第8話 神性信用師―暴動—(後編)

 朝のニュース番組で西笹原の火事について情報を仕入れ出勤すると、古田君が机に座って項垂れていた頭を、弾かれたようにこちらに向けた。

 立ち上がり、ツカツカと寄ってくる。目は全開で血走り、手足には力が入っている。

「どうしたの」

 軽く恐怖を覚えて後ずさりながら聞くと、私の顔を叩きそうなほどの勢いでスマートフォンの画面を突き出された。

「三輪さん、これ、どう思いますか」

「何? ちょっと、近すぎて読めない」

 眼前のスマートフォンを奪い取る。決して老眼ではない。画面にはチャットアプリのメッセージが表示されていた。相手は新田恵。

『今、西笹原にいます。ここには国家がないみたい』

 古田君は直後、『どういう意味?』と送っているが、返信は届いていない。それが昨日の午後七時半の会話。

「新田ちゃん、西笹原に行ったの?」

 執務室にある小型のテレビを点けた。どのチャネルもニュースで持ち切りになっていて、西笹原という地名が飛び交っている。

「あそこに?」

「連絡が取れないんです」

 古田君は返したスマートフォンを握りしめたまま、テレビ画面のその先を睨みつけている。

 テレビでは、リポーターが襲われる映像が繰り返し流されていた。火事について取材しようと乗り込んだクルー一行がリアルタイム中継しながら街に入ってしばらくすると、暴徒と化した、金属バットを持った男性三人に襲われる映像だ。映像は途中で途切れ、彼らがどうなったのかわからない。

 コメンテーター達は集団蜂起や集団ヒステリーなどと言っているが、誰もまともに説明できていないのが実情だった。

 映像が切り替わり、ヘリによる、西笹原市上空からのLIVE映像になった。

 古田君が画面に飛び掛かって掴む。私が肩に手を置くと、はっとしたように自席に戻った。

「さすがに、この距離じゃ無理ですよね」

 古田君が考えていることはわかった。ヘリの映像から新田ちゃんを探そうと思ったのだろう。

 ヘリの下では、人々が暴れ回っている様子が映されている。窓ガラスが割れた商店。何か長いものを振り回している女性、そして、殴られる男性。

 高層マンションの窓から身を乗り出して手を振る人もいた。男女でゆるゆると振っている。カメラがズームアップしたそのとき、二人は自然体のまま落下した。ひっ、と思わず声が出てしまう。古田君も唖然としていた。カメラの画角の外に消えていった彼らが助からないことは、自明だった。

 思わず、私たちは顔を見合わせていた。あまりにも異常なものを目の当たりにし、感情が追い付かない。

「今の、何?」

 私の問いに答えるように、執務室のドアが勢いよく開いた。ビクリと体を震わせて振り返ると、国家信用部部長の宮澤がいた。

「おう、早いな、二人とも」

 宮澤部長は横柄さすら感じさせるほど年功序列を気にする昔気質の人間だが、トラブルや他部署との折衝では頼りになる。

 テレビに映っているヘリの映像を見ても、太い眉をひそめただけだった。

「ちょうどいい。お前ら二人、あの近く行ってこい」

「え?」

 私は口から声が漏れてしまったが、古田君は勢いよく立ち上がった。

「警察も消防も、人を送り込んだ端から連絡が取れなくなっている。妨害電波なのか何なのかさっぱりわからない。ウチとしてもできる限りの調査をしろとお達しだ。とりあえず、近くまで行って見て来い」

「はい! 車借りてきます」

 まだ始業時間にもなっていないのに、古田君は執務室を飛び出していった。

「三輪」宮澤部長はついて行こうとした私を呼び止めた。

「絶対無理はするな。危ないと思ったらすぐに引き返せ。国土信用部の新田が行方不明だ。西笹原にいる可能性もあると聞いたが、古田を引きずってでも帰って来い」

 睨みつけるようなその目を受けて、しっかりと頷いた。


 西笹原市は人口約十万人の、決して大きくない市だ。だが今は、異様な雰囲気を纏っていた。

 暴動が発生しているのは市内中心部と聞いているが、既に市を脱出しようとしている車で渋滞している。私たちの対向車線は見たことが無い数の車で詰まっていた。

 道路横に「西笹原」の境界標識を見つけてから、一気に空気が変わったのが、車中にいてもわかった。路肩に停めて降りると、私の国土信用師としての感覚が早速異変を捉えた。

「なんか、変な感じ。国土のタグが無い記憶が飛んでいる」

 国土信用師が捉える記憶には、普通、「日本」のタグがついている。他にも「首都」や「西笹原」といった地名のタグがあって当然なのだが、たまにそうしたタグがない、感情だけの記憶が感覚に引っ掛かる。

「脱出する人たちの記憶ですか」

「多分、そう」

「市内では、国土信用処理が失敗しているって?」

「そうかも」

 はっきりと答えられなかった。こんな状況は初めて見る。

「国家信用も変なことになっていますよ」

 古田君に言われ、感覚を国家信用師のそれに切り替える。

 国家意識は地層に例えられる。国家信用が上乗せされていく様が地層に似ているからだ。そして今、ここには真っ白な地層が乗せられていた。

「日本じゃ、ない?」

「無国籍というか、国家信用がリセットされているみたいですね」

 国家意識の最上層は、何の国でもない意識が薄く広がっていた。その下を辿れば日本の国家意識がたしかにある。だが、それをフィルターするかのように、紙のごとく薄い、でも下の層を遮断する意識が覆っている。

 私たち国家信用師ならば異常をはっきりと認識できる。だが、一般人からすれば、これは無国家地帯だ。国家意識が遮断されれば、ここを日本だと信じられない。

 最後に神性信用師の感覚を使ってみたが、はっきりわからなかった。こんなことになるならもっと鍛えておくべきだった。

 ひとまず宮澤部長に電話で報告する。もう少し近づいて様子を見る指示を受けた。古田君はまだまだ接近する気満々だったが、ハンドルは私が握ることにした。古田君に任せていると、新田ちゃんを探すために暴走しかねない。

 遠くに黒煙が見えてきた。昨夜に起きた火事は、消防隊がまともに活動できていないため消し止められていない。本当にこの国で起こっている出来事なのかと疑ったとき、腹に響く爆発音が聞こえてきた。

 その音で心を決して、路肩に車を停める。

「三輪さん?」

「古田君、引き返そう。ここまでにしよう」

「いや、まだ逃げる人達しか見ていませんよ。恵さんが……」

 続く言葉は想像できたが、彼は止まった。自分の感情で動いていい場面ではないことは彼もわかっている。

「近づきすぎちゃいけないんだよ。どういう理由かわからないけど、ここでは国家信用と国土信用が著しく低下している。それが何を意味するのかわからないけど、信用師たちが後々必要になることを意味しているの。死ぬわけにはいかないでしょ」

