終章 通貨信用師2―七年越しの—
一年ぶりの日本は叩きつけるように蒸し暑かった。
羽田空港の巨大さと清潔さに一瞬圧倒され、そうそう、こんな感じだったと思い出す。折角だから和食を食べようと思い立ち、空港内で天丼を食べた。
アジュールでの建国記念祭を終え、さらに半年が過ぎた頃、僕は一旦日本に呼び戻された。国家信用師の手が必要になったらしい。調整の結果、休みも含めて一か月半ほど日本に滞在することになった。
宮澤部長に対面で報告する。定期的に報告書は上げているが、話し始めると止まらなかった。あまりにも、起こったことが多すぎる。
宮澤部長はときに真剣に、ときに大笑いしながら聞いてくれた。僕がアジュールの局長にならないかとパドレに誘われた話をすると、「追い越されちまうな」と笑った。日本では、部長の上は局長しかいないので、今以上の昇進はほとんどあり得ないのだそうだ。
国家信用部の職員たちは大勢が出払っていて、執務室は閑散としていた。僕が一時的に呼び戻された背景には、この忙しさがある。
「西笹原で大きな仕事があってな、人手が足りなくなったんだ。それで、古田にも手を貸してもらおうということになった」
西笹原。その地名に、まだ反応してしまう自分がいる。反射みたいなものだ。
人手が足りないと言われたが、実際のところ、僕は二週間の休みも貰えている。危機的に足りないわけではないのだろう。経費で僕を日本に帰国させてあげようという心遣いなのだと思う。
一年前、アジュールに行くと告げた局内のカフェで真白を待った。コーヒーの味も、向こうとは違う。正直、日本の方が美味しい。コーヒー豆でもお土産に買っていこうかな、と早速アジュールへ戻ることを考え始めている自分に、少し苦笑した。ずいぶんと馴染んだものだ。
真白は、少し伸びた髪を揺らしてやって来た。僕の姿を見つけても駆けては来ず、コーヒーを注文してのんびりとテーブルに来る。
「日本で会うのは久しぶりですね、古田先輩」
「いつもいつも、講義をありがとうございます」
僕とミラは定期的に通貨信用師としての講義を受けているため、今では借りが大きすぎてどうやって返したらいいのかわからない。
「今でも、私よりも三輪さんとか、篠崎部長の方が講師役に向いていると思っていますけどね。私、まだ三級ですし」
まだ三級とは言うが、昇級前に醸し出していた焦りのようなものは消えている。こうして直接会うと、通貨信用師としての技術がこの一年でもぐっと向上していることがうかがえた。きちんと一つの壁を乗り越えられたようだ。
「ミラも真白に慣れたし、今から講師を切り替えると内容に漏れが出そうだな。もう少しだけ、頼むよ。折角、部長たちにも許可を貰ったんだしさ」
通貨信用講義は、部長たちを通じて、正式に真白の業務時間に含めてもらえるようになった。一応国家間の調整なので、局長も巻き込んだ大きな話になってしまった。とはいえ、日本時間の深夜に電話して真白のプライベートを拘束しなくてもよくなった。時差があるので、こちらは逆に早起きしなければならなくなったのだが。
「まあ、いいですけどね。他人に教えることって今までなかったので、私もいろいろと考えが整理されていい機会になっていますから。部の先輩たちからは心配されていますけど」
「心配されてんの?」
「お前が一国の局に教育できるのか? って思われています」
あっけらかんと言うが、結構辛辣だな。伸び悩んでいた三年間を知っている人なら当然なのかもしれないが。
「名プレイヤーが名監督とは限らないぞ」
「別に気にしませんけどね」
本当に気にしていない口調なので、深く突っ込まずにおく。自信があれば周りのノイズに振り回されることもない。今の真白であれば問題はなさそうに思えた。
「少なくとも、僕とミラにとってはいい先生だよ」
「そうそう、普段は三人だから聞けなかったんですけど、ミラとどうなんですか。どこまで進んだんですか。結婚するんですか。親御さんに挨拶したんですか」
