第五話

 玄関へと向かっていた所を引き返し、二人は再び屋敷の中を探索し始めた。近くで脚を擦るような足音はしない。先ほどのお婆さんは未だにあの部屋にいるようだ。


 廊下を少し歩いたところで、土御門は立ち止まって無線を手にした。


「一度分かれよう。入り口で見た感じ、この屋敷は全体を見ると広く見えるかもしれないが、実際に使われている所はそんなにないはずなんだ。だから手分けすればすぐ見つかると思う。対象を見つけたらコンタクトを取る前に、すぐ場所を報告すること、いいね」


 阿久津は黙って頷き、それを合図に二人は別々の道を捜し始めた。




「台所―――? これはさっき来た台所かあ? いや、なんかさっきより汚いな、間違いない。んーこれは絶対変なところ来ちゃってるなあ」


 阿久津は周囲を雑に見回した。


 洗い場として使われていただろう水場は垢と錆で赤黒くなっており、地面には表面に何かが浮いている調味料が乱雑に並んでいる。食器棚にもまばらにしか食器は入っておらず、部屋の中心を陣取っているテーブルには分厚い埃とねっとりとした油のような層ができあがっていた。


 きっとここは、さっき土御門さんが言っていた"今は使われていない場所"だ。阿久津は小さくため息をついた。


「はあ―――こんなとこにいるわけないもんな、もしいたら逆にびびるわ、何してんねんってなるもん、怖いもん」


 阿久津はブツブツいいながら台所を出て、再び辺りを見回した。


 とりあえず、外に出るのが良さそうだ。それでもう一度綺麗な所から中に入って、探索を続けよう。阿久津はいくつか廊下を抜け、外に繋がっていそうな扉を探した。


 歩けば歩くほど、この屋敷の複雑さと広さに目を見張る。記憶力に自信がない阿久津でも、自分が何度も同じ場所を行き来していることはなんとなく分かっていた。

 阿久津がふらふらと歩いていると、ふと目をやった先に少し先に床の境目があり、石でできた床から繋がっている小さな木の扉を見つけた。そこには外に出る用の履き物がいくつか並んでいた。

 

 阿久津は適当に自分の足に合いそうな黒い履き物を履いて、扉を開けた。


 扉の外は一面草木で覆われており薄暗く、一番最初にみえたのは阿久津が扉を開けたことで巣を壊されたであろう巨大なジョロウグモだった。

 小さく舌打ちしながら草木をかき分けると、茂みの奥に開けた場所があるのが目に入った。そこには物干し竿のようなものが立っており、そこには誰かが大きなシーツを干しているような人影も確認できた。


 阿久津はすぐさま無線を取り出した。


「こちら阿久津。土御門さん、裏です。裏庭みたいなところに物干し竿がありますので、そこまで来てください、どうぞ」

「こちら土御門、了解、以上」


 阿久津はそのまま草木をかき分けながら、その開けた場所まで一直線に向かった。時々目の前をとんでもないスピードで通り過ぎる昆虫に心身を攻撃されながらも、阿久津は歩みを止めなかった。

 俺、虫嫌いなのに―――という本音はこの村に来てから何度も飲み込んでいる。もう慣れっこだ。そう自分に言い聞かせていた。


「あんた、こんなところで何してるんだ。しかもなんでそんなところから来てる」

 男は背丈の高い草木の合間から人が出てくるのを確認し、内心ほっとしていた。彼は姿を確認するまで、阿久津を獣か何かかと思っていたのだった。


「へへ、それが貴方にお話を聞きたくてですね。少しばかり探していたんですよ。だって貴方どうせ、我々が彼女の話を聞き終わって勝手に帰るまで、我々の前に姿を現そうとしなかったでしょう? だからこっちから探しに来たんです。

 ちょっとお時間宜しいですかね、お孫さん」


 男は怪訝そうに阿久津を睨み、その後で大きくため息をついた。


「チッ、好きにしろ。どうせもう一人もここに来るんだろ、なら今のうちに集合場所の変更を伝えろ。裏の畑だ、話ならそこで聞いてやる―――後その靴? というよりスリッパみたいなの、多分うちのだろ。汚いから今のうちに正面玄関で履き替えてこい」


 男はそういうと一足早く畑の方へと向かっていった。




「勝手に家の中を探し回ってしまい、大変申し訳ございませんでした。我々はお孫さんにお話を聞かせていただきたいという一心でして、決してそれ以外のことで家を荒らし回ったわけではございませんのでそこは何卒ご理解を」


