第七話
きょとんとしている阿久津を横目に、老婆は黙々と祠の清掃を始めようとしていた。土御門も彼女に付き添い、なにか手伝いをしようと手を差し出している。
老婆はそんな土御門を見てにたりと微笑み、簡単な手順を説明すると同時に道具をいくつかの道具を手渡した。
阿久津は少し首を回して、手頃な木を探した。太すぎず細すぎず、ちょうどいいサイズ感の木―――あぁ、あのサルスベリでいいか。祠の裏辺りのツルツルとした木を見つけると、阿久津はそこに警察犬のリードを縛り付けた。
「ごめんな、もうちょっと待っててくれ。これが終わったらお前の出番だからな、その時はよろしく頼むぜ」
警察犬の頭を丁寧に撫でると、阿久津も二人の元へと向かった。既に二人は祠にかかった蜘蛛の巣を払ったり、外側を拭いたりし始めていた。
「いつもこんなことを一人でやられてるんですか? そこまで大きな祠じゃないとはいえ、大変でしょう」
土御門が雑巾を水に浸し、力強く絞りながら言った。老婆はそれを聞いて声を出して笑った。
「そりゃそうだ、大変に決まっとる。こんな老体に鞭打ってやってるんだからねえ。でもこれでも楽になった方なんだよ、なんてったって数年前まではもっと祠が大きかったんだからねえ」
「ああ、そうだった、これは再建した祠なんだった。俺すっかり忘れてましたよ」
土砂崩れによって犬神の祠は一度壊れている。それが約八年前のこと。そして不審死が見られるようになったのがそれからすぐの七、八年前のことだ。阿久津は駐在所で土御門から聞いた話を思い出す。
土御門がこの村に赴任するよりも一年も前に連続での不審死はピタリと止まっている。そしてそれはこの祠が再建されたのとほぼ同時だったとのことだ。
そして怜治らに聞かされた、猿神から人々を守る"神隠し"の権能の話。その不審死は、この祠の力が無くて、犬神が猿神に対抗できなかったが故だというのだ。
阿久津は目の前の祠を今一度睨んだ。どこからどう見ても、普通のありふれた祠だ。少なくともこの祠にそんな特別な何かが宿っているようには、到底思えない。
今、この祠を蹴っ飛ばしたりしたら、その犬神とやらが出てくるのだろうか。怒り散らして自分に向かって飛んでくるのだろうか。そんなことを考えながら、阿久津は怜治の言っていた犬神の姿を想像してみる。
ふと、横腹に痛みが走ったような気がして、阿久津はそっと傷跡を手で押さえた。
「そうさ、前の祠は今に比べてももっと、立派だったさあ。今の二、三倍はあったろうねえ。でも、これで良かったのかもしれないね。あの子が祠に関わらないというのなら、私一人で管理しなきゃならない。それなら、これくらいの大きさがちょうどいいさね」老婆は祠の屋根を優しく撫でた。
「そうですね、お孫さんにもお話を聞きましたが、この祠には関わりたくないという意思はきっと、堅いものだと思います。我々も実感させられました。
そこでですね、話を聞いた上で、我々としても個人的に気になることがあるのですが―――本人に聞きにくいことだったもので、お婆さまに伺ってもよろしいでしょうか」
老婆は聞きたくない内容には耳を貸さない様子だったが、土御門の最後の問いには小さく反応を示した。
「あの子の両親のことかい」
阿久津は目を細めた。老婆は祠の方を向いて作業したまま、そう吐き捨てた。土御門の手も止まり、警官二人はその場に立ち尽くすことしかできなかった。
「どうせそうだろう。どうせあの子のことだ、両親のその後なんて自分にとって耳の痛い話、あんたらにすることは無いと思っていたさ。そりゃあ純粋に気になるだろう。しかも本人に聞きづらいことともなれば、あの子が好きだった両親のことで決まりさね」
老婆はしばらくするとこちらに向き直り、手や身体の汚れを払った。その目には光は無く、土御門でさえも老婆の感情を読み取ることができずにいた。
