第六話

「あれえ―――私、生きてるの?」


 きょとんと怜治を見つめる彼女は、化け物のよだれで塗れていた。


「心美さん!!!」


 怜治は転びそうになりながらも心美に駆け寄った。地面の苔が足を奪って姿勢を崩すことすら気にもとめず、一直線で放心状態の少女の方へ向かっていく。


「大丈夫だった? 怪我はない? 僕から見たら舐められてるだけだったけど―――ってかいったいあれはなんなのさ、僕あんな大きな犬見たことないよ。いやそれよりも今は心美さんの身体の方が大事だよね、痛いところとかない?」


 心と頭がぐちゃぐちゃになりながら、怜治は心美の身体を覆う粘液を払った。終いには自分の上着を脱いで、それを布巾にして心美の身体をこすった。その匂いは、怜治の身体に付着していたものと同じものだった。

 腕や頭に触れても、心美はずっと自分の手や怜治を見つめるだけで何も言わないし、何も反応しなかった。少なくとも、痛がっている様子は見られなかった。


「私、食べられると思ったのに。なんでだろう。生きてる―――生きてるよね、私」

「うん、うん。生きてるよ。しかも多分傷もない。大丈夫だよ」

「はえぇ――――」


 心美は首をかしげていた。自分が予想していた未来と今の自分との乖離、一時的に過剰に湧き上がった恐怖の感情。そのどちらもが彼女の中で溢れ、まともな思考ができなくなっていたのだった。

 怜治はそんな心美を目を丸くして見つめていた。とりあえず良かった。

 怜治も安心して身体の力が抜けそうになっていたその時、怜治はこちらに近付いてくる大きな足音に気が付いた。

 

 なにごとだ、怜治が身体をこわばらせた時には、既に怜治と心美の身体には衝撃が走っていた。


「お前ら!! 無事か! 無事そうだなあ―――あぁ良かった、本当に良かったよお」


 気付くと怜治と心美は修の両手に抱きしめられ、痛いほどの力で締め上げられていた。その声は上擦っており、修の身体は今でも震えと共にあった。


「俺、最初何が起きたかわかんなくて、怜治が俺らの中から抜けてったのに気付いたときは声すら出なかった。止めたかったけど、止められなかった。しばらくじっとすることしかできなかったんだけど、これじゃダメだって、ようやくそっちを向く勇気が出て―――まったく、勝手に出てくんじゃねえよ怜治」

「ごめんなさい―――でもね、僕はちゃんと見てたんだ。あいつがいなくなったと思ったから、出て行ったんだよ。でも黙っていったのはごめんなさい」


 混乱しながらまくしたてる修に、怜治は身振り手振りを交えて説明して、小さくお辞儀をして謝った。それをみて安心したのか、修は怜治の頭を雑に撫でて笑った。


「まあいいさ、今回は誰も喰われなかった。万事おっけーだ。ほら、心美もあいつらの所戻ろうぜ、あいつらも心配してるさ―――あぁ、立てないのか。ほら、俺の首つかめ。ほら―――よっと」


 ぐだんと修に覆い被さる心美は、どうやら腰が抜けているようだった。修は何度か小さくジャンプして体勢を整えると、ゆっくりと三人の元へと歩いて行った。

 すごい、自分だったら持とうとしただけで多分僕の方が潰れちゃうだろうな。怜治は四、五歳の年齢差の大きさをまじまじと感じていた。そして地面を見ると、化け物のよだれだと思われる粘液以外にも、さらさらとした水が溜まっているのが見えた。


 怜治はこの時、改めて心美の味わった恐怖の大きさを知った気がした。



「心美さん!」

「心美さん、あのね、うち心配でした、怜治君に続いて修君までいなくなったときはどうしようかと思ったんです」

「わあああ、ホントに良かったああ」


 心美が三人の元に戻ると、三人は同時に心美にすり寄ってきた。全員が心美の無事を心から喜んでいるようで、そこには彼らにとっての心美の存在の大きさが表れていた。


「ごめんねえ、もう私も認識できないくらい一瞬のことで、叫ぶことすらできなかったの。本当に絶望したときは声も出ないって本当だったのね―――」

 そう言って心美は自分の胸に手を当てていた。三人は泣きじゃくりながら首を大きく縦に振っている。


「あの、さ。ちょっといいかな」怜治の声に、全員が怜治の方へ顔を向けた。


「皆はあれのこと、知ってたんだよね。あれ、人を食べちゃうの? 本当に、人を食べたの?」


 場にいた全員が再び静まりかえった。食事のことを聞いたときと同じ反応だ。怜治はまたもや訳が分からない答えが返ってくることを覚悟した。


「ああ、俺はそれを伝えようとしてたんだ。その時にあいつが来ちまった。だから伝えそびれた。ごめんな、本来あいつのことを最初に話すべきだったよな」

「いや、それは全然―――それより、あれは人を食べちゃうの? 食べたところを見たことがあるの? それを教えて」

「その質問の答えなら―――ない。人を食べてるのをを見たことは、ないとしか言えない。なぜならあいつはここで何かを食べたりしないからだ。これは人も、そこに転がってる動物たちもそうなんだよ。絶対にどっかへ持って行くんだ」