「でも……。わかりました。三輪さんは戻ってください。僕は残ります」

「駄目です。古田君も戻るの」

 架空局が年功序列制であることにこれほど感謝したことはない。

 古田君はフロントウィンドウの先を、歯を食い縛って睨み、ダッシュボードを叩き、煩悶した。私はその隙に宮澤部長に電話を掛け、一旦戻る旨を告げる。

 なおも渋る古田君を、宮澤部長にも説得してもらい、私たちは引き返した。

 帰りの長い道中、古田君は一言も喋らず窓の外を見ていた。今日のこの決断が彼の人生に長い影を落とすことになるかもしれない。それでも、若さを理由に走らせてはならなかった。


 夜遅くになって庁舎へ帰り着くと、事態は少しだけ見通しが良くなっていた。そして状況は悪化していた。

 地上からアプローチをかけたメディアや警察は全滅。ヘリで様子をうかがうのが最適解らしいという共通認識に至っていた。

 西笹原市中心部では、治安が完全に混乱していて、住民が暴徒と化した。そして、その範囲が徐々に広がっているらしい、という見立ても出ていた。

「何せ一日中、各局のヘリが上空を飛んでいるからな。観測は結構できるようになってきた」

 宮澤部長は足を広げて腕を組み、執務室でテレビ画面を眺めて言う。

「政府はまだこれの原因に気付いていない。というか、誰にもわかっていない。わかりやすい自然災害なら動き方のマニュアルがあるんだろうが、今は特別対策本部も立ち上がっていない」

 宮澤部長は一日中何かの会議があったようで、少し疲れて見えたが、目だけはギラギラと光っている。

「国家信用と国土信用が低下していたことは、どういうことなんでしょう」

「それだよ」

 古臭い仕草で、指をパチンと鳴らした。

「俺が知る限り、そんなことは前例が無い。だが、地球温暖化が原因でそんなことが起こるとは思わないだろう? 災害級の自然現象が発生して、その結果治安が悪化したり、信用師が入れず、国家信用が少し低下したりすることはあり得ても、首都の、そんな局所で起こるわけがない。何より、事態の進行が早すぎる」

 宮澤部長が言わんとすることがわかってきた。古田君を含めた他の職員たちも聞き耳を立てていて、おそらく次の言葉を察している。

「こりゃあ、人為的な事件だ。言い方を変えりゃ、テロか人災だな。テロだとしたら、架空物信用について知っている何者かによる、住民を巻き込んだ、はた迷惑な攻撃だ」

 しん、と執務室は静まり返った。

 テロ。攻撃。現実味のない言葉が宙に浮く。

 パン、と太ももを叩いて宮澤部長は立ち上がった。

「さて、俺たちに何ができるのかってことだが、失った信用は取り戻さないといけない」

 それはつまり、再び西笹原市へ行くことを意味している。


 ほとんど仮眠と着替えだけを目的に家に帰って翌日執務室に行くと、宮澤部長は既にいた。というか、帰っていないと思われる。仕事が忙しくなるほど元気になるタイプがいるが、宮澤部長はそれだ。

「おう、三輪。神性信用部の廣瀬部長がお呼びだ」

「廣瀬部長が?」

「あそこも動くらしい。三輪を貸せと言われたよ」

 神性信用部が勢揃いすることはほぼない。もしや一堂に会するのかと思って執務室に入ると、予想に反して、いたのは廣瀬部長だけだった。

「お呼びですか」

「おはようございます。宮澤君、人手を取られて怒っていましたか?」

「いえ、そうでもないと思います」

 宮澤君、という言い方が新鮮だった。廣瀬部長の方が年上らしい。

「他の方もお呼びされたのですか?」

「いえ、三輪さんだけです。今はどこも調査に向けて準備していて、最小限の人数しか融通してもらえませんでした。でもよかった、三輪さんが貰えて」

「私に何かできますか。神性信用師としては一番の新人ですけど」

 神性信用部の執務室にも小型のテレビがあり、画面にはどこかのヘリが撮った映像が流れている。

「僕は神性信用師のスキルしかないんですよ。逆の言い方をすれば、通貨や国家、国土信用に関しては何も感じ取れません。三輪さんは神性信用部以外では充分に経験を積んだ優秀な人材です。僕たち二人なら、ちょうど全体をカバーできます」

 全体をカバーしてどうするのか、私の視線を受け止め、廣瀬部長は指を上に向けた。その先には空の神棚。

「信用の神が、戻って来ません」

「え?」

 その意味がわかるまで数秒要した。一昨日、新田ちゃんが依り代になっていたことはこの目で確認している。もしも依り代が解けたなら、ここの神棚に戻ってくる仕掛けになっていると、新田ちゃんは言っていた。

「新田さんが行方不明になっていることはわかっています。その直前、私に連絡が入ってもいます。天皇陛下の儀式に同席した後、奇妙な気配を西笹原市の方向から感じたので調査に向かう、そう連絡を受けました」

 廣瀬部長は私を椅子に促した。なんとなく、新田ちゃんがよく使っていた椅子を避けて別の椅子を選んだ。

「僕のミスです。一人で行くと知って、止めなかった」

「そんな。こんなことになるなんて誰にも予想できませんよ」

 西笹原市内では、人々が無慈悲に殺し合っているらしいということはわかっている。無法と混乱が支配していて、なぜか飛び降り自殺を行う人たちも観測されている。

「宮澤部長曰く、これはテロか人災だそうです。悪いのは部長じゃありません」

「テロ、ね。テロだとして、ではどうして新田さんと信用の神は戻ってこないのでしょうか」

「捕まっている、とか」

「テロリストはどうして新田さんを捕まえられたのでしょう。相当こちらの事情に通じているか、予めマークしておかないとできません。新田さんが調査に向かったのはイレギュラーな行為ですから、予測は難しいはずです」

 私の顔が歪んだのを見て、廣瀬部長は手を振った。

「申し訳ない。試すようなことを言うつもりはありません、ただ、三日を過ぎても信用の神が戻って来ないということは、何らかの理由で新田さんは依り代であることを解けない状態にあると思われます。もう既に、依り代になってから五日経過しています」