「あの子がいなくなった日、あの子の父親は大けがを負った。母親は無傷だったんだけどね、父親のことやあの子のことでパニックになっちまって、結局二人とも病院送りになった。でもとにかく、父親の方の外傷が酷かったね。身体の大事なところを強打したとかでね、いつまで経っても意識が戻らなかったのさ。
父親と母親は違う病棟で入院していたんだけどね。父親が回復しないことを聞くと、母親はその都度一層パニックになって、情緒が安定しなくなっていった。そんな負のループが止まらなかったんだねえ。そしてやがて、母親は決断を下した。それが、ここらを離れて、都会の病院に移ることだったんだよ」
「それは、怜治さんを置いていくという決断をしてでも、ということでしょうか」
土御門が聞くと、老婆はふっと鼻で軽く嘲笑った。
「ああ、そうさ。その時彼らの頭にあの子は存在していなかったんだよ。比喩じゃない。そのままの意味でねえ」
「―――へ? どういうことっすか。怜治さんもお婆さんも、今の今まで一連の記憶があるわけでしょ? なら怜治さんの両親だってこの一族なわけだから、怜治さんが攫われたって記憶から消えるなんてことないんじゃないんですか」
阿久津は頭から煙が出そうになっていた。怜治と老婆に聞いた話がうまく繋がらない。結局犬神の権能ってのは何ができることなんだ。
阿久津は疑問が頭の中で明確な形を成さないのを感じた。
「あの子が消えてから、あの畑に現れるまで。期間でいうと一ヶ月くらいのもんだったかなあ。私があの子を覚えていたのは―――どうだろうね、いなくなってから数日程度だっただろうね。そしてあの子が畑に現れた日、私は全てを思い出したのさ。
その時にはもう両親はいなかったわけだからね、彼らは今でも息子のことを思い出してないかもしれないし、逆に言えばあの子はこの村に戻ってきてるわけだから、どこかで思い出しているかもしれないねえ。
母親が精神を壊したのも、そこら辺が一つの要因になっているのかもね。"息子を守るために父親が大けがを負った"という事実が、彼女の中でどんどんねじ曲がっていった。そりゃあパニックにもなるさね」
土御門は顎に手を当てて状況を整理していた。今の話と、怜治さんが見聞きした情報を頭の中で合致させる。
そして土御門は自分の中でまとめるためにも、その中身を口から出すことにした。
「怜治さんは例の空間からこちらの家に帰されるとき、こんな声を聞いたと言っていました。『こいつは大門の子だ、間違いない』という犬神様のものと思われる声です。これは畑で怜治さんを連れ去った時点では、怜治さんのことを大門の一族だと分かっていなかったことを示しているのではないでしょうか。
加えて、怜治さんはこんなことも言っていました。今も自分たちに記憶があるのは、自分らが大門の一族だからなのではないかと。
つまり、犬神様は怜治さんをこちらに連れ戻すときに、ようやく関係者に記憶を返したのではないでしょうか。だからそれまではお婆さまも、周りの人達も、怜治さんの記憶を無くしていた。
そう、怜治さんが畑に帰ってくるまで、きっと大門家も犬神様に連れされられた他の家の人達と同じ処置を受けていたんですよ。神隠しという名の、"記憶の改ざん処置"をね。そしてその対象に権能を使えるのが、例の空間なのでしょう」
「そうだねえ。あくまで犬神様のしたことだ、私たちが全て分かるわけではないが―――そう考えるのが自然だと思うよ。私もね。
権能に関しても、同じ理由で明確ではないけど―――まあ、そういう認識でいいと思うよ。記憶を消したり、戻したりできる。それを使って猿神の記憶の中から、狙われた人の記憶を消して、人を守る。そんな感じなんじゃあないかねえ」
