその声が間抜けに聞こえた。


「俺が知るわけねぇだろ。大人のくせに!」

「何よ、子供くせに!」


 この時の俺はまだ幼くて、自分の言葉が本当は明美さんを深く、深く傷つけてしまっていたことに、気が付かなかった。明美さんは俺にずっと学校とも、家とも違う「居場所」を作っていてくれていた。それなのに俺はその優しさに甘えて、何を言っても許される気でいたのだ。俺の何の考えもなく吐いたその言葉が、誰かを傷つけ、時には剣よりも強く人の心を抉ることを知らずに。




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