 土御門が頭を下げると、男は舌打ちをしながらそっぽを向いた。


「いいよ、もう。別に警察がなんか盗ってくと思ってねえし、第一ここには盗るもんもないし。後俺の名前は怜治れいじだ。大門だいもん怜治。お孫さんって呼ぶな、俺はあのババア嫌いなんだよ。あいつの孫って言われるだけでサブイボ立つわ」


 大門―――阿久津はその名字を頭で繰り返した。標識が崩れて読めなくなっていたのと、土御門からもたまたま聞いていなかったこともあって、阿久津はこの人達の名字を今初めて聞いたのだった。

 

「申し訳ございません。では改めて怜治さん。少し犬神様の伝説について、お話を聞かせていただいても宜しいでしょうか」

「それ以外に俺に聞くことなんて無いもんな―――ああ、わかったよ。でもこれが最後だ。だから二度と、聞きに来るなよ。俺だって話したいもんでもないんだ」


 怜治は右手で左手の肘を握りしめ、そこらの植物を片っ端からにらみつけていた。その姿はなんだか何かを怖がっているようで、同時に何かに見られているような素振りにみえた。


 土御門は一言「ありがとうございます」というと、話を聞くためにボイスレコーダーを取り出し、阿久津にいつも通り合図を送ってメモ帳の準備をさせた。


「で、お前らはあのババアにどこまで聞いたんだよ。あいつに何か吹き込まれたから、俺に話なんか聞きに来たんだろ」


 怜治にそう言われると、阿久津はメモ帳を少しめくり、先ほどお婆さんから聞いた内容を大まかに話した。その途中途中にも、怜治は舌打ちをしたり「だから違うってのあのクソ」などと吐き捨てていた。


「なるほど分かった、大まかには聞いてるんだな。どれもこれもあいつの主観だらけのクソ話だけど、事実に関してはそれで間違いねえよ。

 俺は、小さいときに犬神とやらに攫われた。それから命からがら逃げ切った。今もそれに怯えながら生きてる。俺は犬神とやらが大っ嫌いだ。これが、事実。それ以外はゴミだ、忘れて良いぞ」


「それは一体怜治さんがいくつくらいのことなんでしょうか」

「四、五歳とかかね、小学校よりも前ってことは確かだな。正直年齢は曖昧だけど、そんな大事か?」土御門の質問に、怜治は目を細めて眉をしかめた。


 土御門は「はは、情報は少しでも多い方がいいので―――」と具合が悪そうに笑っている。阿久津はこの永遠に態度が悪そうな怜治に対して若干の呆れを感じ始めていた。


「では、早速当時の様子を覚えている範囲で、できる限り細かくお聞かせ願えますか」


 土御門がそう言うと、怜治は小さく息を吐いた。それを皮切りに怜治は覚悟を決め、手をポッケに突っ込んで二人の方を向いた。


「俺は、あのときもちょうどこの畑にいたんだ。両親と一緒に、畑になってたトマトやらなんやらを見て回ってた。今じゃこんなぐちゃぐちゃな畑だけどな、昔は綺麗だったんだぜ。ちゃんと植物を育てる環境ができてた。それら全部、俺の両親がやってたんだ。二人が畑にいる姿が、俺はなんか好きでさ。だからその日も『僕も連れてって』ってごねて、連れてきて貰ってたんだろうな。


 そうやって二人に色々と見せて貰ってたらさ、突然あの木の裏―――ほら、さっきお前あの扉から出てきたんだろ? そのとき正面にでかい木見えなかったか、ほら、あの木だよ。その木の裏で物音がした気がしたんだよ。ガサガサっていう、狸とかがいるんかなって感じの動物っぽい物音が」


 怜治が指で差す木は既に大きく育ちすぎており、先端の枝は家にも差し掛かりそうなほどだった。阿久津が扉を開けたときに薄暗く感じたのは、その大木がそこら一帯に影を落としてしまっていたからに他ならなかった。


「その物音がした方向が気になってさ、俺は二人を連れてそっちに行こうとしたんだ。でも両親はその物音が聞こえてなかったっぽくて、俺は尚更自分が聞いたものの正体が気になっちゃったんだよ。それで二人をそこまで連れて行ったら―――その、なんだ。死骸があったんだよ、でかめの猫の死骸が。


 俺はショックで、後ずさりすることしかできなくて、両親が大丈夫、大丈夫って励ましてくれてたんだ。でも、俺怖くてさ。その死骸の惨いことったらなくて、ほんとボロボロだったんだ。気を抜くとすぐに吐きそうになっちゃうくらいに、とにかく不気味だったんだ」