 五日。健康を害さないギリギリの時間だ。

「私と三輪さんはこれから、西笹原に行って新田さんを助け出し、信用の神を再び管理下におくことを目標に行動します」

 驚きはなかった。信用師は結局のところ、現地へ行かなければ何もできない。昨夜、覚悟は決めてきた。国家信用部として行くか、神性信用部として行くかの違いだ。

 廣瀬部長の手には、既に車の鍵が握られていた。

 その手が小さく震えていることは、見ないふりをした。


「国家信用と国土信用が西笹原でほとんど0になっている、そう報告を受けました。それを調査したのも三輪さんだそうですね」

「そうです」

 私と廣瀬部長は車の中にいた。再びの西笹原市である。

「国家信用が0になると何が起きますか。僕は他の部の仕事に明るくないので、教えてください」

「よく言われるのは、国家転覆しやすくなるとか、治安が悪くなるとか、テロが起きやすくなるとかですね」

「テロですか。宮澤君はテロの可能性を挙げたそうですが、今回は順番が逆のように思えますね。西笹原市で起こっていることがテロだとして、テロの結果、国家信用が低下していますから。それでは、国土信用が0になるとどうなりますか」

「人が住まなくなります。国民が住むのは国土ですから」

「では、混乱の中心部にいる方々は、自分が住む場所だと感じられていないということですか」

「そう、だと思います。私も、都市の真ん中に国土信用が無い土地が出現した例を知らないので何とも言えませんが」

 車は西笹原市に入った。脱出を図る人の数は減らず、それどころか脱出先の道で事故があり、対向車線は昨日以上の渋滞になっていた。

「では、神性信用が0になったら何が起こると思いますか」

「わかりません」

 廣瀬部長が苦笑した。

「即答ですね。でも、それが正解です。誰にもわからない。ただ、仮説はあります。トレーニングの際も聞いたかもしれませんが、日本人の精神性は八百万の神と深く結びついています。身の回りのもの全てに神がいるという考え方ですね。そうした宗教観を持っているからこそ、他国の宗教を柔軟に受け入れ、今の日本人があります。

 よく誤解されますが、法があるから価値観が決まるのではありません。宗教に合わせて法は生まれます。一夫一妻制はキリスト教的価値観ですし、天皇を国の象徴としたのも宗教的な価値観です。GHQや時の政府の思惑が多分に入っていますが、法の前に宗教や信仰があります。極端に言えば、全ての決まり事の根底には信仰、つまり神がいます」

「じゃあ、神性信用が0になるということは……」

「その通り。日本の、社会的約束事が根底から揺らぎます。なぜ人を殺してはならないのか? キリスト教がそう定め、日本国憲法が基本的人権の尊重を謳ったからです。神性信用が揺らげば、殺人を咎める理由はなくなります。

 なぜ自殺してはいけないのか? これもキリスト教が、命は天から授かったものであると宣っているからです。神性信用が無くなれば自殺への心理的ハードルは一気に低くなります。

 日本人は意識していませんが、宗教とは生きる指針なのですよ。それが無ければ、ただの獣です」

「西笹原は、サルの群れよりも酷いことになっていませんか。あんな、気軽な自殺みたいなことは野生では起きませんよ」

 私の言い方が可笑しかったのか、廣瀬部長は吹き出した。

「失礼。不謹慎でしたね」

 私見ですが、と前置きをして、廣瀬部長は無限に続いているようにも見える対向車の列に目を遣った。

「群れが大きくなり過ぎたのではないでしょうか」


 途中で車を降りて、リュックを背負い、折り畳み自転車に切り替えた。市内は大渋滞で、ガス欠になった車が道を塞いでさらに混む悪循環を起こしている。ヘリからのレポートでわかっていたことなので、途中から自転車にすることは最初から決めていた。リュックには水や食料なども詰めている。

「市の中心部では、かなりの混乱が起きているようですね」

「そこまで行くのですか?」

「それは、振り子に聞いてみましょう。神は降ろしていませんが、居場所を探知することはできます」

 廣瀬部長は振り子をぶら下げてゆっくりと円を描くように回り、振り子が反応した方向に顔を上げる。振り子は市の中心部に向かって反応している。

「神までの距離はわかりませんか」

「遠くない、ということしか。あまりにも遠いと反応しませんので」

 要するにわからない、ということだ。そこまで便利なものでもないらしい。

 市内といっても広い。私たちが入った場所から暴動の中心部まで、まだ二十キロほどある。どうかそこまでに見つかりますようにと祈り、初日は十キロほど進んで、見つけたビジネスホテルに宿泊した。


 西笹原市に入って二日目。報道では、正式に「暴動」と呼ぶことで各局が足並みを揃えることに決めたようだった。それを機に、私たちも呼び名を固定する。

 私たちは紙の地図を購入し、振り子が差す方向を書きこみ始めた。そして、暴動の周囲を巡るように移動しながら探知をしていく。信用の神がどこにいるのかわからないが、暴動の中心部にいるのか、それとも暴動の向こう側にいるのか、それを知らないと無用なリスクを負うことになるからだ。一日かけて、ほとんど暴動の現場を挟んだ反対側まで来てわかったことは、信用の神はやはりと言うべきか、暴動の中、それも中心部にいるということだった。

 念のため、庁舎にいる神性信用部の職員に執務室を確認してもらっているが、信用の神は戻って来ていない。

 ちなみに、より探しにくいという新田ちゃんの気配は探知できなかった。

「明日は、暴動の現場に踏み込みます」

 まともに営業しているのはコンビニくらいになってしまった街で、泊まれるホテルを探すのも一苦労だった。部長の部屋でカップ麺を啜りながらのブリーフィングである。

「報道では、暴動の範囲はどんどん広がっているらしいですよ」

 テレビを点ければ、ずっとニュースは暴動について報じている。数日後には市外まで広がってもおかしくないと論じている論客もいた。

「犠牲者も増えているでしょうね。おそらく、我々のすぐ近くまで迫っていることでしょう。神性信用が下がっているのを感じます。三輪さんの感覚ではいかがですか」

「国家信用も国土信用も、古田君と来た時より遥かに悪くなっています。多分、暴動内ではほぼ0です」

 新田ちゃんのメッセージ、『ここには国家がないみたい』が思い出された。

「部長の仮説では、神性信用が0になったことで、この状況が引き起こされたと考えているのですよね」

「そうですね」

「そして、それを起こした、起こしてしまった何者かは、新田ちゃんと信用の神を確保した。信用の神が庁舎に戻ると、他の職員によって神性信用処理をされてしまうから」

「信用の神がいなくても神性信用処理はできますが、進みが悪い。暴動の拡大を食い止めることができるのか微妙なところだと思います。

 日本は神性の国です。それが国の、国民性の基盤になっている。だからこそ、神性信用がこれほどクリティカルになってしまった」

「国家を信じられなければ法を恐れない。警察官という職業も、国家信用から派生した架空物なので信じられない。暴動内で治安維持に勤しむ人間はいないということですね」

「考えれば考えるほど危険だ。三輪さんはここで引き返してもいいんですよ」

「お断りします。家族がいるのはお互い様ですから」

 しばし、無言で麺を啜る時間になった。テレビでは、明かりが消えた西笹原市中心部を映している。暴徒によって送電線が破壊され、暴動の範囲内では停電になっているようなのだ。

