第十三話

 一定間隔で鳴り響くコール音に先に気が付いたのは土御門だった。目をこすりながら席を立ち、電話が鳴る方までふらふらと歩いていく。

 腕に突っ伏して寝ていたからだろうか、まだ視界がぼやけていた。


 土御門は受話器を目の前にして、一発自分の頬を叩いた。


「はい、こちら日柱駐在所の土御門です。ご用件は―――」

「土御門さん! よかった、駐在所にいてくれましたか―――とにかく、急いで今から言う住所に来てください。そこからは僕の車で現場に向かいますから。あーあと、阿久津君も呼べます? できれば彼も来てほしいんですが」


 電話口で焦りに焦っているのは蘆屋に他ならなかった。この時点で土御門の脳内は嫌な予感で満たされていた。


「なんですか、こんな朝から―――」

「詳しいことは後で話しますが、簡単に説明すると―――山の中で大量の死体が見つかりました。この時点で既に気が動転すると思いますが、なんとか最後まで聞いてください」


 蘆屋の言っていることは図星だった。土御門の瞳孔は開き、全身から力が抜けていくのが分かった。


「僕らが昨日街中で発見された死体の調査をしているとき、警察署の方にはもう一つ通報が入っていたんです。それは猿山市の猿手山付近で、農業を営んでいる老夫婦からのものでした。


 一昨日の夜、彼らが農具を山の中にある小屋にしまいに行こうとしたとき、旦那さんの方が小屋付近で謎の異臭に気付いたのだそうです。なにやら肉の腐ったようなにおいで、それはそれは強烈なものだったと。

 その晩は気のせいかと思ってそのまま家に帰ったそうなのですが、翌朝になってもその匂いがなくなっておらず、午前九時頃に警察署に通報を入れたとのことです」


「それで調査隊が山に入ったところ、今朝になって人間の死体が見つかったんですね」

「はい、お察しの通りです。正確には、人間の死体だけではなかったらしいんですけど」


 土御門は頭を抱えていた。寝起きに聞くには、少しパンチが効きすぎている話だ。

 大きくため息をついてみるが、自分の心境も今の状況も全く落ち着く気配すら見せなかった。


 行くしかないのか―――土御門は重たい腰を上げ、電話の向こうにいる蘆屋に向き直った。


「分かりました。今が―――七時なので、八時にはそちらに着くように向かいます。今駐在所に阿久津君もいますので、すぐにでも準備して、一緒にそちらに連れて行きます。そのつもりで蘆屋警部も準備しておいてください」

「了解です、お気を付けて」


 いつ何時でもどこかひょうきんな雰囲気を漂わせているような蘆屋も、今回ばかりは声のトーンが普段よりも数段低くなっていた。


 それだけ、事態が深刻だということなのだろう。

 土御門は自らの心の準備をしながらも、阿久津を起こすために再びあの部屋に向かった。


 彼にとっても、これは最悪の目覚めとなるだろう―――それが誰より分かっていたからこそ、土御門は阿久津の方へと向かう足が重くなっていたのだった。




「蘆屋警部、お待たせしました」


 土御門が敬礼するのに続いて、阿久津も力なく手を額に当てていた。


 蘆屋に指示された住所は、猿山市側の猿手山の麓にあるごく普通の民家で、その奥には幅広い田んぼが山に向かって伸びていた。

 蘆屋の話から察するに、きっとこの家主があの田んぼの持ち主であり、異臭事件の通報者なのだろう。

 

 阿久津は力ない目でその民家を眺めていた。

 まだ寝起きで身体と頭が起きていないのもあったが、それよりも今阿久津の頭を支配していたのは溢れんばかりの不安だった。


 この一件でより一層この山の謎が膨らんだらどうしよう、それによって市民や村民の不安が募ってしまったらどうしよう、それがまた土御門さんの負担になったらどうしよう―――考え始めたらキリが無い。


