第55話〈希望の光〉後半
特攻隊員達が自分の命を賭してでも飛び立ったのは、大切な人を守りたいという強い想いがあったから……
笑顔の写真を残して逝ったのは、せめて最後に笑顔を覚えていて欲しいから……
手紙や辞世の句を残したのは、亡くなった後も大切な人の希望になりたいと思ったから……
違う風に思っている方もいるとは思いますが、私は沢山の仲間達を見てきてそんな風に思いました。
篠田は沢山の事を、命を懸けて教えてくれました。
あいつは坂本龍馬みたいな奴で、本当は戦争のない世の中を作ろうとしていた、誰よりも平和を願っている奴でした。
彼の笑顔や言葉、大切な人への想い、戦友との絆は、死と背中合わせだった世界の中での「希望の光」でした。
篠田を始め、同期の仲間や戦争で亡くなった沢山の人達は、私の中で今でもちゃんと生きています。
因みに僕達が昔いた百里基地では、終戦20年後の1965年11月に自衛隊所属の「百里救難隊」が編成されました。
百里基地に掲げられているスローガンは、
「That others may live~他を生かすために~」
特攻隊員を含む、沢山の戦争で亡くなった方々の、国や家族や大切な人を守ろうとした想いは、今でもちゃんと受け継がれています。
私が戦争で亡くなった方の人数を時系列でお話ししたのは、愚かな戦争を始めた事で一体どれだけの大切な命が失われたのかを知って欲しかったからです。
そして、その先に数字では表せない沢山の想いがあった事も知って欲しかった。
自国の亡くなられた方々はもちろんですが、戦った相手である米軍をはじめ、戦争に巻き込まれて亡くなられた外国の方々にも大切な家族や仲間がいたことを忘れてはいけません。
原爆には、原爆投下数日前に日本に撃沈されて米海軍史上最大の悲劇とされた「インディアナポリス乗組員たちのために」という言葉が書かれていたそうです。
そして原爆の被害は想像を絶する地獄で……
先程は敢えて言いませんでしたが、灼熱で人が炭になっただけでなく……爆風で急激に下がった気圧のせいで、目玉が飛び出て垂れ下がった目玉を手で受け止めながら亡くなっていた方もいたそうです。
私も東京大空襲などで地獄のような情景を目にしてきましたが……原爆という更なる地獄に焼かれた広島や長崎の人達の恨みは、さぞ深かったろうと思います。
しかし彼らは「目には目を」という報復を訴えるのではなく、自分達のような苦しみを誰にも味わわせてはいけないと「核兵器廃絶」を求めて色々な活動を始めました。
広島平和記念公園にある原爆死没者慰霊碑には「安らかに眠って下さい。過ちは繰返しませぬから」という誓いが刻まれています。
彼らは憎しみや自分の恨みを晴らす事に執念を燃やすよりも、他人を思いやる心を持っていた。
私達は、それを忘れてはいけない。
日本は唯一の戦争被爆国です。
世界で唯一の被爆国だからこそ伝えられる事があるのでは……
日本だからこそできる事があるのではないか……と私は思います。
もし再び世界が戦争に向かおうとしたら……沢山傷ついてきた日本なら、憎しみ合うより互いを思いやる、人と人とを繋ぐ「和の心」を世界に伝えられるのではないでしょうか……
元を辿れば国などなかった原始の時代から、私達は助け合って生きています。
肌の色など関係なく、私達は同じ祖先から生まれた兄弟で、私達には皆、同じ赤い血が流れています。
想像してみて下さい。
戦争で流れる血や涙は、自分の痛みであると……
元々は七夕の日のすれ違いから始まった日中戦争、その延長線上に太平洋戦争が起こり、私達は大切なものを沢山失ってきました。
大変な時代を乗り越えて日本がここまで復興できたのは、助け合う「和の心」があったからです。
空襲中、ある方は自分の命を危険にさらしてでも他人を助けようとしたし、ある方は赤ちゃんを亡くした母親から「この子の代わりに頑張ってね」と大事に持っていた水あめを差し出されたそうです。