「それよりも新田ちゃんが心配です。もう六日、依り代になり続けているんですよね。そういえば、神を奪うこともできるんですか」

「どうでしょうね」

 廣瀬部長ははっきり答えず、テレビを見ていた。

 そこには、紙幣を引き裂く無言の男の動画が流されていた。通貨信用も0なのだろうな、と私は麻痺し始めた冷めた気持ちでそれを見ていた。


 西笹原市に入って三日目の朝。ホテルのフロントで私たちが暴動の内部を調査しに行くことを話すと止められた。従業員である彼女は、この夜勤が終わったら市外へ逃げるという。支配人も営業中止を決定したそうだ。

 それでも私たちが行かねばならない旨を告げると、お握りと、500mlペットボトルのお茶を持たせてくれた。お礼を言ってホテルを出た。

 すっかり体に馴染んだ自転車で振り子が示し方向、すなわち暴動の中心部へと進んでいく。途中で風圧のようなものを感じ、「入ったな」と確信した。廣瀬部長も同じように感じたようで、ちらりと振り返り、私たちは頷き合った。

 国土信用師の感覚で見ると異常だった。「日本」や「西笹原」のタグが全く無く、喜怒哀楽の感情だけが飛び回っている。

 そして、道端に頭から血を流している死体が転がっていた。それにシャベルを振り下ろした人間の記憶も残っている。

「見ない方がいい、なんて言っていられませんね」

 廣瀬部長が苦しそうに言った。

 無理やり目線を引き剥がしたが、これからは嫌でも大量に見ることになるだろう。報道では、少なくとも数百人の遺体が衛星写真で確認されたと言っていた。実態はその数倍あると思われる、とも。

 前を走っていた部長が速度を落とし、並走した。

「宗教というと胡散臭く聞こえますが、詰まる所、それは道徳心なのですよ。本能の一段上の理性、それには正解がありません。人殺しは、日常では禁じているが、戦争では奨励される。戦国時代の切腹は良かったが、今の世で自殺は良くないこととされている。基準なんて無いんですよ。でもそれだと、何でもありになってしまう。だから人々は生きる指針を、宗教を求め、神や輪廻転生を信じた。

 猿は家財を持ちません。そんなもの、簡単に盗まれるか奪われるだけです。今ここで起こっていることは、おそらくそういうことです。ボスによる統制もなく、奪い甲斐のある物が溢れている世界。奪われるかもしれないと恐れ合う世界。誰も国家を信じないから、法による統治は届かない」

「ジャッジ無しで巨大なボス猿決定戦をしている、みたいな?」

「もっと酷いですね。殺してしまっているわけなので。もう、人間は架空物とは無縁の自然には戻れないのかもしれません」

 一時間ほど走り、そろそろ、と言って部長が自転車を停めた。三体の死体が転がっている交差点に立ってダウジングを行う。信号機は灯りが消えている。車は気配すらない。私はいつの間にか出来上がった分担で、地図とペンを取り出した。現在地をスマートフォンで確認し、ペンを構える。

 下と部長の方ばかり向いていたから気づかなかった。道徳心を失った暴徒が近づいていたことに。死体だと思っていたうちの一体が起き上がっていたことに。

 足音に気付いて顔を上げたときには既に、長い鉄パイプが廣瀬部長に迫っていた。持っていたのは、般若のような顔をした、女性だった。

 気味の悪い音がして、廣瀬部長が倒れる動きがスローモーションに映る。その女性は肩で息をしながら、今度はこちらに向けて振り下ろす。鉄パイプはアスファルトに当たって高い音を立てた。当たらなかったのはまぐれだ。私が動揺のあまり、思わず後ずさっていたからにすぎない。

 気づけば逃げ出していた。目の前のアパートの外階段を駆け上がって逃げ場を探す。振り向くと、現れた女性は外階段の一段目に足をかけたところだった。パニックになりながら二階部分に入り、手当たり次第にドアノブを捻っていく。三つ目で鍵が掛かっていない部屋に当たり、飛び込んで鍵を閉めた。その直後、ドアノブが激しく揺すられ、悲鳴を上げてしまう。

 ガチャガチャと動くドアノブから転がるように離れ、部屋の奥に逃げ込んだ。八畳ほどのワンルームアパートらしく、玄関と自分を遮るものが何もない。

 代わりに、男の体があった。

 包丁が喉に突き刺さった状態で。

 二度目の悲鳴を上げ、窓際に逃げた。

 玄関からはドアを壊そうとする打撃音が聞こえてくる。目の前には死体が一体。ひっひっと自分の呼吸音がおかしい。

 ドアノブがガタつき始めた。ドアは木製のチャチな造りで、打撃のたびにメシメシと嫌な音を立てる。

 夫と子供の顔が脳裏によぎる。死にたくないし、諦めたくもない。この場を凌いで廣瀬部長を助けに行く必要もある。私の上司、神性信用部の部長。

 ふっと、廣瀬部長の言葉が閃いた。

 神性信用が0になったら、社会的約束事が根底から揺らぐ。

 唐突に理解した。

 今、ドアの向こうにいる人は、何も信じられなくなっている。私たちは人を殺さない、そんな当たり前のことすら信じられない。なぜなら法が信じられないから。その法の根底にある神性信用が無いから。力が弱い女性は、徒党を組んだ相手や、廣瀬部長のような男性に攻められると勝てない。だから先制攻撃をする。

 その連鎖が、今の西笹原の現状。

 だったら。

 私は窓を開け、財布以外の荷物を放り出した。ちょうど、交差点で体を起こしている廣瀬部長が見えて少しだけ安心する。死体の匂いがしない空気を吸って、意を決して振り返った。

 死体を大股で跨いで、ドアの傍に身をかがめる。交差点で襲ってきた女性は今もドアを殴り続けており、今にも破られそうだった。女性の力でもドアを破ることができるのか、と冷静に驚いている自分がいる。

 丁度良く、ドアが軋んで隙間ができていた。これならやれる。

 コンコンコン、と内側からノックした。ドアを叩く音が止む。荒い息の音が聞こえるようになった。向こうも必死だ。追い詰められているのはこっちだけじゃない。

「これで、私の安全を売ってください」

 ドアに空いた隙間から、一万円札を滑らせた。

 通貨信用師の一万円札を。

 数秒、耳で様子をうかがう。戸惑っている空気が伝わってくる。その隙に足音を殺し、窓に走った。窓枠に足をかけ、落とした荷物を避けて飛び降りる。

 中学生以来だったが、人は二階から飛び降りても怪我をしないことは経験的に知っていた。ここ二日の自転車で筋肉も解れている。着地後転がったが、思った通り、怪我はなかった。死体に直面しなくなった解放感を味わう間もなく、荷物を拾って元の交差点に走る。廣瀬部長は体を起こして呻いていた。

