消化されるもの
かいとおる
第1話 消化されるもの
消化されるもの
かい とおる
カルが階段を三段ずつ駆け上がっているとき、5番ホームの発車ベルはもう鳴り終わるところだった。下りの階段はほとんど宙に浮いていて、こちらを見る駅員の顔はいかにも曖昧だったが、どうやら乗せてくれるらしい。感謝するべきなんだろう。だけど発車ベルの電子音は不快だし、真冬のプラットホームは硬すぎて、ささくれたカルの内側がぽろぽろと崩れていく。悪いけど、適当に顎を引いて会釈しただけで電車に飛び乗った。どうしてもこれに乗らなくてはいけない、というわけでもなかったのだから。終電まではまだ2、3本余裕があったのに、なぜか追い立てられるようにカルは走っている。
うしろでガラゴロ大袈裟な音を立ててドアが閉まる。旧式な車体が震えだすと息苦しさを感じた。6人いる。2人がカルを見ていて、4人は何も見ていなかった。ふり向くと、ドアのむこうをホームの鉄柱がすました顔で流れていく。しかたない、でも、とにかく中に入ろう。ここはいやだ、昇降口に立つ人間は人相が悪い、いやな目つきをする。客車内に通じるドアには、女とデパートの買い物袋が寄りかかっていた。
「すみません、ちょっと・・・」
最低な自分を告白しているような気分になる。ありがたいことに相手はすぐに状況を理解してくれたようだ。慌てて、とは言えないまでもかなり急いでどいてくれる。一日中街を歩いて、自分が買ったものと買わなかったもののことを考えて疲れ果てている38才、と想像してみる。彼女が握りしめていた把手が熱く湿って柔らかくなっていた。カルは唐突に生じた女性への共感にうろたえた。とりあえず幸せだった一日、本当はもっと複雑なのに違いないが、とにかく自分に甘えてみた代替休暇の午後を過ごしたのだ。こちらにも優しくしてくれるかも、と何故か都合よく考えた。
朝、デスクの上に広げた書類はそのままに、会社内外で発生する苦情の対応に追われて心が萎えていた。自分に向けられた言葉やそれに抗おうとする叫びが澱のように沈殿している。勿論、カルはそのままにこりともせず客室に向かったのだけれど・・
そこにも人がたくさんいた。取りあえずぼんやりと突っ立って、しばらくここの音と熱を受け止める。チョコレートの匂いがした。それから、いろいろなものが区別できるようになった。プラスチックと鉄の擦れ合う音、紙が折れる音と破れる音、呟きと含み笑い、繊維が縺れて絡み合う音、ペットボトルの潰れる音、あたりに漂う人の呼気、お互いの縄張りを侵食し合う意識の軋み、揺れる広告、漂い沈んでいく視線、人と携帯端末の慣れ合う気配。
カルはうしろで閉めたドアに寄りかかって肩の力をぬいた。背中に電車の振動を感じるのは心地よかった。今日一日が終わる。回転する鉄の車輪のことを考えた。
郊外へ向かう満員の電車が4回人を吐き出した頃から身動きはかなり楽になってきた。座ることこそできなかったけど、立って海草のように揺れている人々の隙間から客車全体が眺められた。白々として明るかった。闇を透かして光る窓ガラスに自分たちの呆けた姿が浮いている。沈黙を薄膜のように纏う乗客たちは触れるものすべてを遠ざけたいようだ。電車に揺さぶられて反射的に身を硬くするとき以外はほとんど粘土のようにうごかない。先ほど感じた他人への共感はどこへ行ったのだろう。いや、むしろ共感など必要ないほどカルたちは似ていた。歪んだ空間、へびの長い胴体のなかで弛緩しているカエルに似て、ゆっくりと消化されつつあった。目を閉じている人がいた。床を見つめる人がいた。そして彼らの内包する言葉は彼らを内側から壊し続けているのだ。彼らの妄想は、薄汚れた太い腸のように足もとにぶらさがり、床の上に長々と身を横たえていた。誰もがその羞恥にまみれて煩わしく、でも快い重みに我を忘れていた。
