第二話

「どうしてだろう、名前、思い出せない」


 少女は自分の顔や頭に触れながら考え込んでいた。

 その様子を見て土御門は「鏡ないか、なんでもいい、自分の顔が見えるものならなんでも」と阿久津に聞いた。阿久津は急いで立ち上がり、洗面所やらオフィスやらの引き出しを片っ端から探した。


「大丈夫だ、君も色々と辛かっただろう。今は少し頭が混乱しているだけさ。きっとすぐ思い出せる」


 阿久津が「ありました!」と再び部屋に入ってきて、少女に優しく手鏡を差し出した。少女はその鏡で自分の顔をまじまじと眺めていた。

 ほんの数秒。部屋の空気は重く、事態は膠着状態だった。


「名字はね、なんか分かるの。魚谷うおたにだと思う。名前は―――うーん」

「無理しなくていいぜ、ゆっくりでいいんだ」

 阿久津の言葉で魚谷は少し落ち着いた様子を見せると、もう一度鏡の中の自分と向き合った。

「り―――さ、かな? いやりこかも。なんで? なんで名前が分からないのかな」


 頭を抱える魚谷を前に、警官二人も顔を見合わせていた。

 そして啖呵を切った土御門が「よし」と魚谷の方に再び顔を向けた。


「名字は魚谷で間違いないのかな」

「うん、それは多分大丈夫」魚谷は戸惑いながらも頷いた。

「それだけ分かっただけでも凄い情報さ、ありがとうね」


 土御門は魚谷の手のひらをとり、それを温めるようにしながら話を続ける。


「次に聞きたいのはね、君がどこに住んでたか、とかどの小学校だったのか、とかなんだ。元々いた場所について、何か覚えてることあるかな?」

 魚谷は再び黙り込み、その様子を見ている阿久津も息をのんでいた。


「うん―――覚えてる、と思う。でも住所はわかんないです、多分これは元々覚えてなかったんだと思う。思い出せない、ってよりは、さっぱり頭にないような感じだから―――けど小学校はわかります、猿山東さるやまひがし小学校です」


 土御門は阿久津にアイコンタクトを行い、それに気付いた阿久津はすぐにポッケから手帳を取り出し、今分かっている情報を殴り書いた。


「猿山東―――確か隣の市とうちの村の中間にある小学校だね」

「そうなんだ、じゃあここは日柱村?」

「おお、正解だ。今いるところは日柱村の日柱駐在所だよ」

 

 土御門は魚谷に微笑みながら、頭を回していた。


 この子が近場の小学校に通っていた、のならば、自ずと家もここから近いはずだ。きっと村の中にある保護施設に数日もいたら、張り紙でも呼びかけでもしてそれに気付いた家族が迎えに来るだろう。


 土御門が考えていた最悪は"彼女が遠くから連れてこられて、ここ付近の山中で拉致されていた"ということだったので、内心少し胸をなで下ろしていた。そうだった場合、彼女の記憶が定かで無いのが非常にネックになっていただろう。


 しかし、今彼女ははっきりと"猿山東"といった。これは確実な情報だろう。確かにこれも確証がある、訳ではないが、今ここで魚谷の勘違いを疑うよりも、近場の小学校である可能性を信じた方が違和感はない。


「ありがとう、これで魚谷ちゃんは無事、家に帰れると思うよ」

「ほんと―――?」魚谷は目を輝かせている。

「ああ、だからそれまで、数日だけ待っていて貰えるかな。それまではここ以外の場所で身を潜めることにしよう。大丈夫、ここと同じくらい警備のしっかりとしている保護施設を探すからね」


 土御門がそう言うと魚谷は露骨に心配そうな顔をしていた。きっと今の彼女にとって、この空間がなによりも不安のない安全地帯なのだろう、と二人は悟った。


「大丈夫だ、まかせな。そこに行くまでは俺が守ってあげるし、保護して貰った後だっていっぱい通ってやるよ。周辺で怪しい奴見つけたらぶっ飛ばしてやるし、安心していいぜ」

 