「廣瀬部長、ここを離れますよ」

 返事も聞かずに手を引いて無人の交差点を渡った。建物の隙間に身を隠し、息を整える。そこでようやく、地図とペンを握りしめたままであることに気付いた。財布はポケットにしまっていたのに。


 鍵が開いている部屋に入って難を逃れられた。この経験は大きい。

 動転しながらも、廣瀬部長を引きずるように歩かせ、さっきとは別のアパートに逃げ込んだ。鍵がかかっていない部屋を見つけ、死体が無いことも確認し、私たちは体を休めることができた。

 廣瀬部長は頭から出血していたので、箪笥から適当にタオルを拝借して押し当て、止血をする。幸いそれほど傷は深くなく、三十分ほどで血は止まった。

「殴られたというより、棒の先が掠めて血が出たんだろうね。危なかった。それにしても痛いけど」

「疑心暗鬼なんでしょうね。他人を信じることができなくなっているのだと思います。彼女の目には、私たちは非常に怪しく、自分に危機をもたらす存在に見えたんです」

 廣瀬部長は、なるほど、と言って痛みに呻く。

「実際、僕もさっきからそわそわして仕方がない。これはあれかな、国土信用処理が狂っている土地にいるからかな」

「そうかもしれません。国土信用処理が施されていない土地、いわゆる聖域にいると、落ち着きが無くなるといわれていますから」

「聖域か。皮肉だね」

 廣瀬部長はラグの上に直接横になった。

「どうやって逃げて来たの」

 私は座椅子に座り込み、天井を仰いだ。どっと疲れが襲ってくる。

「一回、今みたいに部屋に閉じ籠ったんです。それでも、ドアを壊しかねない勢いで迫ってきたので、お金を渡しました」

「お金?」

「一万円札です」

 私は財布の中身を確認する。西笹原に入る前に、色々と立て替える必要があると思って多めに引き出していた。

「架空物信用が無くなっている相手なら、信用を与えてあげたらいいかと思ったんです。ここでは通貨信用も失われていますが、私の財布は別でした。西笹原に来たばかりだという理由もあるでしょうし、私が通貨信用師だからという理由もあると思います。だから、それで私の身の安全を売ってもらいました」

 廣瀬部長は腑に落ちない顔になった。

「見逃してくれって頼んだってこと?」

「そうですね。これって、広義の通貨信用処理です」

 そういえば、廣瀬部長は他の部の業務に詳しくないと言っていた。

「通貨信用処理を行って信用をさらに付与した紙幣を渡すと、大人しくなってくれたんですよ」

 廣瀬部長は横になったまま腕を組んだ。

「架空物信用が丸ごと失われているところに正常な信用を付与されたものを渡されたら、それはある意味、解毒剤になるってことか」

「確信はありませんでしたが。それで駄目なら、窓から逃げて普通に追いかけっこするしかなかったです」

「いや、それは素晴らしい発想だよ。僕にはできないし、思いつかなかった」

 褒められ、素直に嬉しくなった。プレッシャーから解放された反動で、表情を取り繕うのも億劫だった。

「これからどうしましょうか。自転車だけは回収したいですけど」

「いざとなればその辺の自転車の鍵を壊して盗めばいいよ」

「意外と過激なことを言いますね」

「僕が学生だった頃はそんなのしょっちゅうだったさ。あ、盗んだことはないからね、一応」

 どこかから悲鳴が聞こえた。男性数名の怒号も聞こえる。次いでガラスが割れる音が響いた。

 でも、私たちは動かなかった。自分の身と心を保つのに精一杯で。

「時間が無いな。長居もできない」

 廣瀬部長がポツリと言った。

「もう、住民の大部分は死んでいると思う。逆に考えれば、神を探知する邪魔も少ないってことになる。地図を出してくれ。現在地も調べて」

 廣瀬部長は起き上がった。ただ痛みを堪えていただけの眼とは変わっていた。

「僕らは結構な距離を走ってきたはずだ。ここからなら、神を直接探知できるかもしれない。ダイレクトに位置を特定して、そこまでノンストップで走れば最小のリスクで済む。さっきみたいに止まっているのが一番危険だと思うからね」

 廣瀬部長は振り子を垂らし、私は自分たちの現在地を地図に書き込んだ。ついでにメッセージを確認すると、夫から数件来ていた。『ごめん、まだ帰れません』とだけ返信する。

 振り子を垂らしたものの、明らかに振り子の揺れが大きかった。上がった息、襲われた動揺、傷の痛み、全てが廣瀬部長のダウジングを邪魔している。

 一旦振り子を手の中に戻し、集中力を高めて再トライ。そんな流れを四回繰り返し、廣瀬部長は音を上げた。

「どうも駄目だ。少し、休む」

 廣瀬部長はそう言って寝転がり、目を閉じた。私は従うしかなかった。ダウジングが上手くいかない限り、私たちに方向性を示すものはない。今わかっている大雑把な方角だけでは、どうしようもなかった。

 まだ日は明るく、私の意識ははっきりしている。二階から飛び降りるという年齢に見合わない無茶をしたけれど、どこも痛めていない。

 何かできることはないかと考える時間はたっぷりあった。


 目を覚まし、数分かけて意識を覚醒させた廣瀬部長は、傷の状態が悪くないことを確認して辺りを見渡した。もう日が暮れかけている。

「何か、しましたか」

 私が得意気になってしまったことは否めない。

「国土信用処理をしました。廣瀬部長がそわそわすると仰っていたので。この部屋でできる範囲ですが、少しはマシになるかと思いまして」

 この暴動の範囲内では国土信用処理がおかしくなっていることはわかっている。ならば、改めて処理をやり直せばいい。さっきもやった「解毒」だ。

 せっせと「日本」のタグをこの部屋の元住人の記憶に貼り直していた。しばらくすればまた外れてしまうかもしれないが、無いよりはいい。

「ありがとうございます。なんだか随分落ち着きます」

 落ち着いた理由の大部分は休んだためだと思うが、ありがたく言葉を頂いておく。

「やはり、三輪さんを連れてきて良かったです。僕ではできませんから。もしかしたら、外で荒れている方の周囲を国土信用処理すれば、先ほど仰っていたようにお金を渡さなくても冷静さを取り戻したりしませんかね」

