2-3 アニメを彩る存在

「乃衣ちゃん、猫塚さん、ご注文は決まったかな?」

「あ、えっと……。せっかくここに来たので、あれを頼みたいとは思うんですけど」


 言いながら、乃衣は猫のしっぽが振り子になった壁かけ時計に視線を移す。

 時刻は午後四時すぎ。夕食には早すぎる時間だし、だいたい夕食はこのあとに行く場所があるのだ。

 だから今からあれを――カレーライスを食べる訳にはいかない。


(というか、昼食をここにすれば良かったのか……)


 やってしまった、と乃衣は頭を抱えたい衝動に駆られてしまう。

 すると、不意に梨那が乃衣の肩をつんつんと突いてきた。


「サクラちゃんの言ってる『あれ』って、これのこと?」


 梨那はメニュー表を開き、カレーライスを指差す。

 喫茶『猫ノ街』の名物メニュー、「ねこまちカレー」。

 皿の真ん中に猫をかたどったターメリックライスが鎮座していて、周りを夜の街をイメージした黒いイカ墨カレーが埋め尽くしている。

 見た目が可愛いだけではなく、魚介の旨味とピリ辛具合が絶妙にマッチした本格的な味なのだ。


「サクラちゃん」

「す、すみません。今からカレーは流石に無理……」

「半分こしよっか」

「っ!」


 苦渋の決断で諦めようとした乃衣の想いが、梨那の何てことのない言葉によってピタリと止まった。

 まるで「その考えはなかった」と叫ぶような大袈裟な反応をしてしまい、自分の顔が赤くなるのを感じる。


「だって、これは食べなきゃ駄目でしょ。ということで、ねこまちカレーを一つお願いします。飲み物は……あたし辛いのはちょっと苦手だから、イチゴヨーグルトドリンクにしようかな」


 飲むヨーグルトって辛さが和らぐんだよねー、と言いながら梨那はメニュー表を差し出してくる。未だに動揺を隠せない乃衣は、「あ、私もそれで」と言うことしかできなかった。



「かわいー。っていうか、すでに良い香りなんだけど。こんな穴場、普通じゃ見つけられないよねー。サクラちゃんさまさまだわ」


 やがて運ばれてきたねこまちカレーの写真をパシャリパシャリと撮りながら、梨那はテンション高めに言い放つ。

 乃衣も一応、本当に念のため、カレーを見つめながら瞳を輝かせる梨那の写真を撮っておいた。別に自分の好きなものに対してテンションを上げる梨那の姿が嬉しい訳ではない。どんな写真が資料に繋がるかわからないから念には念を入れて撮っているだけなのだ。

 ……と、乃衣は自分に言い聞かせる。


「ね、サクラちゃん」

「何ですか」

「『花束とアンドロイド』の主な舞台って喫茶店じゃん。もし薄木原町が選ばれたらさ、アニメの中でねこまちカレーが出てくる可能性だってある訳だよね」

「……そう、ですね」


 何でもない振りをして、乃衣は返事をする。

 喫茶『猫ノ街』は、猫に溢れていること以外は何の変哲もない喫茶店だ。だけど、店主の猫に対するこだわりが非日常的な空間を作り出している。ねこまちカレーなんて特にこだわりにこだわり抜いたメニューであり、店の顔と言っても良いくらいだろう。