急に勢いが変わった。ずっと話したかったのだろう。講義のときは真面目なことしか話さないから。
それにしても、パドレもドミーもこいつも、気が早いな。
「結婚って、まだ付き合い始めて半年やそこらだぞ」
「ミラは結構前から先輩のことを意識していましたよ」
「本当に? いつから?」
「ううん……講義を始めて二か月くらいかな。そのあたりからだんだんと。気づかなかったんですか」
「気づかなかった」
「鈍いですね。これだから男は」
「主語をでかくするなよ」
当人たちより、周りから見る方が気づきやすいのは当然だろうが。
「まあでも、どうかな。結婚となったら、僕は国籍を移すことになるかも」
「いいんじゃないですか。愛のためなら」
軽く言ってくれるなあ。いざそうなったら親の説得やら手続きやら何やら、大変なんだぞ。
「それで、だ。今日はミラがいたら話せないことを話しに呼んだんだ」
「お、まさか浮気ですか。日本にも女を持ちたい、みたいなやつですか」
どうして目を輝かせて言うんだ。普通、軽蔑するだろ。
「僕がそんなことをする人間に見えるのか」
「入局早々、局内で彼女を作ったプレイボーイでしょ、先輩」
「プレイボーイって。そこまでではないだろ」
入局一年目、正確には四か月で恵と付き合い出したのは紛れもない事実だけど。
「僕は誠実に付き合っている。だがナイスパス。話したいことは、恵さんについてだ」
すっ、と真白の表情が真剣になる。恵について話すことはすなわち、西笹原の件について話すことなのだから。
「僕は、あの暴動の真実について追及することをやめようと思う」
僕の頭の中の棘は消えていない。あの日、三輪が運転する車で引き返した後悔を忘れたわけでもない。だが、そのお陰でできたこともある。銃口の前に立ち、仲間を守れた。
やらなければならないことに直面したとき、僕は頭の中で疼くこの棘に突き動かされるだろう。やるべきことを見失わず、実行できるだろう。
ならばこれは、僕にとって必要なものだ。消してはならないものだ。
この半年で、そう、考えるようになった。
「新しい彼女ができたからですか」
「いや……それもあるけども」
急に俗っぽくされてしまった。僕なりにいろいろと考えての決断だったのだが。
実際、ミラの存在が大きく影響しているのは否定できない。
「今は、過去のことよりも取り組みたいことがあるんだよ。新しい国は面白いぞ」
多分、心の置き場所が日本からアジュールに変わったのだ。恵からミラへ。そして、過去から未来へ。
「テロに巻き込まれたって言っていませんでしたか」
「テロリストに襲われかけただけだ」
「充分危険ですよ」
「それでも、だよ」
真白は、ふうん、と何か考える仕草をしてコーヒーを啜る。
「先輩がそれでいいのなら構いませんけどね。私はまだ興味があります。あの暴動はもちろん惨劇でしたけど、個人的には、家族ごと宗教を消し去って縁切りさせてくれた出来事でしたから。誰が何をしたのか気になります」
「うん。それで何かを知っても、僕に教える必要はない。教えてくれてもいいけどね。そのくらいの気持ちでいてくれ」
真白が言ったことは、やっぱり半分当たっていて、恵への未練もあったのだと思う。アジュールでの仕事を通じて、僕の中でようやく恵を葬れた。
これで、あの出来事を糧に、前に進める。ようやく、恵の死を悼める。
「それで、造幣局の彼とはどうなの」
「サノ君ですか。どうでしょうね。まあ、ぼちぼちです」
こっちだけ教えるのは悔しいので、じっくりと聞き出してやることにする。
◇
「関係者以外立ち入り禁止」と札が下げられた西笹原の入口に行くと、三輪がいた。暴動の時期、彼女は僕と同じ国家信用部にいて、最初期の調査を一緒に行った。先へ先へと進もうとする僕を止めてくれたのは彼女で、もしもあのとき進んでいたらと思うと、感謝しかない。
「三輪さん」
「あれ、古田君だ。なんで日本にいるの」
「一時帰国です。来月になったらまた戻ります」
ああ、そう。と三輪は言い、札をくぐって西笹原に入る。僕もついていった。
「三輪さん、どうしてここに?」