 なにより、まだこの猿山市と日柱村にいつ死ぬか分からないような脅威が潜んでいる、という事実が、警官の阿久津にとってもどうしようもなく怖かったのだった。


「土御門さん、それに阿久津君。朝早くからすいませんね」

「前置きはいいです、すぐに現場に連れて行ってください」

「勿論です―――と言いたい所ですが、土御門さんのお察しの通り、まずはここの家主にお話を伺う所からです。その為に彼らには起きて待機していただいているので。こっちです」


 蘆屋に案内されて、三人はその一軒家の玄関前にならんだ。


 インターホンを押して、蘆屋が「警部の蘆屋です。先ほどお伝えしていたとおり、少しお話伺えますか」とその場で頭を下げると、二人は恐る恐るといった足取りで三人の前に姿を現した。


「何度もすいません、彼らがお話ししていた巡査です。今一度お願いします」

 蘆屋がそう言うと、二人は脈絡もなく互いに話し始めた。


「はい―――でも、こんなことになるとは思ってもみませんでしたよ―――なあ婆さん」

「ええ、ほんとうに―――ただの獣の仕業かと思ってましたもの―――」


 靴を履いた二人は部屋着のまま外で取り調べに応じることになった。


 特に風が冷たいわけではないのに、二人ともが手をこすり合わせて肩を寄せ合っているのは、きっとこの事件による恐怖からなのだろう。

 三人は彼らの心労に心が痛んでいた。


「重ね重ねではありますが、この度は貴重な情報の提供、誠にありがとうございました。貴方方の通報は間違いなく、この事件の発見をより早めることに繋がりました。

 これは感謝してもしきれないことです、本当にありがとうございました」


 蘆屋が丁寧に頭を下げると、老夫婦はあせあせと蘆屋に顔を上げるように言った。


 土御門から見ても、彼らは普通の心優しい老夫婦、といった具合だった。そんな人達が、急にこんな事件に片足を突っ込むことになるとは、なんとも惨い話だ。

 

「お二人は北川きたがわさん、でお間違いなかったですか」土御門は二人に掌を向けた。

「そうですそうです、よくご存じで―――」旦那さんは感心したように頷いていた。

「いえ、単に先ほど表札で名前を確認していただけです。私は普段、日柱村の駐在所におりますので、お二人とは完全に初対面だと思いますよ」


 土御門は二人との距離を縮めるために笑顔を浮かべてみせた。

 実際その笑顔に違和感などはなかったのだが、当の本人は自分の表情が引きつったりしていないか、不安でならなかったのだった。


「お先に紹介させていただきますね、こちらは同じく日柱村の駐在所で勤務しております、阿久津巡査です。ほら、挨拶」

「朝からすいません、よろしくお願いします」

「こちらこそ、どうぞよろしくお願いします―――」

 

 不器用に頭を下げる阿久津に対して、奥さんは困り眉のまま優しい笑顔を浮かべていた。


「それで、早速ですが本題に入らせてもらってもよろしいでしょうか」


 土御門がそう言うと、場の空気は一気に深刻なものへと早変わりした。先ほどまで温かな雰囲気が残っていた老夫婦も、表情がヒリつき始めたようにみえる。


「とは言っても、大体のことは既にこちらの蘆屋警部から聞き及んでおります。


 お二人は一昨日の夜、お仕事の終わりがけにあの猿手山の麓から異臭がすることに気が付いた。それは一晩経っても消えず、気になった旦那さんは翌朝に警察署の方に一報を入れた。

 その通報を受けて、猿山市警察署の調査隊が山に入ったところ、今朝になって様々な死体が見つかった。このような流れでお間違いなかったですか」


 話の節々で顔を歪めながら、老夫婦は言葉もなく繰り返し頷いた。


「そうですか、ありがとうございます。ではこの情報に重ねて、いくつか質問させていただきたいことがございます」


 彼らに話を聞くことを想定して、土御門と阿久津はここに来るまでにいくつか聞かなくてはならないことをまとめておいたのだった。

 土御門は一つ一つ、丁寧に質問を重ねた。


「まず一つ、この異臭騒ぎですが、本当に異臭がし始めたのは、一昨日の夜からのことで間違いなかったのでしょうか」

「うーんそうだなあ、ピンポイントでその時間か、と聞かれると、自信はないです。その日に猿手山にある小屋まで行ったのは、朝と夜だけですから」

 