そう言うと老婆は綺麗な布巾を取り出し、祠の清掃の仕上げをし始めた。
来た当初は落ち葉がかかっていたり、虫がついていたり蜘蛛の巣ができていたりと、決して綺麗とはいえなかった祠も今ではある程度整頓されていて、少し拝んでいきたくなるくらいにはなっていた。
祠の全体を確認して納得したように頷くと、老婆は紙袋の中からいくつかの食品をとりだした。
手にしたのはいくつかの野菜と、スーパーなどで売っているような肉だった。そのどれもが最近買った物のようで、変色などがないことから鮮度は保たれているようにみえる。
老婆は野菜をそのまま祠の正面に供え、肉はプラスチックのラップを取り外して野菜と同じ場所に置いた。既にそのどちらもに虫がたかり始めていたが、老婆は全く気にすることなくその場で座って手を合わせた。
土御門と阿久津もその様子を見て、老婆のすぐ後ろで同じようにしゃがみ、小さく手を合わせた。
その空間は一時、自然と一体化しているようだった。聞こえる音も、吹く風の生暖かさも、土のような葉っぱのような青臭い匂いも、それら全てがこの山が作り出したもので、三人はその中に溶け込んでいくような感覚に陥っていた。
数十秒経って、老婆が立ち上がったのが帰宅の合図だった。
老婆はテキパキと用具を片付け、土御門はその補助に回った。阿久津は素早く警察犬の元へ向かい、リードを外した。ようやく彼の出番だ。
「お二人とも、ここからの帰り道はもう分かっているね」
「はい、ありがとうございます。また帰るときにもう一度挨拶の方させていただきます―――あ、その用具も後ほど私たちが持って行きますよ。せめてものお礼です、最後に手伝わせてください」
「そうかい、ありがとうねえ。じゃあ、お気をつけて」
老婆は二人がこの後警察犬を使った捜査をするのを分かっていたこともあり、そそくさと家の方へと戻っていった。意外ということも無かったが、老婆がその捜査に怪訝な表情をすることは一切無かった。
「さ、始めるか。阿久津君」
「はい、まずは魚谷ちゃんの服からいきます」
阿久津はポーチに手を突っ込み、汚れた布きれを取り出して警察犬の鼻に近づけた。警察犬はしばらく鼻で嗅ぎ、数秒で小さくくしゃみをした。これが匂いを覚えた合図らしい。
阿久津がリードを外し、二人で警察犬の行方を観察した。
警察犬は少し祠周りをぐるぐると回ったかと思うと、茂みの方へ頭を突っ込んだ。二人は目を細めて動向を追っていた。
しかし警察犬はその先に行くことはせず、再び祠の方へと戻ってきてしまった。終いには老婆が供えてそのままになっている肉の方をくんくんと嗅いでいる。
「んー、おかしいですね。この祠が犬神の力とやらに関係しているのなら、犬神が直々にここに現れることもあると思ったんすけど」
「この様子では、少なくともここ付近ではこの匂いは見当たらないっぽいね。まあ仕方ない、ダメで元々だ。私たちは神を探しているんだし、そう簡単にその住処が見つかるとは思えない」
そう話しながらも土御門は、同時に怜治の話の中にあった"寒さ"という単語を頭に浮かべていた。山の中で寒さを感じるとなれば、それは標高が関係しているのではないだろうか。
今我々がいる場所はそんなに標高が高い訳ではない。言っても猿手山の中腹より少し低い辺りで、地上と比べてもそこまで温度の違いを感じるほどではなかった。
もしや、犬神はもっと高いところにいるのではないだろうか。しかも標高によって肌寒さを感じるレベルとなれば、猿手山程度の山ならほぼ頂上辺りしかあり得ない。
「まだここ付近で匂いがないということが分かっただけだ、この後にでもいくつかの場所で試してみよう。ほら、そうと決まればテキパキ調べなきゃ、日が暮れてしまう。早速もう一つの手がかりもここで試してみてくれないか」