 怜治はさっきの情景を思い出した。犬の化け物は、自害した大人の身体をその場で食べることなく咥えてどこかへ持って行ってしまった。その後どうなったかは、怜治には分からない。

 きっと今までその光景を見てきた彼らもそうなのだろう。怜治は内心混乱していた。


「でもよ、あんな化け物が俺たちを攫って、ここに放置して、時が来たらどこかへ連れて行く。それにこの空間の変な性質。その後喰われてると考えるのが普通じゃねえか? 現にさっきも心美が喰われそうになった訳だし―――なぁ?」


 怜治に必死で訴えかける修に問われ、心美は小さく「えぇ―――」と呟いた。あの瞬間を思い出してしまったようで、心美は自分を抱くように丸くなっていた。


「さっきの大人も、この動物たちも、きっとどこかで喰われてるんだ。俺たちに見せないのは、俺たちを逃がさない為だぜ。間違いない、だろ?」

「う、うん―――」怜治はうつむいた。


「―――修君、そんなにまくしたてないであげて。ねえ怜治君、さっきからなんか様子がおかしくない? 何か言いたいこととか、気になることとかあるんじゃないの?」


 心美は少し顔を上げて怜治を菩薩のような表情で見つめた。修は「悪い、責めるつもりはなかったんだ」と怜治の肩を抱き、目線を合わせながら「言ってみろよ、大丈夫だから」と優しく微笑みかけた。


 怜治の心にあったのは、幼いときから祖母に言い聞かせられていた犬神様の伝承だった。犬神様は味方、犬神様は人間を助けているのだ。そんなことを小さな時から耳にたこができるほど聞かされていた。

 怜治はあの化け物の姿を見た瞬間、その伝承が頭をよぎった。しかし同時に、あれは人間の味方ではないような気もしていた。今、怜治はそれが分からなくなっているのだった。


「僕さ、猿手山に住んでるって言ったじゃんか。僕の家って、犬神様の祠を管理する家なんだ。皆は知らないかもしれないけど、この日柱村と猿山市には伝承があって―――その―――」

「大丈夫、ゆっくり聞くわ。だから落ち着いて、ひとつひとつ話してくれると嬉しいわ」


 心美の澄んだ声は、怜治の混乱した頭を冷やすには十分だった。




「んーそんな祠があったとはなあ、俺は知らなかった。お前らは?」

「うちも知らん―――それって昔の話じゃないん?」修に聞かれて美代が首をかしげる。他の三人も同じような反応だった。


「これは予想だけどね、祠の管理を怜治君の先祖がするようになってから、その伝承は世代を重ねるごとにどんどん薄れていったんじゃないかしら。だって祠に関わるのは怜治君のお家だけになったんでしょう? なら他の人達からしたら馴染みがなくなっちゃうもの、忘れ去られていくのも分かる気がするわ」


 心美の推察は、祖母が言っていたことに他ならなかった。怜治もこのように言い聞かせられており、だからこそ我々だけは忘れてはならない、とよく釘を刺されていたものだった。


「なるほどな―――で、肝心のあれが俺らの味方って話だけど、第一俺らがその猿神ってのを見たことがないからなあ、なんとも言えないよな」

「でも、確かに僕らは誰もあれに食べられてないし、他の人達が連れて行かれた後どうなったかも知らない。これって"無の証明"ってやつに似てるよ、答えは出ないよ」


 武史はそう言って頭を抱えていたが、他の四人は武史の言っていることの方が難解に思えて、途中で考えるのを放棄した。


「その話では、こっちにいる間は俺らは村の人達に忘れられてるってことだったよな。なら、もしもだぞ。連れて行かれた人達がその伝承通り村や市に戻っていた場合、そんな不可思議な現象、噂になるに決まってるだろ。なのに俺たちはそんな話、ほとんど聞いたことない。おかしくないか?