一人の少年が、抜け目ない水鳥のように慎重な足どりで歩き回っている。たくみに障害物を避けているが、よく見ると、かれは時折、わざと靴のかかとを無様に伸びた丸みにひっかけているらしい。そのたびに妄想たちは虚を衝かれてズルズルと身を引き攣らせ、周囲に対して卑屈な警戒を示すのだった。その小刻みな震えが本体である人の瞼や指先に伝わり、薄い膜の向こうの表情を蒼く曇らせていた。ただそれは一瞬のこと、外側からの不躾な干渉など気付きもせず、すぐまた元通りにだらしなく弛緩してしまうのだ。少年は、数秒の間、猫の客観性をもって、じっとその本体である人の反応をみていた。かれの背中に翼が生えていたとしても驚きはしない。ここの間延びしているようで妙に緊張を強いる時間は赦しを乞う為にあるのだから。
カルは、自分の足元の灰色の塊を靴で踏みにじり、できるだけ細かく引きちぎった。千切れた断片はしばらく低く漂っていたが、やがて他の妄想たちの背に貼り付くことなく静かに滑り落ちて行った。
突然、周囲の騒々しい音が耳に飛び込んできた。正確に言えば音が変化したのだ。慣性が働いて全体が前のめりに傾く。それまで伸びきって絡み合っていた妄想のしっぽたちは、いっせいにお互いの胴体を引っ張り込みながら主人のなかへ帰り始める。彼らはかなり未練気であり、その光景はなんともいやらしかった。
まもなく、次の駅に電車は骨を軋ませながらゆっくりと停車した。へびはかなりの量を吐き出すと、長い胴体を震わせ大きく息をつく。客車内の圧力が抜けた。同時に我に返る乗客たちの意識は、ただあてもなく膨らみ、内側に空洞が拡がってしまうのだ。
寂しげな駅の蛍光灯のあかりは紗がかかったように不透明に見える。乳白色の水蒸気が窓の向こうにたちこめて、背を丸めた影が規則正しく流れていく。
ふたたび密室が滑り出し、胎内に伝わる音や振動が安定してきた。窓ガラスが夜を映しだす。あたりに沈黙が訪れると、人々はまたぐったりとシートにもたれて夢を見始めるのだった。空気はだんだん液化しつつあった。カルは泳ぐように車内を歩く。もう、どこかに座れるはずだ。うねうねと床を這いだした奇怪なソーセージの間を縫いながら空いている席を捜すのは難しい。とうとう誰かが捨てたコーヒーの空き缶を踏んづけてしまった。バランスを崩して、あせった左足をもろに太い妄想のなかに突っ込んでしまう。生臭くて真っ黒で醜悪なそいつは、びくびくと身体を震わすとカルの足ごと引きずっていこうとする。苛立たしい嫌悪感に歯ぎしりしながら飛びのいた。気のせいか、膝のあたりまで黒いシミが付いたような気がする。整髪料が乾いてパサついた髪をそれでも丁寧に撫でつけた男が心外な様子で見上げてくる。重たそうにあけた瞼には影の深い皺が刻まれていた。そんな顔すんなよ、べつにあんたを責めたいわけじゃない。
ようやく一つ席を見つけて、黄色いセーターの女の横に腰掛けた。向かい側に男が二人、すでに溶けかかっている。彼らは弛んだ袋でしかなかった。しかし、その姿は、床に溢れんばかりの妄想とすばらしく似ていたもので、この場に限りかえって悪い感じではなかった。カルは、両足をきちんと揃えて彼らの妄想の丸い背中にそっと置いた。ここには空いている床などなかったのだから。
袋と化した男たちはお互いを支え合い、しかも拒絶しながらぷくぷくと鼓動している。反目する二人はしっかりと慣れ合うことも知っている。その小動物の腹部のように臆病な痙攣をみているうちに、ふと指で思いっきり弾いてみたくなった。たぶん鼻があったあたりだと思う、そっと手を伸ばして・・・
反応は思ったほど劇的ではなかった。ほんのしばらくのあいだ袋の弛んだ皮がやたら無茶苦茶な方向に収縮して波紋を広げただけだった。胸のところに引っかかっていたメガネが下腹部までずり落ちた。二人のケイタイはとうの昔に妄想のなかに半分埋もれている。そしてお互いの情報を勝手にやり取りするかのように冷たく再稼働を繰り返していた。