「多少は良くなると思いますが、あまり広い範囲を私一人で処理することはできません。時間がかかりすぎて、処理する前に襲われますよ」

「そうですか。そうですね」

 残念そうに言いながら、廣瀬部長は地図を広げていく。

「私は神性信用しか感じ取ることができませんが、ここは異常に低くなっています。逆を言えば、信用処理をやり直せばこの暴動は止まるのかもしれません。人々が架空物を信じられるようになれば、法の規律が帰って来るかも」

 喋りながら垂らされた振り子だったが、ピタリと止まった。明らかに廣瀬部長の集中力が増している。

「そのためにもまずは、全ての根幹たる神性信用を取り戻さないと。信用の神はどこだ」

 地図上をゆっくりと隈なく探知する。廣瀬部長は暴動外縁部から渦を描くように、中心に向かって振り子を動かした。

 やがて振り子が円を描いて揺れ始めた。そこは、暴動の中心に位置する、学校だった。


 一晩明かして、西笹原市四日目。西笹原第一高校。校門をくぐって、隠すように、建物の陰に自転車を停める。

 高校は坂の上にあって、自転車で上がるのは骨が折れた。息も上がっている。

 知らず、周囲に目を配っている自分がいた。学校は建物が多いし、隠れる場所も多い。

「ここまで来ておいてなんですけど、相手が集団だった場合はどうするんですか」

 廣瀬部長は息を整えながら水分補給していた。

「様子をうかがって、逃げます」

「見つかったら?」

「全力で逃げます。でも、そうはならないような気がするんですよね。ここを探知したとき、大勢の人がいるような気がしなかったので」

 それってただの勘ですよね、と言いたかった。まあ、言い始めるとキリがない。ここに来たことだって、言ってしまえば廣瀬部長の勘に頼ってきたようなものだ。

「それに、とても静かだと思いませんか」

「それは、そうですが」

 西笹原第一高校は、よくある県立の進学校だと思われるが、人の声どころか、物音一つしない。廣瀬部長と慎重に歩みを進めると、セーラー服や学生服を着た子供が数人、中庭らしき場所で倒れていた。遠目にも血だまりの乾きがわかる。間違いなく、死んでから時間が経っている。

「学校なら、子供たちが沢山いそうですけど」

「暴動は夜から始まったとされています。新田さんが行方不明になった頃ですね。ほとんどの生徒は下校して、僅かな生徒だけがここで亡くなったのでしょう」

 胸が痛むのを止められなかった。私にも小学生の子供がいる。彼らは訳もわからないまま、倫理観が崩壊して殺し合ったか、影響を強く受けた何者かに殺された。もしくは自殺した。市外で親が生きている可能性もあるだろう。想像すると、胸が張り裂けそうになる。

 溢れかけた涙を強引に拭った。

「私たちは、どうして正気でいられるのでしょうか」

「ある程度冷静に状況を見られる知識と感覚があるからだと思いますが、三輪さんが無意識のうちに国土信用処理をしているからではないですか」

「そんなつもりはありませんが」

「もしかしたら、2%の、信用師の素質を持った方は、狂えないのかもしれませんね。そうだとしたら悲惨なことです。正気でこの状況と向き合わないといけないのですから。上手く市外に逃げられたことを祈ります」

 廣瀬部長は周囲を警戒しながら、一つの建物に入った。

「部長、もしかしてもう神の居場所、わかっていますか」

「感じるものはあります。これでも、信用の神とは長い付き合いですから」

 迷いなく階段を昇り、三階へ来た。一年一組から三組の教室が並んでいる。廣瀬部長は各教室の前に一瞬留まり、過ぎる。廊下を一往復して頷くと、一年二組の教室のドアを開けた。

「やはりあなたでしたか。新田さん」

 窓際、一番奥の席に座っていたのは、新田恵だった。だが、一目にはそうとわからなかった。痩せこけ、いかにも怠そうに椅子に身を沈めている。肌は土気色になっていた。

 彼女の口元に笑みが浮かぶ。私のトレーニングのときのような悪戯っぽさも、使命感を隠した微笑みもなく、自嘲と皮肉っぽさが表出した笑いだった。

「ここまで来られるとは、思いませんでした。怪我までして」

 廣瀬部長はこめかみの傷にそっと触れた。

「大した傷ではありませんよ」

「どうやってここを特定したんですか。ヘリからは見えないように気をつけていたんですけど」

「地道にダウジングしました」

「私を? 本当に?」

「いえ」

 廣瀬部長が指を差す。その先にいるのは、新田ちゃんの肩にしがみつく信用の神だった。ずいぶん久しぶりに見る気がする。

「あなたは無理ですが、信用の神は探知できます」

 新田ちゃんは自分の肩をじっと見て、ああ、と手を打った。

「なるほど。それでも驚くべきことですが、なるほど。でもどうしてたった二人で来たんですか。上からお二人の動きを見ていましたけど、他の仲間が隠れている様子もありませんでしたし」

 そう、それは私も気になっていた。どうも、廣瀬部長は不用心というか、集団を相手にする想定が抜け落ちているように感じた。

「二人で充分だと思ったからです。あなたが組織として動いている可能性は低いと思いました。こんな状況では、集団がチームとして機能しないでしょう」

「それはそうです。でも絶対じゃない」

「テロリストの集団が起こしたこと、という線もないと思いました」

「それはどうして?」

「私は誰より信用の神にまつわる文献を読んできました。そしてどこにも、今回のような事象は記載されていませんでした。他国の例も目を通していますが、類似した事象はありません。そんな、何が起こるかわからないことを計画するテロリスト集団はいません。やるとしたら、自分の直感に身を預けた個人です。つまりは、あなたの単独犯です」

 廣瀬部長は教室の中に入った。教卓に立つ。

「新田さんも、何が起こるか、本当のところはわかっていなかったのではないですか」

「こんなことになると思っていなかったんです、なんて言い訳をするつもりはありませんよ」

「言い訳になりませんから、言わないでください」

 新田ちゃんは隣の席の椅子を引っ張り、二つの椅子にまたがって横になった。

「失礼しますよ。座っているのが辛いので」

「七日、いや、もう八日ですか。それだけ連続で依り代になっていれば当然、体にガタがきます。しかも、通常とは違う使い方をしているのであればなおさら」

「違う使い方?」

 私の声に、廣瀬部長は手近な机に腰掛けて答える。

「逆信用処理です。信用の神にそんな使い方があるとは、僕も知りませんでしたが、そうとしか考えられません。通常は廃村化の際に国土信用師がやる行為を、神性信用師としてやったんだと思います。それが原因で、この街の人間はおかしくなってしまった」