 戻ってきた人の家族、もしくは戻ってきた本人、最低でもどっちかは騒ぎ散らすだろ、普通。俺でもそうする。なのにそんなこと一切聞いたことないってのは、なんだかなあ」


 修の疑問はごもっともで、これは怜治が幼いときから怜治の両親が幾度となく祖母に尋ねていたことだった。


 攫われていたのがたとえ数人であったとしても、騒ぎや噂にならないのはおかしいのではないか。しかも今現在、この伝承は村や市にはあまり広まっていないではないか。

 こんなことが続けばいずれ人々は疑問を感じ始め、原因を探すことで大門家にたどり着くはず。そこで犬神様の伝承を知り、村や市全体で犬神様を崇めるに至る。これが違和感のない筋書きであり、犬神様にとっても良いことなのではないだろうか、と。


 そしてその度に、祖母は呆れた顔である話を繰り返した。怜治はその話を、四人に向けて納得してなさげに、もじもじと話した。


「犬神様はさ、猿神に狙われた人間をここに連れてきて守ってるって言ったでしょ。解放されるのは猿神に狙われなくなってからだって。でもね、おばあちゃんの話では、解放してもいいくらいに狙われなくなったとしても、何かのきっかけがあればまたすぐに猿神に見つかっちゃうんだってさ。

 それくらい猿神は、ねちっこい。だから犬神様は解放した人とその人に関わる人間達に、権能を使って犬神様のことを少しずつ忘れさせてるんだ。それで騒ぎにさせずに、猿神にもバレないようにしてるんだって」


 修は「でも―――うーん」と疑念が言語化できない様子で、眉をしかめて考え込んでいた。心美以外の全員が、既に思考停止しかけていた。


「怜治君、その話少しおかしいわ。なら、なぜ貴方の先祖はこの話を広めることができたのかしら。たとえ信仰自体はそれ以前にあったとしても、犬神様に攫われて匿われ、安全だと判断されたら解放された、なんて話、今の話では口外できるはずないじゃない。

 ―――まさか、そうやって忘れさせるようにしたのは、貴方の先祖が言いふらしてからだったりするのかしら。だとしたら、貴方の先祖は―――」


 話ながら考えをまとめていた心美は、途中であることに気付いてしまったが故に、言葉を詰まらせた。

 怜治は冷静に心美に続けた。


「そうだよ、僕の先祖は犬神様に解放して貰った後で、猿神に喰われたんだ。だから、それ以降犬神様は解放してからも権能を使い続けるようになった。全部は僕らのためなんだって」


 心美の深呼吸の後、そこにいた誰もが口から言葉を発せないでいた。


「ごめんなさい、こんな空気にしたかったわけじゃないんだけど―――」

「いや、いいのよ。気にしないで。聞いたのは私たちだもん、ね、修君」

「ああそうだ、俺らもこんな話、怜治に会わなかったら一生聞けてなかったかもしれないんだ、ありがとうな」


 心美と修が二人がかりで怜治を囲んだ。頼れる二人のぬくもりが怜治を包む。その瞬間、怜治の頭が少し揺れた。


「あら、そうだよね、怜治君が一番年下さんなの忘れてた。疲れちゃったよね」

 心美が肩にもたれかかっている怜治の頭を撫でる。怜治は心の中で母を思い出していた。

「心美、寝かしといてやってくれるか。俺らは先水浴びてくるからさ」

「はあい、いってらっしゃい。気をつけてね」


 心美は修と夫婦張りのやりとりを見せると、三人に小さく手を振った。その揺れる手を薄れる瞼で見続けていると、それがやがて振り子のようにも見えて―――

 

 気付くと怜治の視界は暗闇に包まれていた。




 夢の中で怜治は獣の匂いを嗅いでいた。身震いしそうになるような、濃い獣の匂い。気分が良くなるようなものではなかった。

 

―――こいつは大門の所の子だ、私を信仰している、あの大門の。間違いない


 怜治の耳にしゃがれた声が響く。それは金属音のように耳障りが悪く、怜治は顔を歪めていた。


―――猿のやつめ、よりにもよって大門の子を所望するとは。なんてやつだ


 なんだ―――猿? 猿神のことだろうか。怜治は目を覚まそうと身体をよじる。しかし夢だからか身体の感覚がない。何が起きているんだ。


―――づけろ


 意識の中で暴れる怜治の頭に、同じ単語が何度も繰り返されている。つけろ―――? 上手く聞き取れない。怜治は聞きたくもない音に耳を凝らした。


―――続けろ


 続ける? 何をだ、何をし続けろと言うんだ。


―――信仰し続けろ。信仰だ。続けろ続けろ信仰信仰信仰続けろ続けろ


 突如耳が割れるほどの音量が怜治を襲った。信仰―――わかった、分かったからやめてくれ、耳が持たない。いたい、いたいいたい。何を願っても音は止まない。

 やめろ、お前は善良な神じゃないのか。人を助ける神じゃないのか。なぜこんなことをするんだ。


―――続けろ続けろ信仰信仰信仰続けろ続けろ続けろ続けろ信仰信仰信仰続けろ続けろ続けろ続けろ信仰信仰信仰続けろ続けろ続けろ続けろ信仰信仰信仰続けろ続けろ

 