 怜治は肩を上げ、表情をこわばらせた。何十年経っても、その光景が脳から離れないらしい。


「その猫の死骸は、まるで何かに食い荒らされたような状態、でしたか」


 阿久津がぼそっと尋ねると、怜治は瞳孔を開いて阿久津を睨んだ。そして小さい声で「あぁ―――そうかもな」と呟いた。


「俺がそんなだったから、背中をさすってくれてた母さんと、先導してくれた父さんと一緒に家に帰ろうって話になって、すぐに引き返したんだよ。それで歩いてたときに―――もう今でも訳がわかんないようなことが起きて。


 父さんが目の前から消えたんだ。ホントにぱっと、電気が消えるみたいな感じで。でも次の瞬間、父さんは家の方向に飛ばされたんだってことが分かった。視界にぐったりした父さんが一瞬写った気がしたから。

 そっからは俺も記憶が飛んで、気付いたらいつの間にか見たこと無い山奥よ。服ともいえないような布を身体にまとった人間数人と、鹿だの猪だのの死骸がゴロゴロ転がってるような空間。

 

 匂いも最悪だった、鼻が曲がるかと思った。人間はどいつもこいつも生きてるのか死んでるのかもわからないようなやつばかり。動きもしないやつ、一カ所に集まって集団で震えているやつ。まともに話せるやつなんていなかった」 


 この吹き飛ばされた父の話、山奥の空間の話。どちらも魚谷との共通点が多い。阿久津と土御門は互いに目を合わせた。阿久津がメモ帳の"魚谷ちゃん"の項目を探しているとき、同時に土御門も聞いた話を思い返していた。


 彼女はこう言っていた。

 犯人は大きな犬の怪物。その空間には自分以外にも何人も人間がいて、全員その怪物に食べられるのを待っている。そしてその犬の怪物はとても大きく、超常現象じみたスピードや爪を持っている。


 彼女はあるタイミングで恐怖が理性を超え、食べられる恐怖やその怪物に対する恐怖が、逃げたら殺されるかもしれないという思考を凌駕した。足を止めずに走り続け、ひたすらに山を彷徨っていたら、いつの間にか阿久津の元にたどり着いていた。その時間は無限かと思えた、と。


「それで、その後は―――」阿久津もある程度整理ができただろうことを確認し、土御門が続きを催促した。


「ああ、そっからは地獄だった。今でも忘れないさ」


     *


 怜治の落ち着いた身体が最初に感じたのは、寒さだった。


 辺りに気がいっていたせいだろうか、目線を落とすと怜治は顔をしかめた。周りの人間同様、自分の服もボロボロになっている。片腕の袖はもう数本の糸でしか繋がっていないような状態だった。

 そして服の代わりにドロッとした透明な液体が怜治の身体にへばりついていた。それがまた匂いがきつく、怜治は少しでも払おうとせっせと手を動かしていた。


 そして理解した。彼らは何かを怖がっているのもあるのだろうが、きっと寒さをしのぐためにも身体を寄せ合ってるんだと。


 死体と人間だけがいる空間。そこだけは木々ではなく大きな岩が隆々と存在しており、そこには苔がへばり付いていた。少し目線を外すとそこは一面の森であり、木々の先に見えるのはこれまた木々しかなく、唯一開けて見えるのは空だけだった。


 青空が覆っている今でさえ霞と木々によるこの見晴らしの悪さなのだ、夜になったら尚更不気味さが増すのだろう、と怜治は内心不安になっていた。


「あ、ああ、あまりうろちょろするなよ、あれが来るかもしれないだろ」


 怜治を呼び止めたのは大きな岩の近くで身を寄せ合っているうちの一人だった。声からして自分よりも年上だろうとは思ったが、どうやらそこまででもないらしい。小学校高学年、十歳前後といったところだろうか。自分よりは年上だが、大人とはほど遠い容姿をしている。


 彼が呼び止めたのに同調して、周りの数人も力なく首を縦に振り続けている。そこには怜治くらいの年齢から彼くらいの年齢の男女が目を見開いて座っていた。


「ごめんなさい、でもここどこなの? 僕、どうしちゃったんだろう」

「うるさい、とにかくこっちこい。ほら、早く」


 彼は怜治を雑に手招き、その押しくらまんじゅうの中に呼び込んだ。彼らと身を寄せ合うと、人肌の暖かさを感じて少し身体の小さな震えが収まっていくのを感じた。その集団は彼を含めて子どもたち五人で作られていた。