阿久津はおもむろにポーチに手を突っ込み、中から三種類の糸巻きや毛糸玉を取り出した。
「これとこれと―――これ。この三つを編み込んで作ってあるんです。一つずつ、試していきますね」
「ああ、頼むよ」土御門は前屈みになって、その糸たちと警察犬を眺めていた。
警察犬は糸の匂いを嗅いだ瞬間若干のけぞり、それから少しすると慣れたようにとぼとぼと歩き始めた。
「落ち込む気持ちは分かるが、まだ調査できる線は沢山ある。まだまだこっからだよ、魚谷ちゃんのことを思うのなら尚更こっから気張らなきゃ」
夕暮れを知らせる赤い光が、土御門側から二人と一匹が乗った車と道を照らしていた。反対側の空は既に薄暗くなっている。
そんな車内で、阿久津はただうなだれていた。
「わかってます、でもまさかあそこまで手がかりが無いとは―――だって魚谷ちゃんが出てきたのも、ここからまっすぐ下った先の茂みっすよ? なら普通に考えてこの上に痕跡があるはずなのに―――いや、相手は神だから普通じゃダメなのか」
阿久津は無力感に浸っていた。
期待を寄せていた二つの手がかり。それらを使って、二人で何度か車で移動して警察犬に捜査させた。土御門の推測もあって、二人は大門家から少しずつ山に登る形で捜査を進め、結局車で行ける限界まで上を目指した。
それでも足りないのではと考えた阿久津は、自分の脚で安全な場所を探して警察犬と共に道なき道を進んだりもした。今思うと警察犬には悪いことをした気がする。
ここまでしてでも、警察犬が期待できる反応を示すことはなかった。確かにミサンガに関しては匂いが弱いのかもとも考えた。
しかし魚谷が着ていた服に関しては、人間の鼻でも顔が歪むほどの匂いを持っている。これで反応を示さないのであれば、それは警察犬の限界を意味しているようなものだった。
「警察犬での捜査はあまり手がかりを得られなかったかもしれないけれど、本来の目的は果たしたじゃないか。前回私が来たときよりも、より深く、広く話が聞けた。
これを信じるか信じないかはおいておいて、結果的にはいい聞き込みだったと思うけどね」
土御門は運転しながら、独り言のように呟いた。
「でも、俺今のところなんもできてないっす。守ると言ったのに守れてない。手がかりすら見つけられない。俺、魚谷ちゃんにあわせる顔ないっすよ」
そう話す阿久津の目は、どこか遠くを見つめていた。それを見た土御門は、鼻から息をゆっくり吐いて、諭すように話し始めた。
「いいかい阿久津君。手がかりが得られなかった、というのは、無意味と同義ではないよ。私たちは今日、半日をかけて日柱村に面している側の猿手山において、あの匂いが確認されなかったことを示したんだ。これは確かな情報だよ。
だから阿久津君、自分が何もしていないというのはやめなさい。君は身体を張って彼女を守ろうとした。それで怪我を負ったのに、今も変わらず彼女の居場所を追おうとしている。これだけでも、私は警官として素晴らしい働きをしていると思うよ。
だから胸を張りたまえ。ついでに言うと、これで終わりじゃないからね。こんな状態で終われるわけがない、そうだろう? 私たち警官に下を向いている暇なんてないよ」
土御門はそう言って阿久津の肩を小さく拳で小突いた。その拳が触れたところから、阿久津の全身にはじんわりと熱が伝わった。
そうだ、まだ俺は神話みたいな伝承とその経験談しか聞けてない。こんなことで魚谷ちゃんが探せるわけがない。
もっと、もっとだ。阿久津の心にはもう一度炎が宿っていた。
*
魚谷の捜索へ再び前を向けたあの日から、既に二週間が経とうとしていた。
あれから特に手がかりもなく、訳あって警察犬も借りることができなかったことから、二人は猿手山の調査にすら出向くことができなくなっていた。