 記憶を辿りながら答える旦那さんを、奥さんは心配そうに見つめていた。この様子を見るに、田んぼ付近で仕事をしていたのも、異臭に気付いたのも、全てこの旦那さんだったのだろう。


「その夜、というのは具体的にはいつ頃の事なのでしょうか」

「あれはほとんど夜、というよりも早朝に近かったですからな―――というのも、あの日は農具をしまうのを忘れていたんです。それに気付いたのが十二時―――いや、一時かな。そこから農具をしまいに行ったので、多分二時前後だと思いますね」


「結構遅い時間なんですね―――ちなみに前日の朝方は何時くらいに農具を取りに行かれたんですか」

「それはいつも通り、九時やら十時のことですね。朝ご飯を食べてから少し時間が経ったときに、小屋に向かう。これはいつもの流れだから―――ねえ、婆さん」


 奥さんは旦那さんの言葉に、ただ必死に「うんうん、そうだわ」と頷いていた。

 

「なるほど。それほど明確に覚えてらっしゃる上で、異臭がし始めたがその早朝だとおっしゃる、ということは、前日の朝方には異臭がなかったということなのですね」

「そう、そういうことです。よくお分かりになる。流石にあんな強烈な匂いに気付かなかった、なんてことはないと思うんです。しかも小屋の付近には割と長い時間いるので―――ほら、農具の出し入れとかで」


「それは想像に難くないですね。当たり前のことを聞くようですが、これ以前にはこんな異臭がするようなことはなかったんですよね」

「そりゃあ勿論。でもオフシーズンに関しては小屋自体に行かない時期もあるので、その期間に関してははっきり言えませんけどね」


 旦那さんの反応を見るに、この質問で前情報以上のことが得られることは無さそうだ。土御門と阿久津は二人で目を見合わせて、次の質問に移ることにした。


「そうですか、ありがとうございます。それとですね、これは少し昔の話になるのですが―――七、八年前、ここらでこのような不審死が見られるようになった時期のこと。覚えてらっしゃいますでしょうか」

「七、八年前―――? どうだろう、あまり記憶にはないけど」


 旦那さんがそういうと、突如奥さんの方が旦那さんの顔を覗き込んだ。


「爺さん、忘れたのかい。あの不審死の事件は日柱村だけじゃなく、うち付近でも騒ぎになっていただろう。そんな難事件を、日柱村の警察が解決してくれたっていう―――ほら、二人で怖いなあって話してたでしょう」


 奥さんの話は遠回しに土御門の心を削っていたが、土御門は全力でそれを表に出さないようにしていた。今ここで自分の存在を公表することに、特に意味はない。

 しかしその話で旦那さんの方もなにかを思い出したようで、土御門の方を見て何度か頷いた。


「そうだ―――そうそう、あったな。思い出しました。それがどうかしましたか」

「いえ、これはあくまで確認なのですが―――その期間にここらで今回と同じような異臭騒ぎはなかったのでしょうか。それが気にかかっておりまして」


「ああ、なるほど。見つかってない不審死の死体が山にあったのでは、ということが知りたいわけですね。でもどうだろう、その記憶が無い、ということは多分異臭もなかったんじゃないのかなあ―――どうだろう、婆さん」


 旦那さんに急にパスを出され、奥さんは多少慌てていた様子だったが、少し考え込む素振りを見せると、すぐにはっきりとした表情で旦那さんと土御門を目で追った。


「いえ、なかったと思います。そんな時期でしたし、何かあったらすぐに気付きます。私たちも例外なく、家でただ怯えてましたから」

「そうでしたか―――念のためお聞きしますが、その年はあまり小屋に行かなかった、ということはありませんでしたか」


「そんなことはないと思います。例年通りなにも変わらず―――いや、ただ少し違うこともあったかな。そんなことがあったせい、というのもあって、少し仕事を始める時期を遅らせたんです。まあそれでも一週間か二週間程度の話ですけどね」

「ふむ―――分かりました、ありがとうございます」


 土御門は話を聞くにつれて、今の質問をする理由が分からなくなってきていた。

 たとえ死体が彼らの小屋の周りに転がっていようが、そこはコンクリートの上というわけでもなく、ふかふかの土の上なのだ。

 きっと数週間もすれば死体は微生物に分解され、腐敗臭を漂わせなくなるまでになることだろう。


 つまり、少し時期がずれてしまえば彼らが気付かない可能性というのは十分にあるわけだ。

 土御門は首を捻っていたが、これ以上彼らとの問答で得られるものは無さそうに感じていた。


「私からは以上です。じゃあ次は、阿久津君から」

「そうですね―――あ、その小屋よりも上って誰か住んでたりするんですか。住んでなくても誰かがよく入っていく、とかの情報があったら教えてほしいんですけど」

「上、ってのは、猿手山の頂上側、という認識で良いですか」

「ああ、そうです。すいません、説明が下手で」


 阿久津は土御門のように要点を分かりやすくまとめて質問できる能力がない自分を、なんだか恥ずかしく感じていた。

 旦那さんは少し奥さんと目を合わせたが、眉にしわを寄せたまま阿久津の方を向き直った。


「まず、住んでる人。これはいないと思いますね。登山道すらまともにないですから、こっちは。日柱村側には何人か住んでるとは聞いてますけどね。


 それで山に入っていく人ですけど―――これに関しては分かりませんね、我々の目を盗んで入っている人がいるかもしれないし―――ただ、そんな人は中々見ない、というのは確かかな」


 それを聞いて、奥さんは「多分今回の調査隊が久々よね」と相槌を打っていた。なるほど、つまり猿山市側の猿手山はほぼ未開の土地な訳だ。

 阿久津は次に調査すべき所が明らかになったところで、最後に気になっていたことをぶつけた。


「そうですか―――では俺からも最後に。猿手山に関する、逸話のようなものは聞いたことがありますか? 例えば、山は○○だから危険だぞーとか、山には○○がいるから入っちゃいけないぞー、とか」


「子供だましの話は沢山あるわよね。それこそ、昔なんてよく『猿手山は猿の住処だから、人間は入っちゃダメなのよ』とか言われたものよね」

「ああ、確かになあ。でも結局入っちゃいけない理由は、道も無いし単に危ないからってのを大人になってから知るんだけどね」


 その後も二人はしばらく昔話で盛り上がっていたが、その話を聞いてもあまり有益な情報は手に入らなかった。


 強いて言うなら、若干猿神のことを言っていないでもないような言葉が時々飛び交っていたが、どれも"猿手山という山の猿の字から取っただけの子供だまし"といった印象を越えなかったのだった。


「俺の方も聞きたいことはこれで以上です。ありがとうございました」


 阿久津がお辞儀すると、二人も律儀に小さくお辞儀を返していた。




「それでは、今から山の麓まで車で向かいます。そこからは道がないので、徒歩で現場まで行くことになります。いいですね」


 運転席の蘆屋は、助手席の土御門と後部座席の阿久津がシートベルトを締めているかを確認しながら、この後の予定の確認も済ませていた。


「分かりました。それでは向かってください」

「了解です。ほぼあぜ道みたいな道を通りますので、揺れには気をつけてくださいね」


 土御門の指示の元走り出した車は、蘆屋の言うとおり確かによく揺れた。

 山に向かって揺れながら走る車は、傍から見るとそれはまるで山に行くのが怖くてガタガタと震えているようにみえるのだった。


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