カルは、今のいたずらをとなりの若い女が見てくれたかと思って、横目で様子を窺った。彼女は窓の外を見ていた。シートの上でひざを抱いた格好でガラスに頬を押し付けている。折り曲げたジーンズのすそから覗く厚い靴下は黄色と青の鮮やかな縞模様。エルマーの竜を思い出す。靴はどこへ行ったんだ?お腹と腿のあいだにクリーム色の卵をひとつ温めていた。彼女のなかで生まれる言葉はけして垂れ流されることなく大事にされていた。おそらくそれは詩のようなものなのだろう。
青い点滅が窓の向こうを通り過ぎて彼女の瞳がそれを追いかけているとき、カルはこっそり、メロンほどもある卵の殻を指先で撫でてみた。なめらかに乾いた感触。それでいて水のように指に吸いついてくる。だけどすぐに後悔した。
彼女の穏やかならぬ反応にあわてて手を引っ込める。まるで丘の上の狂人でもみるような目つきでこちらを見ている。咄嗟に言い訳が見つからず曖昧に笑顔を作ってしまった。彼女の顔が引き攣り、そしてますます身を縮めるものだから、卵はセーターの長い毛の渦と厚いジーンズの太腿に挟まれて、ほとんど隠れてしまう。きれいな卵が潰れてしまうんじゃなかろうかと気が気じゃなかった。他人の繊細な部分に干渉することなんて滅多にないのに、その日のカルはどうかしていたんだろう。その日・・いったい何があったんだっけ?記憶が曖昧になっていた。
で、とりあえずなんとか緊張を解いてもらうために声を掛けようとした、その時だった。
「ギャァン」突然、光と音と衝撃波に殴られた。透明な夜を映していたスクリーンがバクハツして急行列車とすれ違う。窓の向こうをアメーバ状に伸びた虹の帯が猛烈な勢いで奔った。頭蓋をかき回されるような沸騰に一瞬車内が殺気立つ。あてもなく彷徨う視線があたりを飛び交った。心のうちの不安と後ろめたさは隠し切れない。誰もが自分の理解者を切実に求めるのだが、その想いはすれ違うだけで受け止められることはない。
やがて徐々に周囲への興味は消えてしまう。人々はまたぐったりと沈黙のなかに逃げ込んでいった。
ただ、黄色いセーターの若い詩人だけが震えながらしくしく泣いている。温めていた卵をとうとう壊してしまって、惨めに身体じゅうベトつかせながら、絶望することすら忘れていて・・・
唐突にカルは、この獣の腹のなかのバカげた静寂に我慢ならなくなった。身体の奥底から込み上げる衝動が喉を膨らませる。座席シートの上に立ち上がると、まず手始めに目の前の二つのズタ袋をおもいっきり蹴りつけた。そしてケリつづけた。哀れにも無防備に弛んだ皮膚はあっけないほど簡単に破れて、千切れた断片が羽毛のように舞い上がった。両手をグルグル回してその黒雲をかき混ぜながら、今度は通路の上にバタンと飛び降りた。まるでスー族の若い戦士にでもなったつもりで奇声をあげる。不意を突かれた妄想たちは混乱して逃げ惑い、その肥大した胴体の痙攣が足元から這い上がってきた。カルは狂喜してそこらじゅう踏み散らかした。客車の端から端まで何もかも蹴散らかしながら走った。密室のなか、漆黒から消え入りそうな白までの明度の違うきれっ端が濛々とたち込めて、うすいオレンジ色に輝いて見えた。不意に混ざり合ったかれらは突然の躁状態にかなり混乱している。言葉は聞き取れた。会話は日常的で多種多様で興味深く複雑、そして多分でたらめだったのだ。
カルは満足して座席にもたれ、ひらひらと明滅するオレンジ色の会話に聞き入ることにした。