まだ午前中だというのに阿久津の心は常にざわついていた。
「土御門さん、俺やっぱり普通の民家にも聞き込みをしてみようと思います。それでとにかく二つのことを聞きまくるんです。
一つはあの犬神様の伝承のことで知ってることはないか。ご老人たちが知ってたら万々歳だし、もしそれがダメでも伝記みたいなものが残されてたら、それを調べるって感じで。
もう一つは数年前の不審死について知ってることを聞くんです。そしたら、その不審死と今回の誘拐事件に、なにか繋がりが見えてくるかもしれないじゃないですか」
土御門のテーブルに手を置きながら力説する阿久津の顔を、土御門は正面から見ることができないでいた。
「―――すまない、やはりそれは合意できない。前も言ったとおり、私は今更数年前の不審死について掘り返すのは少しリスキーだと思うんだ。
客観的に考えてごらんよ。今になって駐在所の我々が不審死について聞き回ったら、村の人々はどのような心境になるだろう。きっと『あの事件って解決していなかったの?』と思うんじゃないかな。そして我々に対して不安を感じ、もしかしたら不信を抱くかもしれない。
だからね、私としても不本意ではあるが、今現在日柱村を覆っているこの薄氷の上の幸せを壊すのは、少し怖い所があるんだ。これは分かって欲しい。勿論、私も不審死について解決したい気持ちは十分にある。しかし、村の人々の心の平穏を脅かすとなると話は別だ。
分かってくれるかな、阿久津君。とにかく今は他の方法を探そう、それなら全面的に私も協力するからさ」
「うーん―――分かりました。でもそれ以外になにか調べられることってなにかありますかね」阿久津は口を尖らせる。
「阿久津君、我々は今、犬神の伝承に取り憑かれているのかもしれないよ。忘れたかい? 私が最初に阿久津君にこの話をしたときのこと。犬神関連の話は、確かに大門家で言い伝えられている伝承だ。でも逆に言えば、その域を出ない。
だから私は始めに"オカルト的な視点で考えて欲しいわけじゃない"と言ったんだ。それに囚われたら、全部が全部を犬神のせいにしかねないからね。
いいかい、私たちの本来のやり方は地道な調査だ。勿論人に聞くのもそうだけど、過去の事例を片っ端からしらみつぶしに調べるというのも常套手段だとは思わないかい? 我々はそうやって、地道にコツコツと事件を解決してきたんだ」
そして最後に、土御門は阿久津をまっすぐ見つめて目に力を込めた。
「私たちの調査に"限界"というものはないよ」
阿久津は頬をはたかれたような衝撃を感じた。彼の言うとおりだ。自分はなんとかして犬神の伝承の種を割って、魚谷や怜治を連れ去った存在を見つけようとしていた。その時点で、すでに伝承に取り込まれていたんだ。
第一、怜治の話が本当だとしても、怜治を連れ去った存在と魚谷を連れ去った存在が同じとは限らない。それに、数年前の不審死についても魚谷の誘拐と関係があるという力強い根拠はない。
全部が全部、犬神という一点で自分が勝手に結びつけていただけのことだ。阿久津は頭を振って、今一度思考をリセットしようとした。
「そう―――ですよね。俺にも色々資料とか見せてください。もし必要だったら、猿山警察署にも行って必要な書類とかも貰ってきます。できることから、なんでもします」
「うんうん、その意気だ。そうだ、猿山警察署といえば、私が前お願いした調査の結果を聞いてこなければだ―――」
土御門が思い出したかのように書類に手を伸ばそうとしたとき、ふと部屋の電話が鳴った。
「お、噂をすれば警察署からだ。私が取るよ、依頼したのは私だしね」
土御門は悠長に歩いて電話の元へ向かうと、慣れた口調で対応し始めた。例の件、といえばきっとそれは魚谷のことで間違いないだろう。