「人の痛みを分かる心を持つこと」
これが平和の原点だと私は思います。
人の優しさこそ、未来の命を救う希望です。
私は、沢山の命が教えてくれた「和の心」、そして親友や仲間達が教えてくれた「希望の光」を忘れないよう……
この大和の町の新しい名前が「和光市」になったらいいなと思っています。
色々な候補が出ている中で選ばれないかもしれませんが、「大和が平和に光り輝きますように」という願いも込めて……
「戦争という最も愚かな人間の所業を、二度と繰り返さない」
それが死んでいった者達にできる、唯一の弔いだと私は思います。
憎しみは憎しみしか生まない、
新たな不幸の連鎖は断つ、
お互いに過去の過ちを認めてやり直す、
天災は避けられませんが、戦争だけは人の力で避けることができます。
どうせ戦争はなくならない、と言っていたら永遠になくならない。
戦争を終わらせるんだと諦めずに世の中を変えようとした人達がいたから、今の日本がある。
「戦争のない世界にする」
それは世界中が協力すれば……
皆で諦めずに願い続ければ……
いつか必ず、できる事なのではないでしょうか。
~~~~~~~~~~
講演後、外に出ると雨が降っていて……
まるで今まで犠牲になった何万何千という人達の代わりに、空が泣いてくれているようだった。
純子は今年の誕生日にプレゼントし直したスミレ色の折り畳み傘を差し出してくれて、二人で相合い傘で一緒に帰った。
家に帰ると、すっかり雨は止んでいて……
玄関の上を見ると、ツバメが巣立っていなくなっていた。
今年は長めにいてくれたのだが、僕は寂しくなって思わず呟いた。
「なあヒロよ……鳥に生まれ変わるなら、スズメになってくれたら一年中そばにいられたのかな…………毎朝お前の声がうるさいと文句を言いながら起きて、米の一つでも一緒に食べて……」
「でも私はツバメが好きだ……お前はどこまでも飛んでいく、そして必ず帰ってくる……また来年会えるのを、楽しみにしているよ」
その時、雨上がりの空をツバメが一瞬通り過ぎた。
あっという間に空高く飛び、一番先頭で沢山の鳥達がその後に続いていく……
僕はそれを見てヒロの描いた『最高に幸福な王子』を思い出し、久し振りに絵が描きたくなった。
そして私が長期間かけて学校の美術室で描きあげたその絵は、勤めていた女子高の玄関に飾られる事になった。
10月31日 ……
市の名前が「和光市」に決まった。
僕の話が影響したのかは分からないが、応募された市名で一番多かったのが「和光市」だったそうだ。
11月1日……
誕生日プレゼント代わりにヒロの位牌の前で、その事を報告した。
ヒロの名前の一部である「光」と、願っていた平和の「和」が合わさった「和光」……
その名前が永遠に場所の名前として遺ることが、僕は嬉しくて嬉しくて堪らなかった。
思えば東京大空襲でも焼け残って希望の塔になったのは、銀座の「和光」ビルだった。
全てを失い絶望していた人たちの「希望の光」になった名前……
本当に不思議な偶然もあるものだ。
それから何年も時が過ぎ、幸いな事に私は「日本史の高田じい」というアダ名も付けられ、めでたく定年を迎えることができた。
そして1989年1月7日午前6時33分……
昭和天皇が崩御され、64年間にわたる昭和という時代が終わった。
純子の誕生日である1月7日は、「昭和最後の日」になった。
2001年11月1日は、立教の戦没者名簿の「平和祈念碑」の除幕式が池袋のチャペルで行われ、平和を祈る日になった。
そして2003年4月1日……
通っていたデイサービスで、運命の親友と同じ名字である、あの子に出会った。
まさか、その子と出会う前に奇跡の繋がりがあり、純子を亡くして絶望していた私を色々な意味で救ってくれる存在になるなんて、その時は全く思っていなかった……
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