 抵抗もむなしく、そのまま怜治は気を失った。




 ある夜、大門家の裏庭で大きな音が響いた。どこかの屋根が落ちるような、そんな轟音。寝る準備を進めていた老婆は、不安で外まで足を運んだ。

 正面玄関で靴を履き、裏に回る。裏の開けた場所には畑が広がっていた。その端に、何かがだらんと垂れている。それは布のようにも、小動物のようにも見えた。


 老婆は慎重に、その物体に近付く。数秒後、老婆は目を見開くことになる。


「あんた、こんな所で何を―――それよりも今は救急車、いやでも外傷はない。まずは家に連れて帰るのが先決だねえ―――ってあんた、怜治じゃないかい。どうなってるんだ、これは、もしかして、そんなまさか」


 怜治の薄れた意識が最初に捉えたのは、そんな焦った祖母の声だった。


   *


「えぇ、そこで帰ってくるんすか」


 阿久津は口を開けてぽかんとしていた。気の抜けたその姿に怪訝な顔を向けていた土御門も、内心は阿久津と同じような心境だった。


「なんだ、なんか文句でもあんのかよ。俺にどうこうできることじゃなかったんだ。それは話を聞いてても分かるだろ」

「いやまあそれはそうなんですけどね―――」


 そんな阿久津に舌打ちとため息を添え、怜治は話を続けた。


「俺が一番訳が分からなかったし、彼らのことだってめちゃくちゃ心配だよ。でも確かめる手段がない。どうしようも、ないんだ」

「―――少し、いいですか」

 

 うなだれる怜治の顔を、土御門が覗き込んだ。


「今の話を全て聞かせていただいた上で、私から二つ質問があります。宜しいでしょうか」

「あぁ」怜治はぶっきらぼうに吐き捨てる。土御門は淡々と続けた。


「一つ、なぜ怜治さんは未だにここまで鮮明な記憶を持っているのでしょうか。攫われたのなんて何十年も前ですよね、伝承が本当なら、既に当人である貴方も、お婆さまも、記憶を失っているはずです。それがなぜまだここまで覚えてられているのか。


 二つ、なぜ怜治さんはそこまで犬神様を恨むんでしょうか。突然攫われた、変な場所に閉じ込められた、仲間を舐められた―――色々されたことはあっても、犬神様が人を食べていたり、仲間を傷つけたという事実は今のところないわけですよね。

 つまり、貴方がこんな経験をした上でも、犬神様の本性は伝承通りという可能性も十分にあるわけです。それでも貴方は犬神様が大嫌いだとおっしゃる、その理由をお聞かせ願いたいのです」


 土御門は阿久津のメモを横目で見ながら、怜治に尋ねた。怜治は具合が悪そうな顔をして、どこか違う方向をにらみつけている。


「記憶が残っている理由は、わからんとしか言えん。ただ俺とババアが犬神を信仰している最後の村人だってのは確かだ。今ではもうあの伝承も村人たちには全く知れ渡ってないからな。

 だから俺たちにはより色濃く伝承を残して貰うために、あえて記憶を残したとも考えられる。これで俺たちの一族はより一層、犬神の存在を信じることになるからな。こんなん全部憶測に過ぎないが、俺はそうだということにしてる。


 んで、俺が犬神を嫌ってる理由はだな―――なんとなくそんな気がするからだ。それだけか、と思っただろ。でもこれは実際に体感したやつしか分からない感覚なんだよ。あれは、人の味方じゃない。俺の全部がそう言ってるんだ。彼らも、きっとあの後食べられたと思ってる。

 試しに調べてみろよ、俺が出した名前の少年少女を。まあ、見つからねえだろうけどな」


 怜治は半ば理解して貰うのを諦めているようだった。阿久津と土御門は顔を見合わせて、彼の事情聴取の終わりを確認し合った。


「なるほど、ありがとうございました。思い出したくなかっただろう記憶まで掘り返させてしまって、申し訳なく思っています。でも全て、非常に貴重なお話でした。後日何かお礼を―――」