 阿久津は魚谷の頭を撫でながらそう言った。土御門もそれに合わせて「お、それは頼もしいなあ、彼は運動に関してはピカイチだからね」と彼を持ち上げた。 

 そんな二人を見て、少女は少し安心したような表情に戻ったようにみえた。


「これだけの情報があれば、一つ目の目標はすぐになんとかなりそうだ。後は僕らの方で保護施設を探してお願いするのと、君の情報の拡散かな。保護施設に関しては今日中に引き渡しができると思うよ」

「お、やったな。これで今日の目標のメイン達成だ」

 そう言って阿久津は魚谷に拳を向けた。魚谷も嬉しそうにそのグータッチに応じた。


「さて―――ここからは少し嫌なことを思い出す時間になるかもしれないが、二つ目の目標に移ってもいいかな」

 二人は土御門の雰囲気が少し変わった、ような気がした。それだけでさっきまでほのぼのとしていた空間に、突如緊張感が走る。

「君を拉致していた、その対象についての話さ」


 魚谷は一瞬覚悟を決めたかのようにみえたが、その直後にはまたもや感情が恐怖に支配されているようだった。顔がどんどんと歪んでゆく。


「わかるぜ、思い出したくないよな。あんなになるまで逃げたかったんだもんな」阿久津は椅子からソファーに移り、魚谷の隣に座って肩を抱き寄せる。

「ゆっくり、ゆっくりでいいんだ。話してくれると嬉しいな。俺たちは君を苦しめたやつをしょっぴきたいんだよ。君がこれから怖がらなくていいように、他の人が同じ被害を受けないようにさ。

 俺が隣についてる。だから一緒に頑張ろう」


 魚谷は目を閉じながら小さく「うん―――うん―――」と繰り返していたが、やがて意を決したように顔を上げた。


「二人は私を助けてくれて―――ホントに感謝してます。とっても頼りにしてるのも本当。でもいくら二人でも、あれに会ったらおしまい。私ももう一回会うようなことがあったらそこで終わり、だと思う。

 だからね、近づかない方がいいと思う。警察さんでも、あれにはきっと勝てないから」


「魚谷ちゃん。怖いのは勿論分かるぜ、捕まってたときもずっとそいつがバケモンにみえてたと思う。けど俺たちは訓練してきた警察だ。大丈夫、ちょっとの体格の差くらい屁でもないし、なんてったって俺たちは組織なんだ。

 今ここには俺と土御門さんしかいないけど、一本連絡を入れたら大勢の警察が味方になるんだよ」


 魚谷はそう話す阿久津の方を向いて、申し訳なさそうな顔を浮かべた。


「バケモンみたい、じゃなくて化け物なの。人間じゃないの。大きな犬、みたいな怪物。だから勝てないの、絶対」その目は二人に必死で訴えかけるようだった。


「おっけい、わかった。ありがとう。じゃあそれ以外にもいくつか聞きたいことがあるんだ、いいかな」しばらく黙って考え込んでいた土御門が魚谷に尋ねる。

「うん、二人があれを探そうとしないって約束してくれるなら」


 二人は一瞬迷いを見せたものの、すぐに二人で魚谷に小指を差し出した。

 

「わかった、約束するよ」

「俺も、約束する」




「どう思いますか、土御門さん」


 魚谷は二人の質問に一通り答えた後、昨日の疲れと心労からかもう一度眠ってしまっていた。

 二人は彼女が寝ている部屋の隣部屋で話し合っていた。土御門は保護施設を探すためにパソコンをいじっており、阿久津はその隣の椅子に座って机で何かを作っていた。


「彼女は犯人は人間ではなくって、大きな犬の怪物だと言ってましたよね。まあ確かにあの山は何がいるか分かったもんじゃないっすけど、そんな人を捉えて食う奴とかいますかね。しかも無傷で放置してたってのも気持ち悪くないですか、冬眠前の熊でもそんなことしないすよ」

「―――これはあくまで私の想像だが」土御門は少し調べ物の手を緩めた。


「犯人は獣のかぶり物をしている大男、とかなんじゃないかと思う。彼女はまだ小さい。大柄の男は私たちよりも更に大柄にみえるだろうし、それが獣のかぶり物をしているような猟奇犯だった場合、それはまさしく怪物にもみえるだろう、と思う。ただ」

