5-9 スタート地点

「我々は全国津々浦々の魅力を『花束とアンドロイド』を通して伝えられたらと思っているのです。綴やミオリと同じように、その土地土地とちどちの素晴らしい景色や優しい空気を実感していただきたい、と」


 言いながら、熊岡監督はちらりと渚の様子を窺う。

 渚は今、呆気に取られたような表情をしている。察するに部長の渚ですら『スタジオプリムラ』側の思惑を把握していなかったのだろう。実際問題、乃衣の頭も驚きでいっぱいだ。だけど同時に、とてつもなく大きなわくわくが募っていた。


「それは、全国津々浦々に『花束とアンドロイド』の聖地を作りたいということですか?」

「その通りです。将来的にはアニメを追体験するようなツアーを組むことができたらと思っていまして」

「なるほど……」


 渚はじっと熊岡監督を見つめ、考える素振りを見せる。……かと思いきや、口元に手を当てながらふふっと微笑みを浮かべた。


「それは本当に大きなプロジェクトになりそうですね」


 優しい声を零しながら、渚はどこか得意げな表情をしている。

 さっきまでポカン顔が嘘のようだった。でも乃衣には渚の気持ちがよくわかる。胸に灯る喜びは、驚きの感情をいとも簡単に打ち消してしまっているのだから。



「先ほど紹介してくださった中から四つ、綴とミオリが旅する聖地として採用させていただきたいのですが……よろしいでしょうか?」



 奈岐村は綴とミオリの故郷に相応しい素敵な場所だ。

 でも、他の先輩達だってそれぞれ色の違う魅力が詰まっている。だからこそ嬉しくてたまらないと思ってしまうのだろう。

 残念ながら『花束とアンドロイド』の聖地には選ばれなかった――で終わる訳ではないのだから。


 熊岡監督の言葉に乃衣の鼓動がドクリと弾む。自分達にもまだチャンスが残っているのだと考えるだけで、一気に心が落ち着かなくなってきた。

 あと少しで自分達も希望の光に触れられる。……なんて言い方は、あまりにも自信に溢れすぎているだろうか?

 でも不安な気持ちが一ミリでもあるのかと問われたら、乃衣はすぐさま首を横に振るだろう。綴とミオリの故郷としては奈岐村に敵わなかった。


 だけど二人が旅する場所としてなら。

 物語のラストを彩る花畑だったら。

 絶対に大丈夫だと胸を張って言うことができる自分がいた。



「まず一つ目なのですが、遊園地が印象的だった場所がありまして……」


 熊岡監督が一つずつ『綴とミオリと旅する聖地』を挙げていく。

 一つ目は遊園地が印象的な栃木県の町。二つ目は水族館が印象的な福島県の町。三つ目は動物園が印象的な愛知県の町。


 ――そして。


「最後は花畑のシーンですね。最終話で二人が想いを告げる大事な場所です」


 最後の一つは花畑が印象的な場所だった。

 乃衣と梨那は前のめりになって熊岡監督を見つめる。すると何故だろう。優しい微笑みを浮かべる熊岡監督が二人の視線を受け止めてくれているような気持ちになった。



「猫塚梨那さん。桜羽乃衣さん。我々といたしましては、お二人がプレゼンしてくださった浪木島を最終話の聖地にさせていただきたいと考えています」



 四つ目は――瀬戸内海に浮かぶ浪木島だった。

 言わずもがな乃衣と梨那が選んだ場所だ。なのにどうしてか身動きが取れなくて、代わりにじわりと視界が滲んでいく。

 熊岡監督の顔も、隣にいる梨那の顔でさえもよく見えなくなってしまった。


「乃衣ちゃん」


 ただ声が聞こえてくる。

 震えを帯びているはずなのにはっきりと乃衣の心に響く梨那の声。


「ねぇ、乃衣ちゃん……っ」


 わかっている。ちゃんとわかっているのだ。

 だから両肩を掴んでぐわんぐわんに揺らすのはやめて欲しい。堪えようと必死になっているのに、揺すられては涙が溢れて止まらなくなってしまうではないか。


「先輩」


 抗議をしようと口を開いてみる。

 すると笑ってしまうほどに鼻声なものだから、乃衣は慌てて俯いた。本当はもっと胸を張らなければいけない場面なのに、周りの視線が温かすぎて羞恥心を覚えてしまう。


「ありがとうございます」


 すると何故か熊岡監督に感謝の言葉を告げられてしまった。

 はっとなって背筋をピンと伸ばす梨那の隣で、乃衣は目を瞬かせる。今は自分達が「お見苦しいところをお見せしてしまって申し訳ありません」と謝る場面ではないだろうか。そう思った乃衣は反射的にブンブンと手を振る。


「いえっ、その……。プレゼンという場で泣いてしまうなんて本当にお恥ずかしいと言いますか……っ」

「そうですか? 少なくとも僕は嬉しかったですよ」

「へ……?」


 色んな感情が押し寄せすぎて、最早どんな顔をしたら良いのかわからなくなってしまう。梨那と二人して唖然とした表情を向けると、熊岡監督は楽しげな笑みを零した。


「最初に『花束とアンドロイド』をアニメと聖地巡礼を繋ぐプロジェクトにしようと考えたのは僕だったんですよ。なので情熱が空回っていたらどうしようという不安がありまして」

「っ! そんなことないですよ! あたしは……あっ、わ、私は、熊岡監督が発案だと知ってますます嬉しいくらいですから!」


 意気揚々と想いを伝える梨那に、熊岡監督は「はは、ありがとうございます。猫塚さん」と照れたように呟く。梨那の頬が朱色に染まっているのは言うまでもない話だ。


「浪木島の風景はどれも素晴らしいものでした。特に『展望のキンセンカ畑』は一目見ただけで惹かれるものがあり、花言葉にも心が動かされまして……。きっと、資料だけでも浪木島に即決していたと思うんです。……ですが」


 一瞬だけ、熊岡監督は目を伏せる。

 小さく息を吸ってから、唐茶からちゃ色の優しい瞳を二人に向けた。


「お二人のプレゼンには確かな情熱がありました。ただ単に綺麗な景色を提供しているのではなく、作品に寄り添ってくださっているのがひしひしと伝わってきて……。我々のやりたいことに対して真正面から向き合ってくださって、本当に嬉しく感じています」


 情熱が空回っていたらどうしよう。

 先ほど熊岡監督はこう言っていたが、それはむしろ自分達が抱いていた不安だった。乃衣にとっては初めてのプロジェクトで、梨那にとっては憧れの熊岡監督の作品。心が燃える瞬間はたくさんあって、時には悔し涙を流した。


 初めてだから上手くいかなくても仕方がないだとか。そう簡単に憧れの人のアニメに関わることはできないだとか。

 そんな弱気な自分を吹き飛ばすために頑張っていた部分もあったのかも知れない。

 でも――実際には違っていた。



「猫塚梨那さん。桜羽乃衣さん。『別れの悲しみ』と『忍ぶ恋』。どちらの結末になるのか、我々と一緒に追い求めていきましょう」



 大好きなのだ。

 アニメも。聖地巡礼も。熊岡監督も。『スタジオプリムラ』も。浪木島も。『展望のキンセンカ畑』も。まだ結末もわかっていないはずの『花束とアンドロイド』も。

 すべてが大好きになってしまったから、乃衣は梨那と全力を注ぐことができている。


「はい……!」


 乃衣と梨那の力強い返事が重なる。

 それだけで無限の勇気が湧き出るようだった。嬉しくて、涙が止まらなくて、だけど今はそれどころではないのだと心が騒ぎ出す。


 だって、これはまだスタート地点に過ぎないのだ。『花束とアンドロイド』がアニメと聖地巡礼を繋ぐ大きなプロジェクトになるのなら、むしろここから先が忙しくなるといっても過言ではない。


 浪木島という名の『花束とアンドロイド』の一部を盛り上げるため、乃衣は梨那とともに再び歩き出す。

 考えるだけで楽しみな気持ちが止まらなかった。

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