「神性信用部の仕事でね。古田君は?」
「半分仕事、半分プライベートですね。今のここを見ておきたくて」
国家信用師と国土信用師の大半が、今は西笹原に動員されていると聞いた。神性信用部も動いていたのか。
「そっか。西笹原も見納めだもんね」
「見納め?」
「知っていて来たんじゃないの?」
僕は首を捻った。その様子を見て、三輪は話し出す。
「ここが再開発される予定だったのは知っているでしょ」
「暴動の調査をした後に、ですよね」
「そう。調査は終わって、再開発が始まったの」
「調査が終わったということは、暴動の原因もわかったってことですか」
つい昨日、真白に暴動の真実を追求しないと宣言したばかりなのだが、知れるものなら欲が出る。
だが、三輪は微妙な顔をした。
「調査は切り上げだね。原因不明。いつまでもこの地区を放置するわけにもいかないから、再開発を始めたってところかな」
原因不明。それでいいのか、と思うところもあるが、ここは首都の内側だ。地価が高い。そんな場所を七年も無人のまま放置してきたことが奇跡的だったのだろう。再開発を推進したがる勢力と、調査のために保存したい架空局や警察のつばぜり合いの結果が今というわけか。
道路を歩いていくと、段々と今の西笹原が見えてくる。ほとんどの建物は取り壊されて更地と化し、新たな住宅がちらほらと見え始める。
「古田君はまだ知らないかもね。ここは、西笹原って名前から、花ヶ丘って地名に変わるんだよ」
花ヶ丘。口の中で言ってみる。全く馴染まない。国土信用処理が不完全であることが察せられた。今頃は国土信用師たちが必死になって走り回っているのだろう。
「由来は?」
「公募。大勢の人が死んだから、捧げる花が山のように必要だろうって。私なら全然関係ない地名にして忘れようとしちゃうけどな。明神橋、みたいな名前にしてさ」
錆びた道路標識に触れてみる。僕に国土信用師の素質は薄いが、全くわからないわけではない。
うっすらと、長くここに立っていることがわかった。多分、暴動を見ていた。
「忘れられるわけがありませんよ。あれで家族を喪った人たちだっているんですから。忘れないための名前なんじゃないですかね」
「忘れないため、か。そうかもね」
視線を上げると、高いビルが見えた。周りが低い建物ばかりのせいか、天にまで届きそうに見える。
「三輪さん、あれは?」
「花ヶ丘の真ん中に建つシンボルタワーだよ。たしか、三階部分までショッピングモールで、その上にオフィスを誘致するんだったかな。傍に駅もできて直結するとか。安いからか、オフィスも、その辺の住宅も、結構人気らしいよ」
「へえ」
トラックが一台、僕らの横を走り抜けた。工事業者は頻繁に出入りしていて、ちらほらと大工らしき職人の姿も見えるようになってきた。今、ここは建設ラッシュになっているみたいだ。
注意深く見ていると、建築現場の周辺にぼんやりと突っ立っている人がいるのがわかる。国土信用師たちだ。工事業者の記憶に「花ヶ丘」とタグ付けしているのだろう。
「三輪さんは、ここで何をするんですか」
「言いにくいんだけど、特にすることもないんだよね。いることが大事っていうか。神性信用部ってそういうものっていうか」
「神性信用部って何をする部署なのか、未だにわからないんですけど」
「説明が難しいし、見せてあげられないんだよね。古田君にも適性があれば、びっくりするものを見せてあげられたんだけど」
食い下がろうか悩んだが、やめておく。信用師の仕事は、わからない人にはわからない。それはどうしようもない。恵も最後まで話してくれなかったし、三輪が説明できないと言うのならそうなのだろう。
「あれ、遠藤じゃん」
唐突に三輪が言った。視線を辿ると、家を建てている建築業者らしき女性と話している、ぶすっとした表情の男性がいる。男性の方は局で見た覚えがあった。国土信用師だ。
僕らが近寄っても、遠藤とやらは女性と話し込んでいて気付かない。三輪が抜き足差し足で背後に近寄り、わ! と大声を出した。
