第三話 松茸・主任昇格試験

 十月のはじめ、気持ちのいい秋晴れの日。わたしは研修以来のスーツとパンプスを身に着け、自宅マンションを出た。


 今日、わたしは事業本部に試験を受けに行く。試験会場に行く前に、ドリームシティの売り場に顔を出した。

 開店準備をしていた唐島主任やパートさんたちが、わたしのまわりに集まってくる。


「しっかりね。お七ちゃん」

「落ち着いてテスト受けるのよ。あ、ほら。襟が曲がってる」

「社員証持った? 文房具は?」


 パートさんたちは実の母親みたいに、わたしの世話を焼いてくれる。心配そうなパートさんたちに対して、唐島主任はどんと構えてわたしを見守っていた。


「いまの瓜生なら、ぜったいに合格するから。わたしも人事考課では十分な評価をつけたし。自信持って、がんばってこい」

「はい! 行ってきます!」


 売り場のみんなに送り出されて、わたしは事業本部へと向かった。

 今日は、二年次の社員が受験する主任昇格試験の日だ。直属の上司である主任と課長の評価、そして筆記試験と面接の総合結果で合否が決まる。


 会議室には、関東事業部各店から集まった同期や、中途採用の社員たちが、緊張した様子で座っていた。

 午前中に、流通や店舗運営に関する知識、データの読み方を試される筆記試験を受け、昼食後には人事部との面接があった。


「最近、売り場で印象的な出来事はありましたか」とか、「目標に対して、予算はどのくらい達成できていますか」など、目標意識や実務に関する質問をランダムに出される。


 唐島主任の部下になる前のわたしだったら、たぶんここでうろたえて、なにも答えられなかっただろう。

 でも、毎日のように主任からしごかれ、商品知識やデータの読み方を詰められているわたしにとって、面接官の質問などたやすい部類になっていた。


「最後に。瓜生さんは、前回のキャリアプラン調査で、住居フロアへの異動を希望していましたが、いまでもそれは変わりませんか?」


 答えに詰まった。

 この場では、「いいえ、いまは青果の仕事にやりがいを感じています。このまま、青果でがんばりたいと思います」と答えたほうが、面接官の印象はいいだろう。

 なにせ、青果部門はスーパーマーケットの顔。しかも関東の旗艦店・ドリームシティの青果部門ともなれば、花形中の花形なのである。


 それに、唐島主任の下で働くようになってから、青果の面白さが少しわかってきた。

 季節どころか、週単位で商品が変わり、気温や天気、世界情勢、流行の影響をダイレクトに受ける。

 商品の回転もはやく、自分の販売計画が正しかったか、次の日には結果が出る。こんなに変化に富んだ、スピード感のある仕事ができるのは、青果のほかにはどこにもないだろう。


 ただ、自分がほんとうに青果の仕事が好きなのか、自信が持てなかった。現に、西川さんの部下だったころには、青果の面白さなどかけらもわからなかったのだ。


 もし、わたしがこの試験に受かれば、一、二年の間にどこかの店舗の青果主任として、売り場を指揮することになる。

 売り場を統括できるほど、わたしは青果の仕事に魅力を感じているのだろうか。それとも、唐島主任の下で働くのが面白いだけなのだろうか。

 ひょっとして、唐島主任と一緒なら、どこの部門でも楽しく仕事ができる――?


 ここで「住居フロアに行きたい」と答えれば、わたしは次の異動で、唐島主任の部下でなくなるかもしれない。それは、とても寂しいことに思えた。


「瓜生さん?」


 面接官に名を呼ばれ、はっと現実に戻る。


「いえ、以前は住居フロアへの異動を希望していましたが、いまは青果の仕事にとても魅力を感じています。しばらくは、青果でがんばりたいと思います」


 笑顔を作って、そう答えた。

「それでは、面接を終わります」と告げられ、わたしは部屋から退出する。


 筆記試験は自分でもできたと思う。唐島主任は、人事考課でいい評価をつけたと言ってくれた。面接の出来も悪くはないだろう。


 でも――。


 そもそも、わたしは試験に受かって、主任資格を持ちたいのだろうか。わたしには、自分の気持ちがよくわからなかった。

 唐島主任をがっかりさせたくない。けれど、彼女の期待に応えたい一方で、このまま主任と稲城さん、戸塚さんと一緒に、同じ売り場で働き続けたいとも思った。


 考えがまとまらないまま事業本部を出て、その日は自宅マンションに直帰した。

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