エッセイの楽しみ
エッセイが好きだ。
自主企画もやった(注)。
エッセイにはまったのは、原田宗典と群ようこが原因だ。
どちらも堅苦しくなく、ユーモアあふれる作風で次から次にと買って読んだものだ。
ただ、前者はかなり危険な代物で、電車のなかで読んでいたら、鼻水がほとばしりそうになるものもしばしばあった。
子どもが「新陳代謝」といえなくて、「ちんちん体操」と叫んだとか、上京するときの親からの贈り物が箱いっぱいの避妊具で赤面したが、後々考えてみれば一八の青年からほとばしるのは情熱ではなく精液なのは当然だとかいう話は今でもおぼえている。
後者には本や作家について色々と教えてもらった気がする。最近、今更ながら森茉莉を履修しようかと思い始めて、贅沢貧乏をちらちらと読んでいるのだが、森茉莉は群のエッセイではじめて知った。
森の句読点の打ち方について、息継ぎとからめて書いていたような気がする。
さて、原田宗典のエッセイを読んだ私は、小説のほうも読みはじめるのだが、こちらはガラスのような鋭利さと脆さをもつようなものという印象をうけた。
常にどこかしら物悲しさと不条理さをただよわせた小説も好きだった。
そういえば、エッセイ(というかこちらは随筆と称したほうがよいか)と小説の雰囲気の乖離といえば、後に手を出した内田百閒も同じようなところがある。
百閒が小説家としては寡作であるのは、師匠が偉大すぎて書けなかったのだとかいうのを誰かから聞いたことがある。百閒で卒論を書いた知り合いからだったかもしれない。
実際はどうなのかは知らない。
私もエッセイと小説を書いている。
先に上げた作家たちの話をしたあとにこんなことを書くのは、おこがましいにも程があるが、私のエッセイと小説の印象はどのようなものだろう。
聞いてみたいような、聞いてみたくないような不思議な気持ちでこれを書いている。
注:「エッセイ集の本棚(2023年10月7日~2024年1月7日)」、『自主企画の記録』
https://kakuyomu.jp/works/16818023211907817193/episodes/16818023211907975029
を参照していただければ幸いである。
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