「うお! なんだよ三輪かよ。心臓が止まるかと思ったわ」
「何サボってんの」
「サボってねえ。喋りながらでもできる。ん? 後ろのあんた、見覚えがあるな」
「古田です。国家信用部」
「そうか。俺は遠藤。国土信用部。三輪の同期だ」
ああ、道理で親しげだと思った。表情が悪いのは、不機嫌なわけではなく通常運転のようだ。声には親しみがある。
「遠藤さんのご同僚さんですか」
先ほどまで遠藤と話し込んでいた女性が口を開いた。二十代かな。
「そうだ。ええと、この人は鏑谷。ここの住宅を作っている工務店の社員だ。三輪には、いつだったか硬貨を送って見てもらったことがあっただろう。あの人だ」
んん? と三輪が唸った。
「そんなことあったっけ」
「もう、半年くらい前になるか」
「ああ、はいはい。あったね。あ、あのときの人なんだ」
「その節は、大変お世話になりました」
鏑谷という女性は深々と頭を下げた。僕には何のことかわからないが、三輪が慌てて手を振る。
「やめてよ。個人情報覗くような真似をしたのはこっちなんだから。でも、よかった。復帰できたんだ」
「少しずつですが、自分のペースで。一級建築士の資格は逃げませんから、いつか、そっちもリベンジします」
「うん。いいと思う。無理しないでね」
復帰ということは、病気か怪我でもしていたのだろうか。それに遠藤と三輪が手を貸した、という構図らしい。
珍しい。僕らの仕事は滅多に局外の人間と接触しない仕事なのだが。それともプライベートだろうか。
「それじゃあ、仕事の邪魔になっても悪いから、俺はここで失礼するよ」
遠藤はそう言い、僕らに加わった。国土信用師と言っていたので、今も歩きながら信用処理を進めているはずだ。
◇
国家信用部のチームと合流すると言って、古田君は中央のビル方面に向かって行った。私と遠藤はぶらつき、脇に逸れていく。
阿吽の呼吸でこういうことができる関係に、いつの間にかなってしまった。
「この歳になると、体のどこかしらに不調を抱えても不思議じゃないだろ」
「はあ? まあ、私も肩が痛いけど。急にどうしたの」
「俺も慢性的に腰痛だ。若いうちってよ、故障というか、体の不調が大袈裟に見えるよなって話だ。歳をとれば、しんどいのは変わらなくても周りと比べて気にならなくなるだろうし、人間、生きていれば摩耗するもんだよな」
「うつ病でも気にするなって言いたいわけね」
「ああ」
鏑谷さん本人に言ってあげなよ、と思う。こいつの不器用さは変わらない。
その頑なさが、彼を暴動の記憶から守っている面もあるのだろう。国土信用師の彼は、暴動収束後、数多くの悲惨な記憶と対面したはずだ。
「話したいことがあるんでしょ」
「どちらかというと聞きたいことがある。お前、暴動の裏話を知っているらしいな」
心底驚いた。私が知っていることを知っているのは、廣瀬部長と当時の局長、またはさらに上の立場の人間しかいないはずなのに。
ちらりと、一瞬だけ遠藤がこちらに目を向けた。
「カマかけたんだけど、当たりか」
「え、ちょ……引っ掛けたの?」
遠藤はボリボリと頭を掻いてガードレールにもたれかかった。
「当時、お前と廣瀬部長だけ別行動だったからな。もしや、とは思っていた。だいたい、神性信用部は怪しいし」
私たちは建設中の住宅が無い更地のエリアに来た。誰も聞いていない場所。
二人、ビルの方を向いて立つ。あれは、学校跡地に建てられている。
「もうすぐ、西笹原はなくなる。俺たちが花ヶ丘に上書きする。そうなれば、もう、あの暴動は完全に終わったことになるだろう。西笹原があるのは今の内だ」
苦笑いが漏れた。
「七年も考えていたの?」
「悪いかよ」
「いや、普通、もっと早くに言わない?」
「どうでもいいかと思っていたんだ」
最後の最後まで言い出せなかったの間違いではないだろうか。
西笹原が無くなれば、あの暴動は終わったことになってしまう。
最後のチャンスなのかもしれなかった。お互いに。
「言わなくていいからな」
遠藤はスーツのポケットに両手を突っ込んで言う。