「ただ?」阿久津が問い返すと、土御門は顔をしかめて考え込んでから言った。


「食べられる、という発言をしてただろう。さっきも。しかも詳しく話を聞いてみたら、周りには自分以外にも何人も人間がいて、それらも食べられるのを待っているらしいじゃないか。

 この話を聞くと、正直黒幕は人間だと思いたくないんだよね―――だって人間だった場合そいつは食人をしてることになるだろ。カニバリズムってやつをさ」


「でもそんな所を目撃したからこそ、そいつを人間じゃないと思った―――とかは考えられますよね。獣のかぶり物―――犬の怪物って言ってたしオオカミとかのかぶり物なのかな。

 ほら、オオカミのかぶり物をした大男が人を解体してる、なんて想像しただけでやばい絵面ですよ。俺だってそいつのことバケモンかなにかだと思う自信ありますもん」


「そうなんだよね―――そうなんだよ。ほんとにそれも彼女の勘違いであってほしいよ、そいつが食べてたイノシシを人間と思っちゃってたーみたいなノリでさ」


 土御門は柄にもなく頭をかきむしっていた。いつもの整っていた髪型が崩れていく。きっと魚谷が"被害者は自分だけじゃない"と語った点も、彼を追い詰めている要因の一つなのだろう。

 阿久津は人一倍人を救いたい想いが強い土御門だからこそ、自分の管轄でこれほどの被害が出ていた、という事実が一層彼の首を絞めているように感じた。


「でも人間だった場合、不可解なことも多かったですよね、彼女の話。汚れた大きな牙だの、ドデカい爪だの、超スピード的な話だの、これ完全に人間の特徴じゃないですよ。これ全部恐怖が生んだ錯覚で片付けられますかね」

「うーん、それは私も考えたよ。そいつが武器を持っていたから、それを爪だの牙だのとに見えたのかも、とかね。でももうこれに関しては阿久津君の言うとおり、本格的に妄想の域を出ないんだよね」

「そうっすよね―――」


 その後二人はしばらく黙りこくってしまった。それは二人とも自分の考えや彼女の話で頭がパンクしている、ということを自覚していたからだった。

 そのまま数分パソコンのタイピング音と少しの物音しか聞こえない時間が流れた後、土御門が「少し電話してくる」と部屋を出た。


 一人になった空間で阿久津は、自分の頭の中の靄を消すためにとにかく手を動かしていた。




「魚谷ちゃん。起きて、保護施設に行けることになったよ」

 

 阿久津が魚谷の肩を揺すると、彼女は目をこすりながら起き上がった。まだ瞼が開ききっておらず、気を抜くと閉じてしまいそうになっている。


「夕方にはなっちゃったけど、土御門さんが今日中に引き渡しできる保護施設を見つけてくれたんだ。俺たち二人の護衛もあるから、さあ、行こう」

 そう隣で励ます阿久津を見ても、魚谷は少し表情を曇らせていた。


「ここから出るの、ちょっと怖い―――いや、すごい怖い、かも」


 魚谷は合わせた自分の手を睨み付けていた。その身体と手は小刻みに震えているようにみえた。

 そんな彼女の左の手を、阿久津はそっとつかんだ。そしてその手を自分の元へと引き寄せ、彼女の手首に何かを巻き付けた。


「なに? これ」

「ミサンガだよ、糸とかひもとかを編んで作るやつ。俺みたいなガサツなのでも案外簡単に作れちゃうんだぜ、これ」

 そういいながら阿久津は、キツくならないように少し余裕を持って手首でミサンガを縛った。


「昔な、俺がなにかの壁にぶち当たったときとかに、よくおばあちゃんが作ってくれたんだ。このミサンガが切れたとき、あんたの願いが叶うからねって、それまで頑張れって言われてさ。

 こんな編み物にそんな力があるとは思ってなかったけどさ、俺はそんなおばあちゃんの想いが嬉しくてずっと手に付けてたんだ。そしたらさ、なんとこのミサンガが切れた年に警察学校を卒業できたんだよ。すごくねえ? 