「とにかく、なんだねこれは?」「ガラクタ」「むしろ、そうゆうことではないと思います」「あれ!」「それでね、カレがね、吸い込まれたの」「ソースもかけないで?ばかばかしい」「意味がぜんぜんちがう、たぶん、天気とコオロギのせいだろう」「よく言うよ!」「そうなの、あたし何かを思い出してるの、なにかをおもいだしたいの、思い出さなくちゃいけないんだわ」「こんなとこに一人で来ちゃいけないって言ったろ」「でも好きよ」「知的なブタなんて・・滑稽?」「それナゾナゾ?」「ホントにィ!元気ねぇ」「無理してるんです」「20歩あるくと心臓が20秒でとまる人が夜の1時から朝の10時まで海を見ていました、さて、キリンが喉にひっかけたココナッツの実は全部で何個でしょう?ただし、右手は頭にくっつけたまま北限はスカンジナビア半島までとする」「それ、なぞなぞなの?」「ほかのなんにきこえるっていうの」「結局なにもかもうんざりすることばかりだ」「まあまあ、そんなに落ち込まないでタバコでも吸いたまえ」「落ち込んでいるときストリートはでこぼこなのさ、マッチもってます?」「藻掻いて死ぬ虫、ぼくはそれを半分に切断する、藻掻き続ける手足・・・」「おれは狂気を夢想するやつよりきちがいのほうが好きだね」「あたし、そうは思わないけどバカはきらい」「狂気はばかよりすばらしい、なぜなら人を傷つけるからである、つまりわたしは・・」「いいかげんにしてよ、磔にしちゃうから!」「あたし、カワウソになりたい!この点に関して説明はいらないと思うわ」「奴らになにが現実でなにが現実でないかわかるものか」「悲劇だ!ついてない」「あーあ」「ピンクがかったオレンジ色の小さな口だった」「なぁ―にそれ?」「愛してるんだ、なにか嬉しいような悲しいような苦しいような甘えるような、でも表現のしようがない、ぼくにとってこの精神状態をいつまでもたせることができるか、この意識、いま考えていること、いまの・・」「いいわね」「君がぼくを軽蔑している分だけぼくも君を軽蔑してやる」「やわらかい毛布がすきよ、ほしいわ」「砂漠の花はきれいね、あした咲くか三百年たっても咲かないかもしれないの」「女は鳥に似ている、愛したいが飼っちゃいけないんだろ?」「えーと」「それこそ幻想だよ」「ぼくが幸福になれないのはわかっている、だからって他人の幸福に文句を言うつもりはないよ」「抱きしめておくれよ、可愛いダンサー・・」「エルトンね」「ドガかも」「あたし、ときどき絵を描きたいっていう生き生きした衝動に駆られるの、それはただ道を歩いているときだとか前の席に座った男の子の笑い方が可愛かったときだとか木の枝に紙切れが引っかかっていたりしたときとか、まったくとつぜんやってくるの、あたし、それが好きだしそれを感じるとき自分が好きになるしあなたのことも好きになれると思うわ」「ありがと」「俺たちはもっと快楽を求めるべきだ」「ぼくはみつけたいさがしたい、どうせ生きるならそうしたい」「にぶいのね」「だめ、あした試験だから」「あたしが思うに人間はだいたい『まわる』という動作が好きなのよね」「わたしは沈むこと落ちることについてよく考えてきました、それがわたしの感覚だったのです、しかし、今は浮いているんです、方向を失ってしまった、今わたしを支配しているのは、沈んでいく恐怖というより腐ってゆく恐怖なんです」「ネコヤナギの芽でくすぐってやれ」「人間の生は地球や星の公転より素晴らしいっていうわよ」「ははは」「すべてを所有するかすべてを放棄するか、どっちかだ」「まあたいへん」「俺はな、嘘つきたくてついてるわけじゃないんだぞ」「なに、偉そうに」「あんたなんか言うことない?」「すきよ大好きよ絶対よ!」「ぼくと君はぼくの可愛がっていた金魚ほどにも親しくないじゃないか」「あなたをあま~い世界で生きさせてあげるわ」「ぼくはみっかに一度は自殺を考えるような人間じゃないと好きになれないんだ」「夜は地球の裏側、あんたどこにいるの?」「民主的だわ」「だれも責任取らないのが民主主義」「遠くの花火・・」「責任は神様がとってくれる」「だからそれは独裁者の言い分でしょ」「言葉はロジックの道具じゃない、むしろ呪術的なものだ」「あたいの頭んなかでガラスが割れてるの、一枚一枚割れてるの」「ここは病院かい?」