「どうせ上から口止めされてんだろ。もしも言いたくなったら、聞いてやる。それで俺も、秘密にしておいてやる」
「内容を聞く前から協力的だね。どうして」
「お前には借りがあるからな」
借り。直近では廃村処理のとき、鏑谷さんの件で手を貸したか。その前からいろいろと、遠藤には貸しがある。真面目に取り立てるつもりはないけれど。
仏頂面の遠藤はこっちを見ない。目を合わせるのが苦手な男なのだ。
「廣瀬部長って、あと数年で定年退職なんだよね」
「ああ」
「当時の局長は退職しちゃったし、知っているのは本当に私だけになっちゃう」
上は新田ちゃんがしたことを隠蔽することに決めた。私もそれに従ったし、それでよかったと思っている。だが、それは知っている者がいるからだ。同じことが起きたとき、知っていれば対応できる。
もしも廣瀬部長が退職した後、私の身に何かあれば、本当に架空局から真相を知る人間はいなくなる。同じことが起きたとしても、それに対処できる人間がいなくなってしまう。それを考えると、不安に思わなかったわけではない。私一人が失うことなく、抱え続けなければならない。
死ぬことも、辞めることも許されない。
だからずっと考えていた。廣瀬部長がいなくなった後、私の記憶と経験のバックアップをつくっておくことを。これは非公式に引き継がれるべきものだ。
お言葉に甘えて、借り一つを返して貰うとしよう。
「それじゃあ、一緒に背負って貰おうかな」
それは信仰を裏切る話。この国を流れる、秘されるべき真実。
「もしも人類を滅ぼすボタンを持っていたら、あんたは押す?」
遠藤の目がこちらを向き、すぐに目線が戻る。驚いたときの遠藤の癖だ。もうちょっと目を合わせて話したっていいのに。
「押さないだろうな」
「それを押しちゃった人の話なの」
遠くから聞こえる工事の音は賑やかで、この地に新しい生活が始まろうとしていた。
私たちは架空物信用局。信仰をつくり、守るのが仕事だ。
壊す者では、決してない。
一度目を閉じ、ずっと背負っていた荷物を半分渡す。
◇
コツコツと足音が響く。地下の書庫に向かう階段はやけに音が響いて、実は結構好きだ。信用の神についての文献が保管された書庫の扉の前を通り過ぎ、さらにもう一階下のフロアへ降りていく。
遠藤に暴動の真実を話した後、夕方まで西笹原でぼんやりする時間ができた。そのとき思いついたことがあり、終業時間ギリギリになって庁舎に戻ってきたのだった。
地下二階。そこには、暴動から回収された物品たちが収められている。国土信用処理が外れた表札、神性信用が失われた神棚など、一見すると雑多なものたちが、信用処理を遮断するといわれているチタン製の箱に収納されている。
保管庫と呼ばれるこの場所は、普段、信用師たちは寄り付かない。中身の歪さに気持ちが悪くなるからだ。
だが、今日は確かめたいことがあった。
保管庫を進んでいくと、雰囲気が変わる一角がある。
巨大な金庫だ。
人一人が入れそうなほどの大きな金庫。これもチタン製。通貨信用部から借りた鍵と篠崎部長から聞いた番号で開錠すると、紙幣、硬貨が整然と収納されていた。内部を見るのは初めてだ。
通貨信用師の目で見ると、丁寧に使い古されているのに通貨信用が無いという、奇妙な状態に眩暈がする。だが、それを避けて通るわけにもいかない。
とりあえず、硬貨と紙幣に分かれているようだ。紙幣も種類別になっているように見えるが、奥行きがあるし、保管庫は薄暗い。スマートフォンのライトで照らすと、奥にも札束が積まれていた。いくつかのプラスチック製らしきケースも積んである。
研究用サンプルを保管しているとは聞いていたが、想像の十倍多い。
「さすがに、ここから探し出すのは無理か」
「何をかな、三輪さん」
突然背後から声がして、飛び上がって振り返る。そんな様子を面白がるように篠崎部長が立っていた。
「篠崎部長……足音しませんね」
「そうかな」
ここへ降りる階段は音が響く。普通に歩けば必ず足音が聞こえる。
こっそりついてきた?