「お前、どこの子だ。猿山か、それとも日柱か」

「猿手山の家に住んでる大門怜治っていいます。どちらかというと日柱村側かな」

「お前も日柱村出身か―――ここにいる全員日柱村から来てるんだ、だから多分―――この山は猿手山じゃないかと思ってる」


 少年はそう言って全員の顔を見た。男女問わず、全員何かきっかけがあればすぐ泣き出してしまいそうだった。


「皆はいつからここにいるの? 僕はついさっき来たんだけど」

「会話ができるほど理性があるやつでいうと、最長でここに来てから一年半、とかだな。俺はもうすぐで五ヶ月、それ以外はまちまちだが、多分一、二ヶ月に一人ずつくらいのペースで人間が攫われてんだ。多分年齢は問わず」

「一年半!? こんなところに?」


 つい大きな声を出してしまった怜治を先ほどまでの少年がはたいた。そして頭をつかんで全員で頭を伏せた。怜治の心には全員の震えが恐怖と同時に流れ込んだ。


「ご、ごめん―――」

「マジで次やったらお前だけ放り出すからな、俺たちを巻き込むな」

「まあまあ、来たばっかなんだもんね。怖いし心配よね。しかも貴方、この中でも一番小さい。まだ小学校にも入ってないんでしょ?」


 ゆっくり頭を上げながら怜治に微笑む彼女は、どこか達観したような表情を浮かべていた。そんな彼女も例外なく服はビリビリに裂かれており、着ていないも同然だったので怜治は目線に困っていた。


「私は心美ここみ。さっきしゅう君が言ってた一年以上ここにいる子ども。年齢は十一歳。ここに来たのは十歳の時。あ、しゅう君ってのが、彼ね」


 そう言って心美は修を指さした。修は「ああ、まだ名前いってなかったか。まあ焦ってたからな」と小さく頭を下げた。


「修だ、よろしく。年齢は今の心美と一緒。んで、さっきからほぼ話してないこいつらが美代みよれん武史たけしだ。これから長くなるだろうから、覚えてやってくれや」


 修がそれぞれの頭をぽんぽんと優しく叩きながら怜治に教えると、彼らはそれぞれ「よろしく―――」「うちあんまり声だしたくないから、話しかけるのは最小限でお願いね」と小さな声で各々の自己紹介を告げた。


「それでさ、心美さんはさ、一年もどうやって生きてるの? まさかあの猪とかを食べるなんてことないよね」


 怜治の言葉に、少年少女はそれぞれが目を伏せた。しばらく沈黙が続き、とうとう修が口を開いた。


「腹が―――空かないんだよ。喉も渇かない。理由はわからないんだ。俺たちにも、何が何だかわからないんだよ」

「トイレは―――?」怜治が素朴に尋ねると、修は少し微笑んだ。

「それがな、トイレはしたくなるんだよ。大小どっちも。不思議なもんだよな。

 俺らも皆、最初は食料を探したよ。でもこの森から出られないことに気付くと、絶望してしばらくなにもしなくなる。その時気付くんだよ。自分の中に食欲とかがなくなってることにさ。」


 修はそう言いながら地面に転がっている大人たちや猪たちの死骸を指さした。


「ほら、あそこに倒れてる人いるだろ。あの人な、最近自分で自分の舌をかみ切って死んだんだよ。死ぬ前に大声で『俺はー死ぬぞー』って言ってた。それと隣の、あの動物たちの死体の山。見てみろよ、なんか綺麗すぎやしないか。

 それに俺たちの身体。土や泥以外の汚れ―――例えば垢とかが出ないんだよ。頭もかゆくならない。おかしいと思わないか」


 怜治は修が何を言っているのかよく分からなかった。彼らの身体はともかく、死体が綺麗なんてことあるはずない。それよりも大人の人が自殺したという事実のほうが、よっぽど怜治の頭の中を占領していた。


「これはある程度ここに長くいる俺たちの考えだけどな―――多分ここにいる生物の身体機能は、冷蔵庫の中の食料品みたいに保存されてるんじゃないかと思うんだ。痩せ細らないように、それでいて汚れたり腐敗したりしないように。加えて身体の中の老廃物だけは出させて、身体の中を綺麗な状態に保たせてるんだ」