「待ってください」

 割って入った私に、二人の視線が向けられる。

「新田ちゃんは、妙な気配がすると言って西笹原に向かいました。新田ちゃんがこの状況をつくったなら、順番がおかしいです」

「それは嘘だったのでしょう。自分が実行者ではないと思わせるための。おそらくは時間稼ぎ。新田さんが姿を消して、神性信用が下がったスポットが生まれる。このストーリーを見れば、誰だって新田さんを怪しむ。しかし、先に異変を感じ、それから向かったと証言してくれる者がいたのなら、事の原因は新田さん以外にあると考える。そうして、追跡の手を緩めさせるつもりだったんでしょう。三輪さんをそのために利用しましたね」

 新田ちゃんは乾いた小さな笑い声を上げた。

「正解です。まあ、気づくとしたら廣瀬部長だろうとは思っていました」

 新田ちゃんのやつれぶりに目をとられていて今わかったが、左手は骨折したときのように布で首からぶら下げている。彼女も暴動に巻き込まれている。想定外というのは真実そうだった。

「でも、申し訳ありません。正直、部長を甘く見ていました。そんな最初から、私がやったことだとわかっていたんですね」

 廣瀬部長は居心地悪そうに髪を触った。逡巡した様子を見せてから頷く。

「この一年、神性信用が低下したスポットが発生していました。その時期を見れば、新田さんが週末の依り代担当になった直後であることはわかりましたよ」

 あ、と声を出してしまった。

「私が配属されたばかりのとき、あれも」

 古田君と来たのだと、言っていた。だから美味しいアイスクリーム屋の場所がわかったのだ、と。

「証拠はありませんでした。週末の君の行動を探知するのもマナー違反だと思っていましたしね。単に、君と神の相性が悪いという可能性もあった。けれど、やっぱり疑っていたというのが一番近い」

「最初どころか、準備段階から疑われていましたか」

 くっくっとくぐもった笑い声を出す新田ちゃんは、私が知る姿とは全く異なっていた。もっとカラリと、わかりやすく性格が悪そうに笑う子だったのに。

 今は卑屈さと疲労が前面に出て、目も濁っている。

「あれはやはり、逆信用処理の練習だったのですね」

「そうです。その通りです。50%くらいかな、それくらい落として何が起こるか確かめていました。特に何も起こりませんでしたけどね。詳細にデータを取れば、犯罪発生率が上がっているのかもしれませんが、見てわかるほどの変化じゃなかった。だから、ここでは0にしました」

「何が起こると思っていたのですか」

「さあ。地下の書庫を私なりに漁りましたが、日本人が神性信用を基盤にして倫理観をつくっていることを示すばかりで、それ以上のことは特にわかりませんでした。ただ、大変なことが起こるだろう、ということは想像できました」

「これがその結果です。満足ですか」

「不満です。私一人の力じゃ、この辺が限界のようですから」

 廣瀬部長が新田ちゃんに歩み寄って右手を差し出したが、引っ込めた。

「どうして、こんなことを?」

 新田ちゃんは無事な右手をひらひらと振り、力なく笑った。

「部長。もしも人類を滅ぼせるボタンが手元にあったなら、それを押しますか?」

「中学生くらいのときに考えましたかね。押しません」

「私は今も考えていますよ。そして、私は押しました。その結果何が起ころうとも、私は押します」

「それはなぜ」

「日本人の精神性の根底に流れるものは、この信用の神がつくってきた神性信用に依っている。それは否定しませんよね」

 廣瀬部長は手近な椅子に腰を下ろした。

「そうですね。古くからそうです」

「つまり、私たちはこの神によって考え方を決められていた、そう言うこともできませんか。この神がいたからこそ、日本人は今のような考え方になり、そして、考えを縛られた」

「考えを縛られたって、どういう意味?」

 私も近くの椅子に座る。それを見て、横になったまま新田ちゃんは力なく笑う。

「三輪さんは感じたことはありませんか。この国の柔軟性の低さを。特に、国民性の頑固さを。ことなかれ主義、保守的、何と言ってもいいですが、諸外国に比べて動きが鈍いと感じたことはありませんか」

「慎重であることが悪いことだとは思わないけど」

「慎重であることと、動きが鈍いことは別ですよ。廣瀬部長、あなたは察しているはずです。信用の神がつくる神性信用が根底に流れている限り、日本人は急激に変化することができないと」

 私と新田ちゃんの視線が廣瀬部長に向く。

 廣瀬部長は目を閉じ、そして開いた。

「知っていました。この国の架空物は全て神性信用の上に立っている。国家も、国土も、通貨も、それらから派生した全ても。そして神性信用が単一の存在からもたらされる以上、ベースは変わらない。だが、変化できないという意味ではありません。現に、江戸時代と現代では大きく変わっている」

「遅いんですよ、それじゃあ。まあ、速度の問題でもないのですがね」

 よっこらしょ、と声を出して新田ちゃんは億劫そうに体を起こした。

「三輪さん、感じたことがありませんか。常識の枠を」

「枠?」

 彼女は頷く。私は問い返してばかりだ。

「ここからここまでが普通。その外は異常。常識という言葉でラッピングされた、暗黙の範囲です」

 新田ちゃんは、前倣えをするように両手を伸ばした。左手が痛むのか、顔をしかめた。

「私には見えます。普通に収まる人たち、収まれなかった人たち、そして、収まっているように振舞う人たち。その外にいると見做された人たちは、迫害され、異端視される。稀に才能を開花させ、実力で周りを黙らせる人もいますが、そんなのは一部です。ほとんどの場合、常識の枠を外れた人は惨めな思いをして生きていきます」

「新田ちゃんも、そうだったっていうの?」

「私は、枠に収まっている振りをしてきた人間です。だから、ぶっ壊したかったんですよ、その枠を。枠を作っている大本である、神性信用を」

「それが、人類を滅ぼすボタンということですか」

 新田ちゃんは満足そうに首だけで頷いた。

「逆処理を行えば、神性信用を0にできることは練習でわかっていました。あとはそれを行い続け、広範囲に広げるだけです。そうすれば、何かは起きます。私が苦しみ続けた常識も壊せるかもしれない。そのアイデアが閃いてから、私はずっと考え、ゆっくりと準備しました」

「これだけ大勢の人の命を巻き込んでまでやることですか」

「正直、ここまで効果的とは思いませんでした。目論見通り、この街は先入観の無い、新しい価値観で動いていますよ」

「常識の枠とやらがあった方がマシだったのでは?」

「それは、後世で決めてください。どのみち、私は嫌いな人間たちを多少なりとも殺すことができ、私を苦しめ続けた常識というやつに一泡吹かせられました。この辺で手打ちにしておいてあげます」