「君が探しているのは何?」
「いやあ、特には」
「だとすると、感心しないな。一応現金だから金庫に収められているわけでね。僕には管理義務がある。理由もなく開けられるのはちょっと許可できない」
篠崎部長はにこやかに歩み寄って来る。コツコツと足音が響く。やっぱり、意図的に足音を殺して後ろに来ていた。
「だったら鍵を借りるときに言ってくれたらよかったのに」
「忘れていたのさ」
篠崎部長はそのままのペースで私に迫って来る。ぶつかりそうになったので金庫の前を明け渡すように横に避けた。
その傍を、篠崎部長は無警戒に通り、金庫にしゃがみ込む。
閉められるかと思ったが、意外なことに、篠崎部長は金庫内から一つのプラスチックケースを取り出した。
「探していたのはこれじゃないの?」
ケースの蓋を開けると、中にあったのは一万円札だった。
「どうしてこれだと思ったんですか」
心臓が痛い。
嘘だろ、絶対嘘だ、と内心で叫ぶ自分がいる。
「だって、三輪さんが持っていた紙幣なんだもん」
雷が落ちたように体が震えた。
「知っていたんですか⁉」
「何をかな」
静かな保管庫に私の声だけが反響した。篠崎部長は笑顔でそれを受け流す。
「だって、ここにあって、私が持っていたってことは……」
「まあ、いろいろと考えられるよねえ。僕たち部長クラスも知らされていないことが、いろいろとさ」
篠崎部長はケースの蓋を閉め、金庫内に戻した。
「僕はね、これ以上出世する気はないんだ」
「はい?」
「僕たち部長の上は局長しかない。天下りはあっても、それより上はない。架空局は存在を隠している部署だからね」
「そうなんですね」
架空局の天下り先も気になるが、それを聞いている場合ではなさそうだった。
「出世する気はないけれど、知りたいことはある。七年前の暴動、あれは何が原因で、どうしてああなったのか。ずっと気になっていた」
篠崎部長は金庫のダイヤルを回して施錠した。手を出されたので、借りた鍵を渡す。ダブルロックがかけられた。
「だから当時、回収した通貨の来歴を、廃棄する前にできるだけ読み取ったんだ。いやあ、今思い出しても大変だったよ。何が原因だったのか、知りたいのは皆同じだったけれど、新しい発行もしないといけなくて、と、話が逸れたね。
僕は偶然、君が持っていた紙幣に触れることができた。そうしたら驚いたことに、暴動内での出来事が記録されているじゃないか。身の安全を買うために使ったことまでわかったよ。最後に持っていた女性は亡くなったけど、その前に持っていた君までは簡単に辿れた。だからこうして、研究用サンプルに潜りこませておいたんだ」
「あの方、亡くなったんですね」
「詳しく知りたい? 僕がわかる範囲で良ければ話すけど」
「いえ、遠慮します。気分がいい話ではないでしょうから」
「そうだね。そういう来歴の通貨も沢山見たよ。それで、少なくとも君は暴動内にいたわけだよね。外縁部ではなく、かなり内側に」
「はい」
「あのとき、神性信用部として君が動いていたことは後から知った。だから神性信用部は暴動内に踏み込んだのだろうし、その調査結果が上がってくるものだと思っていたけど、待てど暮らせど、そんな報告は上がって来ない。秘密裡に調査している部署があるなんて噂も立ったけど、部長クラスになるとそんな人員がいないことは一目でわかる」
篠崎部長は金庫にもたれ、上目遣いで私を見る。
「つまり、調査はとっくの昔に終了している。原因は突き止められ、再発防止策も立てられている。君が知っている何かのお陰でね」
篠崎部長はずっと微笑んでいる。だが、その表情はびくともしない。この人はこういうところがある。基本は優しい人なのだけれど、笑顔が怖い。
新田ちゃんもそうだったことを思い出した。
「話せないってことも分かっているんじゃないですか」
「まあね。普通に訊いても答えて貰える気がしなかったから、こういう形を取らせてもらった。ここまで追い詰めれば、言い逃れできないだろう? 三輪さんがあれを探しに来るのをずっと待っていたんだ。ここなら誰も聞いていないし」
例えば執務室で、暴動の真実を知っているのかと聞かれても誤魔化しただろう。だが今は、自分が暴動内部にいた証拠を確認しに来てしまった。
まさか本当に保管されていたとは思わなかったが。
