金魚の剣客
黒瀬庵
金魚
その娘は金魚を飼っていた。なかなかに立派な肥った琉金で、赤い鱗に白い鰭(ひれ)がひらひらと、まるで娘のよく自慢していた振袖のように、金魚鉢の中で揺れていた。
金魚といえど、一端の忠義、恩義は感じていたのかも知れぬ。娘が鉢の前を通りがかるたんびに、その血の通わない黒い真ん丸い目が娘を見返していた。その何を考えているのやらヒトにはとんと判らぬその様を、娘はいつも可愛い、可愛いと褒めそやしていた。
いつ頃だったか、娘に言い寄る男が現れた。娘としては単なる茶飲み友達くらいにしか思っていなかったのだろうが、男の方が本気になってしまったらしい。
娘の家をいつの間にやら嗅ぎつけて、朝な夕なに言い寄っては追い返される日々が暫(しばら)く続き、ついには娘の行く先に悉(ことごと)く付きまとうようになった。
当然娘も怯えて、近頃は家に籠もりがちになるようになったのだが、ある時とうとう男が狂乱した。
まだ陽も高いうちから娘の家にドカドカと押し入り、止めに出てきた下女を脅し透かし、刃渡り二尺はあろうかという刀―わざわざその男の家の蔵に大事に置かれていたものを引っ張りだしてきたらしい―を呑んで、奥の部屋にいた娘に詰め寄ったのだ。
その時も娘は金魚に餌をやったり、水草の間をふらふらと泳ぎ回るのを眺めたりして愛でていた。部屋に入り込んだ男はその様子が益々気に入らなかったようで、ハッとそちらを振り向いた娘に、なぜ金魚如きに、俺とは口も利かぬくせに、等と一辺倒に喚き散らしながら凶刃を見せつけた。
娘はキャアっと悲鳴をあげながらも、金魚の泳ぐ鉢を庇うように手で抱えた。それを見て男は瞬間頭に血が上ったようで、ついに刃が哀れ娘に振り下ろされた。
劈(つんざ)くような悲鳴と、何物かが割れる音を聞きつけた野次馬が何人か集まった頃には、その部屋には亡き骸と成り果てた娘が横たわっているのみだった。
娘の傍らには持ち主を無くした血濡れた刀が打ち捨てられていた。
男は何処へ逃げたのか誰にも検討が付かぬ。
娘の着ていた白い着物が血溜まりに沈み真っ赤になって、恰(あたか)もあれだけ可愛がっていた金魚の柄のような様となっていた。
そして金魚は、可哀相に、鉢を砕かれ、娘の亡き骸の上にポトリと落ちていた。
ぱっくりと開けた口と、どんよりと濁った眼(まなこ)は何事かを天に訴えかけているようでもあった、と野次馬の一人は後になって語った。
男の行方も皆目わからぬまま、いつしかそんな酸鼻を極める若い娘の死も町人の記憶から薄れようとしていた時、誰も知らぬ間にヒョッコリと見知らぬ流れ者がその町に居着いていた。
何やら赤黒い女物の振袖を腰巻にしていたことと、時折件の惨劇の起こった家の辺りを彷徨(うろつ)いていること以外、特に怪しい点もなく、どこぞから流れ着いた素浪人であろうと誰も気に留めなかった。
ある夜半、その流れ者ははたと足を止めた。丁度あの憐れむべき娘の住まいであった家の真ん前であった。
通りがかった何処ぞの飲み屋の三助に目を見やったようである。
三助のほうでもそれに気付いたようで、ヒョコヒョコと頭を下げながら通り過ぎようとしたところ、オイと流れ者は声を張り上げた。
「殊勝にも、回忌は覚えていたか」
「下手人が舞い戻るとは本当だったか」
「下働きに紛れていれば、逃げ果せるとでも思ったか」
暗がりに響く朗々とした声に、何やら三助はオロオロとまごつき始めた。
そこに鯉口を切る音も続き、いよいよ三助は腰を抜かす。
「覚えているか、この刀を」
後ずさりしようとする三助に追い打ちをかけるように、流れ者は腰巻にしていた振袖を解いて見せた。
「覚えているな、この振袖を」
その振袖の赤黒いのは、まさしく血であった。三助は悲鳴をあげる。
構わず流れ者は抜き放った剣を上段に振りかぶる。ついに振り下ろされんというとき、三助は叫んだ。
「アアッ。お前は、あの、鉢の中の」
明け方、一人の男の死骸がとある家の前の往来に晒されているのが見えた。
倒れ伏した骸の上には被さるように血に染まった女物の振袖と、そのまた上にポツンと一点のシミのように、何故か金魚の死骸が落ちていたという。
金魚の剣客 黒瀬庵 @Iori_kurose
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