「空に溺れてるような気分だ」「いつまでつづくんでしょう、生きてる人間はみんなマゾヒストなのね」「自分の想像力と戦う必要があるときがある、ぼくは為すべきことを知っているが、自信がない」「でも空想したものを思い出しているときと、経験したことを思い出しているときとどう区別したらいいの、みんな過去のことで思い出しか残らなかったら、いったいものごとにどんな価値があるっていうの?」「あんたはリアルな経験が足りないね、たぶん・・・」「みんなリアルよ」「君に必要なのは砂場とイトトンボのいる小川だよ」「昔、夢に出てくる男の子によく恋をしたわ、あれこそがあたしの希望の正体なの、だれかあたしの声をきいてよ」「若いなぁ」「寝てろよ、おじさん」「考えてるんだ、時計を今日買うかあした買うか、それとも水まくらを手に入れるべきかな」「誰だい?」「俺みたいにはなるなよ」「まあ、傲慢!」「意味ないわこんなことするの、爪が50センチも伸びたような気分よ」「背景は真っ暗で赤ランプが点いてる、深紅の絨毯に落ち着いた木の家具が・・」「最後の夜、心優しい者たちは足を忍ばせて階段をおりてゆくのです」「俺ら似てない?」「うそ、やめてよ」「そうだな、這いずり回ってるし」「あたし、ふわふわだもん」「この狭い箱んなかでだけどね」「くそどもが・・・」「あんたもな」「落ちるなよ」「堕ちろよ」「あのさ、もっと足上げてよ」「ここから出してくれ」「私は車の運転が一生好きになれないだろう、なぜならあれは本当に車の運転をやらなくちゃならないんだから」「なんか全部めんどくせえなあ」「あらぁ」「ママがこんにちわって、おかしいでしょ」「明日がある限りぼくたちは永遠に自由になんかなれないね」「なりたいの?」「現実から?」「空想から?」「炭酸飲む?」「いらないわ」「ちょっと、きいてるの?」「もう一度・・・ぷつん」
会話はぷつんと途切れた。長々と身震いするようなブレーキのせいで、カルたちの交歓は中断された。共感も反発も沈黙すら宙に浮いている。そしてあれほど目まぐるしく変化していた虹彩も次第に灰色に落ち着いていくのだった。なにもかもが忘れられた情景に鋭い既視感が襲う。なにを失ったかさえわからない。
緊張を解いた車体は無造作にぐぁらりとドアを開いて、ほとんどの妄想の断片たちは人々に纏わりつくようにして流れ出ていく。電燈のさび色の光に照らされると、かれらはみすぼらしい塵のようにみえた。
カルは、また静かになった電車の空気に胸を押されて座席シートに沈み込んだ。ほんの少しだけ残った切れ端が天井の隅でくるくる舞っている。くっくっという何処からともなく聴こえてくる笑い声。呟きは高く低く漂うだけでもう意味をなさない。眠気が込み上げてきて肩が重かった。次は自分が出ていく番なのに、カル自身は未消化のまま、まだ幼い芯の硬さを捨てていなかった。次の駅で降りていったいどこに還るつもりだったのだろう。何故この電車に乗っているのだろう。ふと自分の名前さえ思い出せないことに愕然となった。窓ガラスに映る自分の顔に焦点を合わせようとしても、ただぼんやりと輪郭が崩れて、遠くの民家の灯火に意識が吸い寄せられてしまうのだ。
身軽になったへびはますます長い胴を波打たせ、全身を包み込む振動は思考を切り刻んでいく。
ポツポツと床にきのこが立ち始めた。ひょろ長い半透明のそれは白々と床を照らしている。いかにも親和的なふりをして、空洞を拡げつづけるカルの内面にそろりと首を伸ばしてくる。踏みつけてやりたい。もうすぐ、カサカサの冷たいプラットホームを踏むことになる。外は氷が降るほどに寒くて、カルは吐き出されたチューインガムのように急速に冷えてしまうだろう。
*
氷菓子のように薄く冴えた月あかりはサラサラと指先から零れ落ちてゆく。
了
消化されるもの かいとおる @kaitorupan
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