 新田ちゃんの顔色は悪いが、表情は清々しかった。マラソンを走った後のような、疲労と達成感が同居した顔で微笑む。

「古田君は、どうするの」

 思わず聞いていた。彼女を案じ、暴動に飛び込もうとしていて説得されている彼の必死な横顔が、昨日のことのように思い出せる。

「彼は、そうですね」

 私は生涯、そのときの顔を忘れないだろう。

「私が人間を好きになるには、少々足りませんでした」

 手を突っ込めばどこまでも沈みそうな沼地のごとく、彼女の表情は明るかった。

「皆、死んでしまえば良かったんです。その筆頭は私です」

 何も言えない私を背に、廣瀬部長は立ち上がった。

「子供の理屈ですね」

 その言葉に怒りはなかった。ただ、悲哀だけがあった。

「大人と子供に境界なんてないでしょう。その決めつけこそ、私が嫌った常識的な価値観です。クソくらえ」

 新田ちゃんの言葉にも言い訳めいたものはなく、微笑んで廣瀬部長と向き合っていた。

「聞きたいことは、以上です」

「そうですか。私も、言いたいことはだいたい言い終わりました」

「では、神を返してください。もう、その身に留めるのも限界でしょう。無理やり奪わせないでください」

 廣瀬部長は今度こそ右手を差し出し、新田ちゃんも手を差し出す。

「三輪さん」急に呼ばれた。

「三日以上、この神の依り代になってはならない、そう教えましたよね。それを超えるとどうなるかわからないから。私の場合はどうなるか、教えてあげますよ」

「新田さん」

「はいはい。もう、ろくに動けないんで、抵抗もしませんよ。観念しました」

 新田ちゃんは乱暴な手つきで廣瀬部長の手を握った。

 神が廣瀬部長の肩に移った。

「さよなら」

 そう言った瞬間、新田ちゃんの姿は消えた。慌てて駆け寄るが、さっきまで寝ていた椅子の上に影も形もない。椅子に残るぬるい体温だけが、彼女がいたことを物語っていた。

「信用の神の乱用は、様々な副作用を及ぼします。その代表的なものが、名前を忘れられることです。そしてあまりに酷くなると、その人物が存在していることそのものの信用が消えます。誰にも認識できなくなると言ってもいい。生きているのか、死んでいるのかも定かではない。文献にも残っていたことですから、新田さんもそれを知り、覚悟の上だったのでしょう」

 私は呆然とするしかなかった。信用師の仕事は抽象的だ。これほどはっきりと、危険性が示されたのは初めてだった。

 椅子に触れた手が震える。

「それは、本当に神が行うことなのですか」

 廣瀬部長は窓から外を見下ろした。

「神と悪魔に違いなんてありませんよ。要は使い方です。僕たちは何かを差し出して、この国の神性信用処理をしてもらう。そういう契約関係を結んでいるんです。そこに善悪は関係ありません。利用し、利用される関係です」

 廣瀬部長はこめかみの傷に触れ、無人となった椅子を一瞥した。

「帰りましょう。やるべきことは山積みです。私も、責任を問われなければなりません」


   ◇


 信用の神を取り戻したことで、急激に暴動は収まっていった。しかしそれは、正気を取り戻すというよりも、傷を負うという形で。

 暴動で死んだ者、暴動の中を生き延びたものの精神に後遺症が残ってしまった者、家族を喪った者、様々な形で消えない傷を抱えた挙句、誰も起こったことを説明できなかった。

 ことの顛末を知っているのは私と廣瀬部長だけだ。だが、それを局長に報告すると、他言しないことを命じられた。この国の信用が造られたものであること、ひいては、造られた常識の上に国民が生きていることを公表することは、あまりにもリスクが大きい、と。

 だから結局、公には原因不明。信用の神の管理の隙を衝かれたテロ行為だと言える事件なのだが、廣瀬部長に処分は下らなかった。代替する人員がいないという理由もあると思う。

 他の部は、原因究明どころではなく忙しくしていた。信用を失った通貨を回収、再処理や破棄する必要があったし、国土信用、国家信用を再定着させるために古田君含む職員たちは走り回っていた。

 政府でどのような話し合いが持たれたのか、定かではない。西笹原市の暴動があったエリアは封鎖され、無事だったエリアは周辺の自治体に吸収されることとなった。暴動から半年経ち、架空局の職員たちの忙しさも落ち着いた頃、西笹原市は地図から消えた。充分な調査の後、十年規模で再開発をしていく予定だと公表された。当然といってはなんだが、調査はほとんど為されていない。

「恵さんは、見つかりませんでした」

 国家信用部の執務室。いつかのように私と古田君だけが登庁していた。

「遺体も、探してみたんですけどね」

 自嘲するような口元の笑みで古田君は遠くを見ながら言う。

 遺体は見つからないだろう。私の目の前で消えてしまったのだから。もし新田ちゃんの記憶を見つけられたとしたら、それはどんな感情だったのだろうか。悲願を達した喜びか、その身を依り代とし続けることの苦しみか、それとも、巻き込んでしまった人たちへの悔恨なのか。あのとき、新田ちゃんが消えてしまった直後、その場に残った記憶を探らなかったことは、あまり後悔していない。廣瀬部長と交わした言葉と表情が、全て語っていたから。

 こんなとき、叫び出してしまいたくなる。あの場所で起こったことを、私たちが見たものを。

 古田君、君は愛し愛されていたかもしれないけど、彼女の凶行を止めることはできなかったんだよ。でも、悪いのは君じゃない。新田ちゃんがずっと隠し飼っていた怪物が、信用の神という武器を与えられたことで暴れ出したんだ。だからもう、そんなどうしようもないことは忘れなさい。

 歳をとったなあ、と感じる。

 十代だったら迷わず叫んだ。二十代なら悩んで、こっそり教えたかもしれない。でも今の私は、黙って言葉を呑み込んだ。

 そんなことを言われても、彼が嬉しいはずがないから。

「迷わず助けに行っていれば、何かが変わったのかもしれないと思うんです。何もできなかったとしても、満足はできたと思うんです」

 私は何も言わない。

 古田君は後頭部を指で突いた。

「ここの、頭の奥の方に、ずっと残っているんですよ」

 いつかそれも、消えてなくなる日が来るよ。

 そんな言葉を、私は吞み込んだ。

 新田ちゃんのそれは消えてなくならなかったから、この暴動が起きたのだ。

 歳を取っても、世の中と折り合いをつけても、どうしようもない想いと付き合っていかなければならないのだ、私たちは。それをなだめ、押さえ、苦しくても吐き出したくても抱えて生きていくんだ。

「そっか。私たちはせめて、あの日のことを忘れず生きていこう」

 きっといつか、それが何かを生み出すことを信じて。


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