 まあ偶然と言われちゃそれまでだけどさ、想いの力って凄いんだなあって」


 阿久津は魚谷に向かって微笑んだ。


「だからこのミサンガ、いつか君の夢が叶うまで付けといて欲しいな。俺からのお守りってことでさ」

「―――うん、ありがとう。大事にする。なんか強くなった気がする」

 魚谷の顔にはようやく少し笑顔が戻っていた。


「二人とも、準備できたかな。暗くなる前に送り届けたいし、少し急ごうか」 

 土御門が部屋の前から顔を覗かせている。さっきまで魚谷が外に出られるか心配していた土御門はそこにはおらず、そこには普段の何事にも動じない土御門巡査部長がいた。


「引取先はここから一番近い保健所にしたよ。歩きでもいける距離だけど万が一のこともある、僕が車を引っ張ってくるから、二人はまだこの部屋で待っててね。阿久津君、僕が着いたらすぐ出発できるようにしておいてくれ、頼むね」


 阿久津は魚谷の手をつかんで「はーい」と一緒に手を挙げた。その様子に安心した様子で土御門は去って行った。


 数分後、もう一度土御門が部屋に戻ったと同時に、三人で外へと向かった。


 さっきあんな話をしたとはいえ、やはり魚谷の歩みは遅く、表情も硬かった。阿久津が握っている彼女の手も、段々握力が強くなり、硬く震えていた。

 それに気付いていた阿久津と土御門の二人は、その不安が少しでも少なくなるように、いつもよりも若干胸を張って堂々としてみせていた。


 外は夕方ということもあり、日陰でできた暗がりは既に夜と言っていいほどの暗さをしていた。土御門は「うん、この暗さならやはり車を持ってきてよかった」と近くに停めてある車を指さした。


「あれで行くよ。犯人がどれだけ魚谷ちゃんを欲しがっていたとしても、流石にパトカーに近づいたりはしないだろうしね」


 土御門が遠隔で車の鍵を開け、車が「ピッ」という音と共に光ったと同時に、阿久津と手をつないでいた魚谷が完全に静止した。 


「い、いいいい、いる―――あいつが―――なんで」


 魚谷の身体は一気に震えが大きくなり、その場で阿久津に全体重を預けるような形になっていた。その瞳孔は開き、ある一点を見つめている。


 阿久津はすぐさまその方向を確認した。そこには確かに何か大きな黒い影があったような気がしたが、すぐにどこかの脇道に逃げていったようにみえた。

 何かの異変を感じた土御門も「どうした」と運転席側から二人の元へと戻った。


 その瞬間。阿久津は本能的に首を反対方向に回し、その対象を視界に入れた―――と同時に反射的に魚谷に覆い被さった。


 土御門は何が起きたか分からずにいた。見ていた光景は一瞬で変化し、魚谷に覆い被さっていたはずの阿久津は隣の石垣まで吹き飛ばされていた。

 土御門が観測できたのは痛々しい轟音だけで、視界で起きたことは理解が追いついていなかった。


「土御門さん!! あの子がいねえ!!」


 ボロボロのはずの阿久津から発せられた怒号で土御門は正気を取り戻し、すぐさま周囲の様子を確認した。あのスピード、車両か―――と思ったがタイヤ痕や砂埃の形跡は無い。


「だめだ、追いかけなきゃ。土御門さん、どこいったかみえましたか? あっちの方だとは思うんだけど―――」


 そう叫びながら端の方が崩れた石垣からなんとかして立ち上がろうとすると、その瞬間阿久津を大きなめまいが襲った。脚に力が入らず、片膝をついてしまう。立とうとしても、身体に上手く脳からの伝達が行かない。

 おかしい、飛ばされた時に頭への衝撃は腕を裏に回して流したはずなのに。


 気付くと阿久津はゆっくり横に重心が移ってしまい、身体が横転した。


 横たわってようやくみえた地面には、誰のものか分からない赤黒い血が広がっていた。

 

「阿久津!!!」


 阿久津の頭には、珍しく自分を呼び捨てにした土御門の声が何度も反響していた。

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