「いいよ、もう俺らに関わらないでくれたら、それで。後お前ら、この後どうせ祠まで行くんだろ。場所分かってんのか」怜治は無愛想に土御門の言葉を遮った。

「はい、以前お伺いしたときにお婆さまに一度案内していただいたので、多分大丈夫だと思います。ですが、改めて案内していただけるのなら、それはそれでありがたいですね」


 土御門は愛想笑いを浮かべて怜治に交渉していた。怜治はそれがなんとなく分かっているからこそ、底が見えない土御門のことを好きになれずにいた。


「わかったわかった。連れてってやるから、何か準備があるならちゃっちゃと済まして正面玄関まで来い。急げよ、あんまりババア抜きであそこには行きたくない―――」

「何をいっておる、祠の管理すらしない薄情者が。警察の方々、祠に行きたいのでしょう? 私についてきなさいな。ちょうど掃除やらお供えやらをしに行こうと思っていたんだよ、ほら、おいでくださいな」


 音もなく背後に迫っていた老婆に、三人は心臓が口から出そうになっていた。どうやら怜治の背後から少しずつ近付いていたようで、特に怜治は老婆に対する気味の悪さが顔からにじみ出ていた。


「チッ、残念だったな、あんたら。こんなのが案内役だなんて。あんたも案内したいなら勝手にしろよ、俺だって行きたいわけじゃない。あんな祠、死んでも管理なんてするかよ」


 そう言うと怜治は決まりが悪そうに踵を返し、屋敷へと消えていった。阿久津と土御門からすると彼の言うこともわかる反面、この老婆にも聞きたいことがあったこともあって複雑な心境だった。

 そんな二人を見上げ、老婆は目線を残しながら二人に背を向けた。


「あれの言ってたとおり、準備ができたら正面玄関に来てくださいな。私も掃除用具やらなんやらを準備するからね、先に準備が終わったら少し待っていておくれ」


 老婆がそのまま屋敷に入っていったのを確認して、残された二人は急いで車に戻った。土御門はカメラや新しいボイスレコーダーなどの記録器、阿久津は警察犬の用意を急いだ。


 犬神の祠。もしも犬神とやらのアジトがそこ付近なのだとしたら、きっと警察犬の鼻が役に立つ。しかもこちらには二つも匂いの元がある、勝算は低くないだろう。阿久津は少し期待を抱いていた。




「お待たせして悪いね、如何せん前回の掃除から日が空いてしまって、今回は少し力を入れて祠を掃除したりしなきゃなのさ。だからあんたらが来てくれてちょうど良かったよ、手伝ってくれるだろう? 嫌とは言わせないよ」


 老婆が口角を上げながら二人がいる玄関に歩いてきた。両手には掃除用具がいっぱいに入った桶と、もう片方の手にはお供え物が詰められていると思われる紙袋を下げていた。

 それを見て土御門が手を差しだし、その二つを肩代わりして両手に持った。阿久津が「俺が持ちますよ」と土御門に小声で詰め寄ったが、土御門は警察犬のこともあるから、とその申し出を断った。


 警察犬はというと、依然として阿久津の足元で舌を出して利口に座っていた。


「ふふふ、それじゃあ、行こうかね―――おや、そのわんこも一緒かい? いいねえ、犬神様も喜ばれるかもしれないねえ」


 老婆に撫でられて、警察犬もまんざらでもなさそうに目を閉じ、老婆の手に鼻を当てていた。




「そこを右に曲がって、山道に入るよ」

 

 家を出て車道を歩いていると、ふと老婆が先を歩いていた土御門に指示を出した。土御門の後ろに老婆、最後尾に阿久津と警察犬という布陣だった。


「そうでした、以前もこんな木の中を通っていったんですよね。段々思い出してきました」

「そうだろう、そうだろう。大変だけどね、幸福なことなんだよ。なんてったって我々だけに課せられた使命だからねえ」


 ふり返りながら作り笑いを浮かべる土御門に、老婆は満足そうに答えた。


 そしてその山道を少し歩いていくと、三人は意外にもすぐに開けた空間に出た。草木が生えていないわけではないが、周囲よりは明らかにその量は少なく、過去に整えられた形跡が残っている。そんな日光が差し込む空間の真ん中に、祠はあった。


 祠は成人男性より少し高い位の高さで、横幅は阿久津が手を広げた長さよりも短かった。

 初めて来た阿久津からすると、なんだか拍子抜けするようなサイズ感に見えた。


「ほら、着いたよ。ここが、犬神様の祠さ。私たちの守り神の権能は、ここから生まれてる。どうだ、力を感じるだろう。ふふ、ふ」


 力説する老婆の横で、警察犬は阿久津の周囲をくるくる回っていた。

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