 そう話す修は、何か嫌な想像をしているようで段々と顔が引きつっていった。

 冷蔵庫―――? 食料品を腐らないようにするあの箱とこの空間が同じだというのか。しかも都合良く人体や死骸を綺麗に保つようにする機能までついていると。


 それじゃまるで、僕らが何かにとっての食料みたいじゃないか。


「なんでそんなことになってるの、ここは誰にとっての冷蔵庫なの」

「ああ、一番大事な話がまだだったな。この場所にはな―――」


 修の言葉の最中に、女の子の「ヒキュッ」という小さな悲鳴みたいなものが僕らの間に響いた。


 その声の主が向く先には大きすぎる影が落ち、影の終着地点には先ほどまでそこにはなかった毛むくじゃらの物体が鎮座していた。


 座っている状態でも成人男性の二、三倍。全体像でいったら八倍ほどはありそうな巨大な犬―――というより狼のようなものがこちらを見つめている。

 毛並みは乱れ、所々に赤黒い血痕のようなものが着いており、全身の色は汚れた雑巾のようになっている。四本の太い脚は先端に大きな爪を生やし、地面に横たわっている尻尾はグシャグシャでまとまりがなくても、確かな長さがあるようだった。


 それよりも怜治が目を離せなかったのはその顔だった。皺だらけの顔にずらりと並んだ牙。目は目一杯開いており、この空間にいるもの全てを視界に入れているようだった。飛び出た鼻から付け根まで裂けた口はだらしなくよだれを垂らし、どこか口角が上がっているように見えた。


 怜治たちは先ほどよりも結束を強め、全員で全員を抱きしめていた。先ほどまでは色々と教えてくれていた修も、今は顔の筋肉が痙攣しそこには涙が伝っていた。


 心美さんはこんな化け物がいる環境に、一年半もいたのか。しかもあいつはいつ、どこに現れるか分からない。そんな恐怖の中ここにしばらく居続けるなんて、怜治からしたら今にも逃げ出してしまいたくなる未来だった。


 その点心美さんは凄い―――怜治がそう思ったときだった。心美さん―――? 皆で身体を寄せ合っている中に、先ほどまでのぬくもりが一つ足りないような気がしていた。


―――心美さん!!!


 怜治は心の中で叫んだ。怜治以外の全員は恐怖でそのことに気がついていない。それでも怜治は顔を上げて目を凝らし、化け物のすぐ下を見た。そこには力なく上を見上げる少女の姿があった。

 いつの間に。ついさっきまで僕らがずっと隣にいたはずだ。先ほどの小さな悲鳴も、きっと心美のものだったのだろう。その声は確かに僕らのすぐ隣から聞こえた。


 それを、あんな一瞬で連れ去るなんて。そう思った瞬間、怜治はあることを思いだした。そうだ、あの時と一緒だ。となれば、僕をここに連れてきたのは、きっとあいつだ。


 怜治は小さく頭を振った。

 今はそのことじゃない、心美さんが危ない。あれだけのことができる怪物だ、心美さんを食べるなんて一瞬だ。今助けないと、僕らは目の前で心美さんを失うことになる。


 でもどうすればいい、当然勝てる相手じゃなければ、不意打ちが通用するような相手ですらないような気がする。怜治は生まれてから一番焦っていた。頭が熱くなり、思考がまとまらない。周りを見たって小さな木の枝やら石くらいしかない。


 こんなものではどうにもならない―――怜治は絶望した。その間にもあの化け物の口は心美に近付いていく。

 

 いやだいやだいやだいやだ。怜治は時間の流れが遅くなるような錯覚に陥っていた。

 その瞬間、気のせいか、心美の頬から滴が落ちたようにみえた。それでも彼女の身体はどこまでも力が抜けており、膝立ちのまま一切動く気配がない。

 そんな彼女の身体に、化け物の舌が近付いた。そして彼女の身体に舌が触れる。


 怜治は目を見開いて、その光景を眺めていた。巨大な犬の怪物は、依然として心美さんの頭やら身体やらを雑になめ回している。その勢いに心美さんは身体ごと振り回されていたが、身体に傷ができるようなものではなかった。


 何を―――しているんだ? 怜治はとうとう分からなくなっていた。そして十数秒経った後、怪物は舌を引っ込めて顔を上げた。心美さんは地面に横たわっている。


 喰われるのか―――怜治が手に力を入れた途端、怪物は立ち上がって身体の方向を変えた。そうして木の根元で倒れていた、自害した大人の身体に近寄り、匂いを嗅いだ。少しするとその死体を咥え、どこかに歩いて行った。


 どこにいくのか気になった怜治は少年たちから離れ、怪物の後を追った。するとそこには既に何もおらず、怜治達を覆う霧も何事もなかったかのように静かに流れていた。


 何がどうなってるんだ―――顔をしかめる怜治は、後ろで何かが動くような音がして急いで後ろをふり返った。


「あれえ―――私、生きてるの?」


 

 

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