第十二話

「ただいま戻りましたあ」


 駐在所の門をくぐる阿久津は、どこかげっそりとしていた。


「おかえり。お疲れのようだね、ご苦労様」


 あの後蘆屋に駐在所まで送ってもらい、一足早く調べた内容のまとめ作業に入っていた土御門が阿久津を出迎えた。


 彼に郷土資料館を調べて欲しいと頼んだのは自分なこともあって、土御門は少し申し訳なさのようなものを感じていた。


「あーほんと、疲れましたよ。これなら僕も、土御門さんと一緒に魚谷家に行きたかったです。郷土資料館は蘆屋さんに任せれば良かったんですよ、猿山市のことだし」


「まあまあ、魚谷家は蘆屋警部に調べてもらってた案件だし、郷土資料館に関しても蘆屋警部が行ったところで大した情報は手に入らなかったと思うよ。彼は犬神の伝承すら知らない訳だからね。

 要するに、だ。阿久津君がこれ以上ない適任だったということだよ、よく頑張ったね」


「それなら良いですけど―――」


 土御門の言葉には不思議な力が込められている。例えるなら、たき火の音とあの炎の揺らぎが人間にもたらす効果のような―――そんな癒やしの力を阿久津は土御門から感じることが多かった。

 柔らかい声質のせいだろうか。彼の言葉を聞いていると、全身から緊張感や焦燥感、疲労感のようなものが消えていくように感じる。

 

 十分に癒やされた阿久津は席にどっしりと座り、天を仰いだ。分かっている、これで終わりではないのだ。今から土御門さんと情報共有して、二人でこの一連の事件について考察を進めていく。

 こんな伝承の調査だって、結局はそれが目的なのだから。


 現に土御門は奥の椅子に座り直しながらも、何かをパソコンに打ち込んだり書類とにらめっこしたりして、得た情報から次に考えるべきことを探そうとしている。


 横目に土御門を見た阿久津は、大きく深呼吸をした。


 人に対してはどこまでも優しく、それでいて自分のすべきことにはどこまでも厳しい。そんな人を目の前にしていると時々、"それで、お前は何をしている?"と問われている気分になる。


 勿論、土御門がそんなことを思っているわけではないことは分かっていたが、それでも確かに阿久津の胸の中では、エネルギーの種火のようなものがふつふつと沸き上がってくるのであった。


「土御門さん―――情報交換しましょう。あの部屋で」

「私は良いけど―――もう少し休んでからでもいいんだよ」

 土御門は顔を出して心配そうな表情を阿久津に向けた。


「大丈夫っす。体力だけは自信あるんで。ほら、行きましょ」


 阿久津は勢いよく席を立ち、荷物を持ってどかどかと部屋を移動した。それを見て土御門は目を丸くしながら笑みをこぼしていた。


 彼には何度も助けられるなぁ―――土御門は阿久津の無限の力に何度も背中を押されていた。


 己が信じる方向へ、ただまっすぐ。それが土御門にとっての阿久津だった。


 助けたいなら助けたい。それで助けられなかったら、とことん落ち込む。そしてそこにもう一度助けられる可能性が少しでもあるのなら、彼はどんな辛いことでも乗り越えるし、自分から突き進むだろう。


 辛い、しんどい。阿久津はよくそういうことを正直に口にするが、彼は絶対にそれを途中で投げ出したりしない。土御門にはその確信があった。

 それどころか、周りが本当にしんどいときには彼が周りを引っ張っていくのだ。全く、彼には驚かされてばかりだ。


 土御門はそんな頼れるパートナーの背を追うために、机に手をついて立ち上がった。

 彼となら、この奇譚に終止符を打てる気がする。土御門は先ほどからまとめていた書類を抱えて歩き始めた。




「そう、か―――日柱村にそんな過去が」


 先に報告を済ませたのは阿久津だった。一通り話を聞き終わったあとで、座っていた土御門はパートナーの浮気を知ってしまった時のような、そんな表情でうつむいていた。


「俺もびっくりしましたよ、しかも猿神の伝承に犬神が出てこないっていう話も同じくらい驚きましたね。村と市でそんな差が出るか? って」

「そうだね―――でも阿久津君。阿久津君は二つの伝承を聞いたわけだけど、何か矛盾点は見つかったのかい?」

「へ? それはどういうことですか」


 阿久津は土御門の言っている意味が分からなかった。矛盾なら一番大きいものを今言ったではないか。いるはずの神がいない、それが何よりもの矛盾ではないのか。


 阿久津君は急に頭を叩かれたようにぽかんとしていた。


「私が今の話を聞いて抱いた印象はね、二つの伝承には大きな矛盾はないのではないか、というものだったよ」

「でも、犬神がいるかいないかってのが大きい矛盾なんじゃ―――」

「それは人が信じるもの―――所謂、脚色の部分だろう? 私が言っているのは、実際に起こった"事実"の部分だよ」


 未だに頭から煙を出している阿久津に対して、土御門は立ち上がって阿久津からペンを受け取り、頬を緩めながらホワイトボードにペンを突き立てた。


 既にホワイトボードには阿久津が説明で使った資料や文字が全面に書かれていた。


 阿久津は椅子に座って土御門とホワイトボードをぽかんと眺めた。


「まず一昔前、猿神と呼ばれる人喰いの化け物が、現在で言うところの猿手山に存在していたこと。これは二つの伝承で変わりはないね」


 土御門はホワイトボード上の"伝承の始まり"という文字にペンを当て、そこから"日柱村の歴史"という欄まで移動させた。


「そしてこの生け贄の話。これは犬神の伝承にはなかった話だ。実はあの後もう一度大門のお婆さまと話す機会があったんだけどね、彼女も犬神の登場より前の歴史は何者かに消されているのかもしれない、と言っていたよ。

 つまり、この生け贄の話は矛盾どころか片方しか情報がないわけだ」


 続いて土御門は"人食いの被害の縮小"という部分を指した。

 矛盾点はここから始まっている。阿久津はホワイトボードに穴があくほど力強く見つめた。


「問題はここだ。いきなり人喰いの被害がなくなった辺り。ここで二つの伝承は交差する。

 猿神の方はその原因を猿神の慈悲、犬神の方は犬神と猿神の争いが原因だと伝わっている。これは確かに大きな違いだけれど、よく見てくれ。ここで起きていることは、単なる"人食いの被害の縮小"だ。ほら、阿久津君も自分で書いてるじゃないか。


 要するにこの二つの違いは、その人食いの被害の縮小を、どう捉えているかの違いだけだということさ」


 阿久津は段々と土御門が何を言いたいのかがわかってきた気がしたが、まだ発言することはせず、土御門の話に耳を傾け続けた。


 土御門はペンを"犬神の伝承"という欄に当てて、話にけりを付けた。


「そして最後に犬神の伝承。これに関しては言うまでもないね。だって、猿神の伝承には犬神は出てこないんだから、これは日柱村特有の伝承だ。

 つまり、分岐点は一つ前、人食いの被害の縮小からだ。その時期から日柱村側と猿山市では信じる対象が変わった。それだけのことなんだよ」


「じゃあ、結局起こった事って言うのは―――」


 阿久津が分かりきっている問題の答えを解くように口を開くと、土御門はホワイトボードの端に項目を羅列してそれらを矢印で繋げた。


「惨殺された死体が多数目撃されたこと、それを人ならざるものの仕業だと思い込んだ人々が、日柱村の人々を定期的に生け贄にしたこと、その風習をある時期からやめたこと、その後で変死体が見つかることが極端に減ったこと。それから長い時を経て、約一年ほどの期間日柱村で変死体が見られたこと。


 起こった事だけを淡泊に列挙するなら、こんな所だろう」


 土御門はキャップを閉めながらホワイトボードを眺めていた。まあ、二つの伝承の違いが単なる捉え方の違いだったということが分かったところで、事件の真相が分かるわけではないが―――頭に浮かんだその言葉は、すまし顔と共に飲み込んだ。

 

「そういえば―――猿山市だとか、猿手山だとか。この土地に猿神関連の名前が付いたのは一体いつ頃なんだろうね。それは何か言っていた?」

 土御門は自分の話に移る前に、素朴な疑問をぶつけることにした。


「ああ―――それはしつこく話をされていたときに言っていたと思います。確か日柱村という名前が付いたのとほぼ同時期だって。それまでここ付近がどのように呼ばれていたのかは不明だそうです」

「なるほど、そういうことね」

「え、何か分かったんですか」阿久津は土御門に食らいついた。


「いやいや、そんな核心に迫ることじゃないよ。ただ、猿山市の人々は被害が出ていた期間はあれど、猿神と相対することはないはずだろう? それなのに人喰いの怪物が猿の形をしていると知っているのは、なんだか違和感がないかい?


 しかも、阿久津君が聞いてきた話の中に、詳しい猿神の姿についての話はなかったのに、大門家のお婆さまの話には少しだけど、猿神の姿について語られていた」


「そうか、猿神が猿の形をしていると分かったのは、生け贄に出されている側だったんだ」阿久津は目を見張った。


「そういうこと。勿論、喰われる人間が他の人間に伝えた、というのはどうにも解しがたいけれど、猿神と"ある意味での契約"を交わしていたのは日柱村の住民だろう? となれば日柱村の人間の方がその姿を確認できる機会は多いはず。


 きっと猿神の姿に関しては、日柱村というものができてから猿山市側に伝わったんだ。それから猿関連の名前がつき始めた。そういう流れだろう」


 土御門はそう言って、ホワイトボードを叩いた。ホワイトボードは固定されている部分で回り、忍者屋敷の仕掛けのように阿久津と土御門の方へ真っ白の顔を見せた。


 土御門はペンのキャップを開けて、ホワイトボードの左上に"魚谷家 取材記録"という文字をでかでかと書いた。


「じゃ、次は私の番だ。私は阿久津君に言ったとおり、魚谷という苗字を持った夫婦の元へと取材に向かった。蘆屋警部とね。今からその報告をしようと思う。

 不可解に感じる部分は多々あるだろうけど、一旦最後まで聞いて欲しい」


 そう話す土御門の目はどこか虚ろで、未だに土御門本人も納得し切れていないようだった。




「と、いうわけだ。これで終わり―――って阿久津君、その顔はなんだい」

 

 土御門はこみ上げてくる笑いを耐えられずにいた。

 阿久津は空気をいっぱいに膨らませた風船のように表情が張っており、今にも言葉が口から空気のように漏れ出そうになっていた。

 

「土御門さんが、気になることがあっても最後まで聞けと言ったんで―――言いたいことを吐き出す寸前まで堪えてました」

「それはいいけど、ちゃんと話は聞いていたんだろうね」

「それは勿論! で、質問良いですか」


 土御門は「どうぞ」と立ち上がる阿久津にもう一本のペンを差し出した。

 阿久津は"考察"と書かれたところをキャップが開けられていないペンで叩いて、土御門に詰め寄った。


 その考察の欄には、土御門が魚谷夫妻が企てたと考えられる養子計画が綺麗な字でまとめられていた。


「この両親の考察、本気ですか」

「あくまで可能性、ではあるけどね。そういう手口を使っている可能性もあるのでは、という考察だ」

「だって、これは―――」


 言葉を失っている阿久津を、土御門は冷静に説き伏せた。


「そう。犬神だとか、猿神だとか。そういうことを全て度外視にして考えた結果の考察だ。これが、常識的に考えた結果、導き出される"はず"の答えだ」


 その言葉の裏には、私だってこれが真実ではないと分かっている、という本音が顔を覗かせていた。それは阿久津も理解していたからこそ、その場にはしばしの静寂が訪れた。

 

「そうですか、それが聴けて安心しました。で、本当のところで土御門さんはどう思っているんですか」


 土御門は目線を外した。

 分かっている。もし一連の事件―――不審死などの事件を除いたものが全て魚谷夫妻によるものだったのなら、彼らの作戦は今この時点で頓挫している。なぜなら、彼らの娘は今ここにはいないのだから。


 土御門はしばらく黙り込んだ後で、ホワイトボードの対角線上をペンで一閃した。その線は丁寧に書かれたレポートや考察を、たった一本の線でことごとく否定しているようだった。


「分からない、これが全てだ」


 土御門の表情は砂漠のように乾ききっていた。


 阿久津はこの"分からない"の重みを全身で感じていた。頭脳明晰、冷静沈着。いつ何時も考えることをやめない。だから彼の考察には終わりがない。


 そんな男が、今この場で思考に仮の終止符を打った。それがどれだけ苦しいことか、どれだけ土御門の視界が暗闇で覆われているかを示すようなものだった。


「そう、ですか」阿久津は、締められた蛇口から漏れ出る水のように、言葉を漏らした。


「うん、ごめんね。頼りない上司で。でもね、今回の私は違うよ」

「え―――?」阿久津は思いの外力強い声色を発する土御門に驚かされていた。


「調査に限界はない。それは私が君に言った言葉であり、君が再び私に教えてくれた言葉だ。私は諦めていない。この全ての真相を、解き明かしてみせる。そして今度こそ、日柱村の人々に本物の平穏を与えてみせる。


 もう二度と薄氷の上に立たせたりしない。私がいる限り、この村の平和は揺るがせない」


 土御門は両手に力を込めた。最近手入れできていなかった爪が掌に刺さり、チクリと痛みが走った。


「私は今後一切、諦めはしない。私の手で事件を完結させるまで、なにがあろうと、だ。しかしそれには助手がいる。阿久津君、頼めるね」


 ああ、これが。これが土御門という男なのだ。阿久津は差し出された手を取りながら、不思議と頬が緩んでいた。

 

「頼まれなくても、いつだって隣で支えますよ。任せてください」


 土御門は握られた手をまた強く握り返し、すぐに手を緩めて「それじゃ、早速」とホワイトボードに向かった。

 

 これから人知を越えた存在との戦いが始まるんだ。どこかでそれを悟った阿久津は、どうにかして深呼吸で武者震いを抑えようとしていた。


「まず私がおかしいと思った点、それは魚谷家の子ども部屋に埃が被っていたことだ。阿久津君はどう思う」

「いずれ生まれてくる子どもの為の部屋なんだから、ずっと綺麗にしておけばいいのにって思います」

「そう、そこだ」土御門は開いているスペースにペンで文字を書き殴った。


「もし彼らの言うことを全て信じるのなら。彼らは昔から今に至るまで、あの部屋に自分たちなりの装飾をしていたことになる。しかしそれでは、あの部屋に埃が被っていたことを説明できない。

 あれは、あの部屋にはしばらく入っていないということを示す証拠だ。明らかに矛盾している、そうだろう?


 彼らは確かにあれだけのものを数年もかけて揃えた。しかし、ここしばらくはあの部屋にも、子ども用品にも手を付けていない。その結果、あの部屋は誇りの山となっていた。そう考えた方が自然だ」


 土御門は"部屋の埃"という部分と、"階段"という部分をペンで繋げた。


「それと、あの急な階段だ。あれはいくらなんでも小さい子どもには危険すぎるものだった。あんな設計、子どもを作る前提ならおかしいと思わないか」

「それは―――そうですね。でも一階は客間だって言っていたしなあ」


「その客間とやらには何が置かれていた? 数々のおもちゃだろう。あれは彼らが、子どもがある程度大きくなるまではあの和室で育てる予定だったことを示しているのではないか―――私はそう考えている」


 阿久津は開いた口がふさがらなくなっていた。点と点が繋がっていく。そしてその線は、無慈悲にも事実へと向かって伸びている。


「しかし和室にはあるものがなかった。それは和室だけでなく、家中のどこにもなかった。子どもを育てるつもりなら絶対に必要なもの、一番はじめに必要になるもの―――そう、育児用品だよ。

 おかしいと思わないか―――例えばおむつとか。いつ買ったって良いじゃないか、離乳食のように期限があるわけでもないんだから。


 それはなぜか、答えは一つだ。彼らは既に育児を終えていたんだよ。だからあの家には、そういった消費できない物だけが残っていたんだ。おもちゃとか、本とかね」


 土御門の思考は加速していく。その末に、一つの答えにたどり着いた。


「これだけ違和感が揃えば、もう言い逃れはできない。間違いなく、彼らには既に子どもがいたんだ。しかしそれを隠した。その原因は不明だが、ここに犬神の権能とやらを付け足せば、新たに一つの仮説が生まれる。


 阿久津君、君が私の話を聞いている最中にずっと言いたかったのはこれだろう?」

 

 阿久津は顎を引いた。


「彼らは娘の存在を忘れている。というよりも、忘れさせられている。ということですね。そして今、その権能を支えている祠が壊れている。つまりこれ以上の記憶の改ざんはできない」

「そうだね、今なら犬神について更に深追いすることができるかもしれない」


 土御門はそういうと、ホワイトボード上に"これからの調査について"という欄を作り、箇条書きできるように黒丸をいくつか並べた。


「よし、じゃあ早速今後のことを考えよう。まずは、そうだな。私が必ず必要だと思うのは―――」


 その会議は夜通し続き、いつの間にか二人ともがその部屋で眠ってしまうまでに至った。

 どちらが先に力尽きたのか、それすら記憶に残らないほどに全てを出し切った二人は、いつまでも爛々と光る部屋の中で机に突っ伏していたのだった。




 そんな彼らの眠りを覚ますのは陽光でも、鳥のさえずりでもなく、ただの機械音だった。一定間隔で音を鳴らし続けるそれは、どこか二人に助けを求めているようなコール音だった。


 

 

 

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る