第9話〈七夕の願い〉

 1942年7月7日、七夕……

 その5年前である1937年の7月7日にあったのが盧溝橋事件……

 奇しくも太平洋戦争の遠因である日中戦争の発端になった盧溝橋事件は、七夕の日のすれ違いがきっかけで起きたという。


 日中の緊張が高まっていた七夕の夜、盧溝橋の近くに駐屯し夜間演習を行っていた日本軍が、暗闇から不意に銃撃を受けた。

 その時は近くに中国軍も駐屯していたため、日本軍は中国からの銃撃と判断……

 点呼を取ったところ日本兵が1人行方不明で中国の捕虜にされたと思い込み、武力衝突が起こってしまった。


 きっかけとなった中国からの最初の発砲が、日本の演習発射音に驚いて反射的に発砲した偶発的なものなのか政治的に仕組まれたものかは諸説あるが、日本側で行方不明だった兵士はトイレかどこかに行っていただけで無事だったのに……

 夜間で緊張が高まっていたこともあり、お互いの疑心暗鬼の心が事態をより大きくさせてしまった。


 七夕の日に一緒に夕食を食べる約束をしていた僕達は、ヒロが住んでいる宮本家の2階の部屋で短冊の願い事を書いていた。


「純子ちゃんは?」


「下に笹を取りに行っとる。願い事、源次は何にするんや?」


「僕は純子ちゃんと同じで『父さんが無事に帰ってきますように』かな~浩くんは?」


「僕は『目がよくなりますように』と『背が高くなりますように』と『大きくなったら長門に乗れますように』と……」


「そりゃ欲張りすぎじゃ~でもそのうちの1つは必ず叶うで」


「えっ本当?」


 ふと、何年も前の七夕に妹が書いた願い事のことを思い出し……後で聞こうと思っていたヒロの願いが気になった。


「ヒロは? 何にするんだよ」


「そりゃもちろん、『日本一の漫画家になれますように』じゃ!」


「なんじゃそりゃ~」


「そうじゃ、共同漫画家としてペンネームを決めんとあかんな~二人の名前をとって弘光と源次で光源氏ひかるげんじなんてどうじゃ?」


「それじゃ歴史的名作の主人公と同じじゃないか! 恐れ多いよ」


「じゃあ、お前も案を出してみい」


弘光ひろみつと源次の最初の漢字をとって弘源こうげんとか?」


「坊さんみたいやないかい!」


「じゃ光と次でこう……」


「もうええわ」


「せめて最後まで言わせてくれよ」


「光源氏を入れ替えるのはどうや? 源氏光?げんじひかる 氏光源じこうげん?」


「それだったら源光氏げんこうじを読みやすいように平仮名にして……『みなもとこうじ』はどうかな?」


「みなもと? みなもと……それじゃ! やっぱ、おまんはすごいのう!」


「興奮すると土佐弁になること多いよね」


「なあ純子、驚くなよ? 俺達、結婚して子供が生まれました!」


「はあ? 何、言ってんの?」


 笹を持って部屋に入ってきた純子ちゃんに、僕と強引に肩を組んだヒロはとんでもない事を言い出した。


「二人の子供であるペンネームが決まったんじゃ! 光源氏から因んだ名前なんやけど、並べかえてげんも平仮名にして、二人合わせて『みなもとこうじ』! かっこええやろ?」


「なんかそれって……ううん、何でもない」


「何や?」


 純子ちゃんが言いかけた言葉が気になったが……浩くんが「早く飾ろう」と急かすので、僕達は笹に短冊や折り紙で作った星や提灯や天の川を飾り付けた。


「雨降らなくてよかったね! でも今日仏滅だって~ちゃんと僕の願い事届くのかな?」


「珍しく空も晴れとるし、大丈夫やない?」


「そう言えば姉ちゃんの誕生日って丁度半年後だね! 今度は何をあげようかな~」


「俺はもう決めとるで~それにはお前の協力が必要やけどな、源次?」


「えっ? 何のこと?」


「そうだ! 窓から出したら願い事もっとよく届くよね」


 浩くんがガラッと窓を開け、笹を外に出したその時……

 急に強い夜風が吹いて短冊と飾りが飛ばされた。


「あ~僕の短冊が」「あ~俺の短冊が」


 兄弟のように浩くんとヒロの声がハモった。


「取ってこよう! ひろ兄ちゃん!」


 二人がバタバタと下に向かった時、僕はある事に気が付いた。


「純子ちゃん? ちょっと待って……肩にアリが……」


「えっ、アリ? きゃあ~早く取って、お願い! 私、虫苦手なの……」


 よく見ると黒い羽アリだったが、この時期に発生しやすいから風で入って来たのだろうか。


「今、取るから動かないで! じっとしてて……」


「嫌っ服の中にっ……入ってこないで~」


 動き回らなければすぐに取れたのだが、アリがもうすぐ彼女の襟元に入り込もうとしていたので仕方なく強行手段に出た。


「ちょっとごめん!」


 僕は後ろから左腕で彼女を抱き締めながら、右手でアリを包んだ。

 取り乱した彼女を押さえるには、そうするしかなかった。


「あ、ありがと……でも今度は源次さんの手に……」


「僕は虫、大丈夫だから平気だよ」


 手に移った羽アリを上手く指の先に誘導して窓から手を伸ばすと、行く先が定まって安心したかのように羽アリは空に向かって飛び立っていった。


「取り乱してごめんなさい……小さい時は大丈夫だったんだけど、光ちゃんがいたずらで背中に蝉を入れてきてから虫がダメになってしまって……」


「あいつそんな事したのか! 全くしょうもない奴だな~」


「高田さんて優しいのね……他の人なら握り潰してたと思うわ」


「虫も一生懸命生きてるしな~それに誰かの生まれ変わりかもしれないし……でも、もし純子ちゃんの襟元に入り込んでいたら容赦しなかったけどね」


「えっ?」


「な、何でもないよ」


「あの……前から言いたかったんですけど……私も源次さんて呼んでいいですか?」


「えっ? もちろん、いいよ?」


「私、源次さんのげんっていう漢字、好きなんです。みなもと……元気のみなもと……それに私の名字の『みやもと』とみなもとって何だか似てません?」


「そ、そうだね……」


 僕は次々起こる思わぬ展開に戸惑いつつも嬉しくて完全に舞い上がっていたが……


「えらい仲良うしてはりますな~お二人さん、さては結婚のご相談ですかい?」


「ちがうから!」「ちがうわよ!」


「光ちゃんてば変な冗談ばっかり言うんだから! もうっ知らない!」


 冷やかしに照れて部屋を出ていく純子ちゃんを追いかけようとしたが、ヒロに引っ張り込まれて内緒話をされた。


「お前……純子の事好きだべ」


「ばっ……そんな事あるわけないだろ」


「お前は本当に嘘が下手やな~よし、それなら作戦変更や!」


 その次の日からおかしな事が起こった。

 ヒロとは大学でも帰りもいつも一緒で、都電で途中まで一緒に帰るのが日常だったのだが……

 授業や昼食時は普通に接してくれるのに、一人で先に帰るようになってしまった。


「初めて親友ができたのに……もう嫌われちゃったかな……」


 僕は4月以降に空襲がなかった事ですっかり安心して日常を取り戻し、何故か一緒に帰らなくなってしまったヒロの事ばかり気にしていた。

 

 多くの国民が出征した家族の無事を願ったであろう七夕……

 その1ヶ月後の8月7日に米軍がガダルカナル島に上陸し、更なる悲劇が始まっていたのに……

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