言い逃れできないわけではないが、私は推理小説の犯人じゃない。証拠はあるのか、なんて苦しい言い訳をするつもりはなかった。明日からも篠崎部長とは仕事をしなければならないのだから、関係を悪くしたくない。
大きくため息が漏れた。呆れたから。
遠藤といい、篠崎部長といい、
「ずいぶん気が長いですね」
「本当に、待ちくたびれたよ。ぎりぎり、間に合って良かった」
「ぎりぎり?」
「西笹原があるうちでよかった。花ヶ丘に書き換わったら、暴動の調査も正式に終了するからね。ここの物品たちも、多くは処分される」
「そうだったんですか」
「三輪さんがこうして確認に来なければ、三輪さんが持っていた一万円札だけは個人的に保管しようかと思っていた」
「やめてください。今からでも処分します。開けてください」
「駄目だよ、貴重な証拠品なんだから」
人を食った笑顔で、鍵をこれ見よがしにポケットにしまわれた。
通貨信用師にとって、自分がかつて所持した通貨を同業者に持たれることはかなり恥ずかしい。心を覗かれるのと同義だからだ。
篠崎部長は息をつき、暗い天井を見上げた。
「真白さんに弟がいたこと、知っている?」
意表を衝かれた。
「いえ。暴動で家族は亡くなったと言っていましたけど」
「祖父母、両親との五人暮らしだったと言っている。本人がね、そう言っているんだ。だが実は、戸籍にはもう一人、弟がいる」
「どういうことですか」
貢いでいた宗教ごと家族が死んで清々したと言っていた。そこに、もう一人増えるとどうなる。
「これはあまり知られていないことなんだけど、採用試験前と入局するとき、実は身辺調査が為されるんだ。他国のスパイだったらいけないからね。だから僕は知ったんだが、どういうわけか、真白さん本人は弟の存在を語らない。それどころか、いたことすら覚えていないように振舞っている」
暴動は収束した。だがそれは、正気を取り戻すというより、傷を負うという形で。
例えば、記憶に傷を負う、だとか。
「あの暴動内で亡くなったから、真白ちゃんは弟の存在を忘れてしまった?」
篠崎部長は曖昧に頷いた。
「詳しくはわからないよ。「家族」という架空物が欠損してしまったのかもしれない。辛すぎて記憶を封印してしまったのかもしれない。自分の記憶のタグを書き換えるなんてことができるのか僕にはわからないけど、そういうことなのかもしれない。とにかく、彼女は今も暴動の真実を求めている。深層心理では弟のことを覚えていて、だから気になるのかもね」
篠崎部長の顔から微笑みが消えた。
「どうか、教えてくれないか。あそこで何があったのか。せめて明らかにならないと、浮かばれない人たちが多すぎるんだ。もしも可能で、本人が望むなら、真白さんに弟のことを思い出させてあげたい」
「公には、できないと思いますよ。そういう内容です」
この国の根底に流れる価値観が、信用の神という存在に、ある程度とはいえコントロールされているなんて、とても国民に言えたものではない。
浮かばれない人たちも、事が公になったってきっと浮かばれない。招くのはさらなる混乱だ。
「それに当時の局長に口止めされていますから。体制的には廣瀬部長に口止めされているってことでもありますし」
さっき遠藤に話しちゃったけど。
局長か、と呟き、篠崎部長は頭を下げた。
「それでも教えてくれ。秘密にすると約束する。君が話したことの責任は僕が持つ」
「真白ちゃんの記憶を取り戻す助けになるかもわかりませんよ」
私の言葉に、篠崎部長が逡巡する気配があった。
「でも、知らなければ何もできない。あの街の人たちはどうして死んだ。どうして死ななければならなかった。何もわからないまま閉じていいわけがないんだ。もう一度同じことが起こらないと、誰にも言えないのに。あんな、人が簡単に死んでいくような……」
「頭を上げてください」
篠崎部長と目が合う。
「話しますよ」
私の心は決まっていた。目上の大人の男性にここまで本気で言われて意地を通せるほど頑固ではない。さっき遠藤に話してしまったし、もう一人くらい知っていてもいいと思う。
さて、どこから話そうか。信用の神を見せるにも、篠崎部長には適性が無いから見せられないし。
「ご飯の前に、いただきますって言いますか」
「え? ああ、言うよ。子供にもそう教えている」
「宗教ですね」
まずはそこから、始めようか。
架空物信用師 佐伯僚佑 @SaeQ
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