阿久津がまだ入院していたとき、蘆屋と土御門の二人は魚谷の誘拐事件の終着点に関しても話し合っていた。結論として、蘆屋のいる警察署はとりあえず"魚谷という苗字の人間を探す"という方針で定まっていたはずだった。
そして今、この電話が魚谷の件についてだった場合、それは調査の終了を意味している。戸籍上で、日柱村と猿山市に"魚谷"という苗字の一家、つまりは魚谷ちゃんの家族がいるかどうかが分かるのだ。
阿久津は電話で対応している土御門を注意深く観察していた。彼の表情一つで、今後のことが決まるかもしれない。
土御門は初めこそ冷静に話を聞いていたものの、その様子は意外にも早く崩れることとなった。眉間には皺が寄り、急いで机に取り出した手帳には相当なスピードで何かを殴り書き続けている。
そして一分も経たない時点で、土御門から阿久津に口パクで指令が飛んだ。
―――準備しろ。すぐに出るぞ。急げ。
阿久津は何が何だかわからなかったが、土御門の眼力でまずいことが起きたことは察していた。あんな土御門の表情は見たことがない。
彼の見つめていた先に阿久津はいなかったのではないかとさえ思えるほどに、その目はどこか揺らいでいた。
固定電話の受話器を勢いよく置いた音が響き渡ると同時に、土御門も駐在所内を駆け回った。
それを見て、一足早く出動の準備が整っていた阿久津が、出入口付近で叫んだ。
「一体全体なんなんですか、魚谷ちゃんのことじゃなかったんすか」
土御門は上着や普段の装備を手早く身につけながら叫び返した。
「詳しいことは車で話す。けど確かなのは、日柱村の端で死体が見つかったということだ。今からそこへ直行する」
「死体!? 悪い冗談やめてくださいよ―――」
「残念ながら大真面目だ。さっきの電話は猿山警察署からの出動依頼だった。今すぐ土御門巡査部長に来てもらいたいって言われた。超特急でって」
今すぐ、土御門巡査部長に来てもらいたい―――? 阿久津はその言い方に引っかかっていた。
日柱村の端、というのがもしも日柱村と猿山市の狭間であった場合、別段日柱駐在所の土御門さんがそこまで急ぎで向かう必要はないのではないか。
当然日柱村で起こったことであれば、土御門か阿久津が向かうのは当然のことだ。ただそんな"急ぎで"行かなくてはならないという点が阿久津には気になっていた。
加えて、日柱駐在所には阿久津もいる。言ってしまえば、呼ばれるのが土御門でなくてはならない理由などないはずなのだ。単に処理能力の違いから言われているなら納得できるが、どうにも阿久津の中には気持ち悪さが残っていた。
阿久津は歯になにかが挟まったまま取れないような気持ち悪さを残しながら、準備を終えて阿久津の元にたどり着いた土御門に車の鍵を渡した。
土御門はそれを受け取ると、まっすぐ外に向かおうとする阿久津に反してその場に留まった。視界から消えた土御門に気付き、阿久津も後ろを振り返る。
そこにいたのは、歯をかみしめて鍵を睨み付ける土御門だった。
「阿久津君、覚悟しておいてくれ。見つかった死体は、私たちが最近見たものと似ているそうだ。状態の悪い、汚れた死体。分かるかい、恐れていたことが起きたんだよ」
土御門が目線をあげると、阿久津は自分の息が詰まっていくのを感じた。土御門の緊張が自分にも波及しているのがわかる。
土御門はなにかしらの限界を超えたのか、口元には苦笑いが浮かんでいた。
「数年前の不審死が繰り返されたんだ。やはり、あれは解決してなんかいなかったんだよ」
阿久津は自分が感じた違和感が形になっていくのがわかり、つい先ほどに余計な勘が働いた自分を恨んでいた。
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