 そんなねこまちカレーが、アニメを彩る一つの存在になるのかも知れない。なんて考えるだけで乃衣の心は踊っていた。


「ん、味もちょうど良い辛さで美味しい。もしアニメで使われたら大人気メニューになっちゃうね」

「先輩、気が早いですよ」

「でも、サクラちゃんもなんか嬉しそうな顔してるよ?」

「そ、それは久しぶりに食べられたから嬉しいだけで。…………いや、ほんの少しは期待しちゃう気持ちもあるかも知れないですが」


 久々のねこまちカレーが嬉しくて。

 その中にちょっとだけ、アニメの中に登場するねこまちカレーを想像してしまう自分もいて。

 どちらも隠しようがない自分の本心だからこそ、乃衣は正直な気持ちを零していた。まぁ、当然のように得意げな顔をする梨那には悔しい気持ちが込み上げてきてしまうのだが。



 ゆっくりと食事を楽しんだあとは店内の写真を撮らせてもらい、その後は本日のもう一つのメインである花のテーマパークへと向かった。


 ブーケの庭園ていえん

 それが、薄木原町の顔といっても過言ではない花のテーマパークの名前だった。

 特筆すべきは日本最大級の敷地面積を誇る『庭園ゾーン』だろうか。今はちょうど薔薇ばらが見頃で、色とりどりの薔薇が乃衣と梨那を出迎えてくれた。


「おー、良いじゃん綺麗じゃん。ちょうど良い時間に来られたね」

「ですね、良かった……」


 二人で『庭園ゾーン』に足を踏み入れるや否や、乃衣は小さく安堵の息を吐く。『花束とアンドロイド』にとって重要な場所である花畑には、アニメ制作会社からの注釈があった。


 それは――夕陽が映える花畑であること。

 乃衣は無意識のうちにタブレット端末を取り出し、写真を撮った。

 眩しいほどの夕焼け空に、夕陽のオレンジ色に負けないパワーを持つ薔薇の海。地元だから何度も訪れたことはあるはずなのに、今は幻想的な空間へと迷い込んだような気分だった。梨那も無言でシャッターを切り、やがて一眼レフカメラからスマートフォンへと切り替える。


「ほら、サクラちゃん」

「……はい」


 自撮りもすっかり慣れたものである。どんなに仲が良くても、一日のうちにこんなにもツーショット写真を撮る二人組はなかなかいないだろう。

 まぁ、仕事だと思えば照れもなくなるものである。


「サクラちゃん、相変わらず顔が赤くなるんだね。かわいーなーもう」

「な……。ま、まったく、いったい何の冗談なんですか。ただの夕陽のせいですよ」

「え、急に目が死ぬじゃん。いやごめんって。ほら、今度はあそこの展望台から写真撮ろう?」


 すっかり慣れたものである。

 照れもなくなるものである。

 ――と思っていたはずなのに、蓋を開ければこれである。

 いったいどうして自分は梨那にからかわれているのだろう? 意味がわからない上にやっぱり恥ずかしくて、乃衣は黙って梨那について行くことしかできなかった。



 その後は展望台から見える一面の薔薇の写真を撮り、園内をぐるりと回る。

 徐々に辺りも暗くなっていき、時刻は午後六時半になった。夕方と比べるとだいぶ来園客も増えてきて、平日とは思えない賑わいを見せている。


「そろそろですね、先輩」

「そだねー。いやぁ、五月なのに不思議な感覚だよ」


 ブーケの庭園は何故、夜に賑わいを見せるのか。その答えが乃衣達の前に広がっていく。先ほどまで見ていた花々とはまた違う、煌びやかな風景。

 ブーケの庭園では、ほぼ一年中イルミネーションをやっているのだ。


「おぉ、これは……」


 点灯した瞬間、梨那が感嘆の声を上げる。

 花壇を彩るのはもちろんのこと、水上イルミネーションだったり、トンネル型だったり、ツリーの形をしていたり……。夕方までの風景とはガラリと印象が変わるのだ。


「大変な作業になりそうだね、サクラちゃん」


 一眼レフカメラを構えながら、梨那は至って真面目な表情を浮かべる。

 もっと「凄いじゃん」とか「やばいじゃん」とかいつものノリで言ってくると思っていた乃衣は驚いてしまう。でも、よくよく考えたら梨那の言う通りだった。


「レストランの予約は七時だっけ?」

「そうですね。その時間しか取れなくて」

「別に食べ終わってから撮影再開しても良いけどさー……。多分、食べちゃったら一気に疲れが出ちゃうと思うんだよね。早く温泉入りたーい、みたいな」

「です、ね」


 梨那の言葉はビックリするほど正論である。

 むしろ『温泉』というワードが出てきた時点で仕事モードがぷっつりと切れそうになってしまった。


「あともうひと踏ん張り、頑張ろっか」

「は、はい、そうしましょう」


 これが終わればご飯と温泉。これが終わればご飯と温泉。

 呪文のように唱えながら、乃衣は何とか自分を保つ。こうして乃衣は、梨那とともに光の海という名の本日ラストの戦場へと繰り出すのであった。

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