4-5 オレンジの海
最後に向かうのは花畑だった。
――『
それが浪木島にある花畑の名前だ。喫茶店の名前にも『キンセンカ』とある通り、浪木島はキンセンカの島としても知られているらしい。
時間に追われながらも二人は石段を上っていく。正直、フェリーの最終便に間に合うかどうかもわからない状況だった。だけど花畑は浪木島の一番の目当てといっても過言ではない場所だ。ちょうど夕陽と重なる時間でもあるし、ここで諦めるという手はなかった。
本当にバタバタとした忙しない旅だなと思う。
でも、不思議と嫌ではないと思えてしまうのだ。大好きなアニメ会社や監督のオリジナル作品のために、自分達は必死に走り回っている。
ただそれだけで心が高揚していた――はずなのに。
「――――っ!」
辿り着いた途端に息が止まりそうになる。
視界いっぱいに広がるのはオレンジの海だった。
夕陽と、夕陽に照らされて光り輝くキンセンカ畑と、遠くに見える民家やフェリー乗り場と、海と山と……。
すべてが綺麗で幻想的で、完璧な光景だと思った。
今までだって息を呑むような景色を見てきたつもりだ。綴とミオリの姿が思い浮かんだことだってあった。
なのに何故だろう。今まで見てきた光景がぽろぽろと音を立てて崩れて落ちていくようで。梨那と二人で歩んできた足跡がさらさらと消えていくようで。
あぁ、と弱々しい声が零れ落ちる。
気付いてしまったのだ。あまりにも単純な現実に。
ここが、自分達の追い求めていた場所だった。
今、乃衣の心には電流が走っている。
ここだ、と思える場所が今の今までなかったのだ。
だからずっともやもやしていたし、「かかってきてくださいよ」と威勢の良い発言をしなければ薄木原町の自信に繋がらなかった。『花束とアンドロイド』に寄り添いたい気持ちばかりが前に進んでいて、「本当にここで良いのだろうか?」という微かな疑問がずっと胸の中にあって……。
それが、今は一ミリも感じていない。
吸い込まれるように目の前の景色を見つめてしまって身動きが取れなかった。本当は早くカメラに収めなければいけないのにそれすらできなくて。
ただ、乃衣は心の中で叫ぶ。
――負けた、と。
勝ち負けではないことはわかっている。
だけどたった今、地元をアニメの聖地にしたいという乃衣の夢は崩れ落ちてしまった。はは、と乾いた笑いを零したい気分に駆られる。
でも、それすらできなかった。
世の中はそんなに甘いものではない。『未来聖地巡礼案内所』に就職できて、梨那という熱くなれるパートナーがいて、早速地元を聖地にできるチャンスが巡ってきて……。
思い返せば恵まれすぎた環境で、だからこそ悔しさが胸にのしかかってくる。
「乃衣ちゃん」
ややあって梨那の優しい声が耳に届く。
恐る恐る視線を合わせると、梨那の瞳からキラリと光る何かが零れ落ちた。
「す、すみません。早く写真を撮らなきゃですよね」
「……ごめん、無理」
「えっ」
慌ててタブレット端末を取り出そうとする乃衣だったが、予想外の梨那の言葉にピタリと動きを止めてしまう。
(先輩……?)
梨那の頬には一筋の涙が伝っていた。
なのに表情は希望へと向かっているように輝いて見えて、乃衣はただじっと彼女の姿を見つめてしまう。
「やっとなんだよ。やっと……自分の力で見つけられた。ここが良いんだって、本能が騒ぎ出すの。こんな感覚初めてだよ」
彼女の声は震えていた。
同時に自分の心までもが震えてしまって、乃衣ははっとする。
思い出したのだ。一年目の頃は先輩の足を引っ張ってばかりで、先輩に甘えまくったまま一年を過ごしてしまった――という、梨那があの日吐露した言葉を。
後悔も、悔しさも、弱音も。
彼女の想いのすべてを受け取っていたからこそ、梨那の口から溢れ出る感情はどこまでも眩しく乃衣を包み込む。
「良かったですね、先輩」
「うん。でも、乃衣ちゃんは悔しそうだね」
「…………そんな、ことは」
「良いんだよ、無理しなくて」
思わず目を逸らす乃衣の両手を梨那がぎゅっと握り締める。
優しくて、温かくて、乃衣の頭に渦巻いている全部の気持ちを肯定してくれているような気分だった。はらりと力が抜け、鼻の奥がつんとするのを感じる。
「だって、こんなの反則じゃないですか。先輩、キンセンカの花言葉は覚えていますよね」
「……うん、覚えてるよ。むしろ花言葉に惹かれた部分も大きかったんだから」
キンセンカの花言葉。
それは『別れの悲しみ』と『忍ぶ恋』だった。
主人公とヒロインの恋の行方がどうなるのか。ハッピーエンドなのか。メリーバッドエンドなのか。『花束とアンドロイド』の資料は結末まで書かれている訳ではなくて、想像で補うしかない部分もある。
だけど、人間とアンドロイドの恋はきっと一筋縄ではいかないはずだ。完全なるハッピーエンドよりはビターなエンディングになる可能性が高いのかも知れない。
花畑がキンセンカであること。
キンセンカと夕陽のオレンジが混ざり合って幻想的な空間になること。
遠くに見える海にも夕焼けが映ること。
フェリー乗り場や民家が連なる光景はどこか懐かしい気持ちになること。
それらが重なることによって生まれる奇跡は、まるで初めから『花束とアンドロイド』のために存在しているかのようで。
やっぱり悔しいな、と乃衣は思ってしまう。
「ね、乃衣ちゃん。やっぱり泊まらせてもらおうか」
「……え?」
「『猫とわたしの居間』のことだよ。栗原さん、宿泊もできるって言ってたでしょ? あたしもさ、まだちょっと動けそうにないんだよね。色んな気持ちが渦巻いちゃって」
言って、梨那はへへへと頭を掻く。
なんて嬉しそうな顔をするのだろうと思った。瞳はまだ赤らんでいるし、鼻声だし、普通に考えたら弱々しい表情を晒しているように見えるはずなのに。
この人は今、大きな一歩を踏み出したのだと。
自信を持って言えてしまうのが不思議だった。
「お、やっと乃衣ちゃんが笑ってくれた」
ニヤリと口元を緩めながら、梨那は試すような視線を乃衣に向けてくる。
瞬間、乃衣は諦めたようにため息を吐いた。彼女はいったいどこまで理解しているのだろうか? 悔しい以外の感情で満たされていることは、きっと梨那にも伝わっているはずだ。
やっぱり悔しい。嫌だ。私は薄木原町が良い。
――そんな負の感情が浮かぶのなら、自分は最初から『未来聖地巡礼案内所』にはいなかったのだろう。
だから乃衣は、まっすぐ梨那を見つめながら言い放つ。
「先輩、『花束とアンドロイド』の聖地、浪木島にしましょうか」
……と。
本来であれば今すぐ決める必要はないのだが、乃衣は一刻も早くこの気持ちを伝えてしまいたかった。それに、梨那ではなく自分が「浪木島が良い」と宣言することに意味があると思うのだ。
パートナーとして隣に立っていられるように。
そして何より、大好きなアニメの世界に寄り添うために。
乃衣は精一杯の笑顔を零す。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます