第四章 夏のパプリカ、スイスチャード
第一話 茄子・傷ついた指先と心
十日間の長期休暇を終え、唐島主任が店に帰ってきた。
唐島主任への申し送りで一日出勤してから、最後にわたしが長期休暇に入る。
主任や稲城さんが留守にするときとちがって、わたしがいなくても、売り場はなんの問題もなくまわるだろう。安心な一方で、ちょっと情けない気持ちにもなった。
稲城さんや主任にとって、長期休暇は恋人と濃密な時間を過ごせる、めったにない機会だ。でも、恋人もいなければこれといった趣味もないわたしには、十日の休日は長すぎる。
埼玉の実家に帰って、夜に友達と食事をし、ひとりで映画を観たり雑貨屋をめぐって過ごした。それでも時間を持て余し、けっきょくわたしは、早々に借り上げマンションに戻ってきてしまった。
雑貨屋で買った、新しいグラスでアイスカフェオレを飲みながら、てきとうに動画を眺めるけれど、たいして楽しくない。
わたしはマイバッグと実家の近くで買ったお土産を持って、ドリームシティへと向かった。
長期休暇中に職場に顔を出さなくても、とは思うけれど、自分の店では社割がきく。ショッピングモールをひやかすついでに、食品フロアで食材を買って帰ろう、と思った。
まだ梅雨はあけておらず、まとわりつくような
ショッピングモールの入り口で、ビニールに傘を突っ込み、食品フロアに入る。雨で少し濡れた体に、冷房の効いた店内は肌寒かった。
どのスーパーでも、入店して一番最初に目に飛び込んでくるのは、青果売り場だ。長期休暇の間に、桃と輸入オレンジ、スイカのシーズンがはじまっていて、売り場は甘い香りとビタミンカラーで華やいでいた。
「こんにちはー」
私服のまま青果売り場に顔を出すと、パートさんたちが大仰に喜んで出迎えてくれた。
「あら、お七ちゃんじゃない。どう? 長休楽しんでる?」
「いやー、やることがなさすぎて、戻ってきちゃいました」
「それなら、瓜生さんも仕事手伝ってく?」
キッチンから出てきた稲城さんも、一緒になって雑談に加わった。ほんの数日会わなかっただけなのに、職場のひとたちを妙に懐かしく感じる。唐島主任なんて遠距離恋愛だから、彼女さんに会うときはもっと懐かしい気持ちになるのだろう。
彼女さんと主任のことを考え、少し胸が痛んだ。
長休の三日目、わたしのミスのせいで、主任はドリームシティに呼び戻された。すぐに彼女さんのところに帰っていったけれど、あのあとケンカにならなかっただろうか。
彼女さんは、主任が作った野菜づくしのごはんを見て、「わたしといるときくらい、仕事のことを忘れられないの?」と怒るタイプの女性だ。
十日間ずっと一緒にいるはずだった主任が、職場に飛んで帰ったのは、きっと彼女さんにとって腹立たしい出来事だっただろう。
「唐島主任は?」
「主任も元気だよ。あいかわらず、朝から晩までバリバリ働いてる」
そう答えながら、稲城さんは野菜の冷蔵ケースのほうを指さした。
冷蔵ケースのハーブ類をちらちらと見ながら、主任はタブレットを操作している。発注のために、定番商品の在庫数を確認しているのだ。
稲城さんは「元気だ」と言ったけれど、わたしにはどこか疲れが滲んでいるように見えた。
「おつかれさまです、主任」
うしろから呼びかけると、主任は驚いたように振り向いた。お客さまにいつ声をかけられてもいいよう、常に周囲に気を配っている主任にしては、珍しい反応だ。
「ああ、瓜生か。どうした? 長休中なのに」
「実家に帰省してたんですけど、やることなくて暇すぎて。こっちに戻ってきました」
「そうか。長休明けにはがっつり働いてもらうから、いまのうちにちゃんと休んどけよ」
唐島主任は、冗談めかしてそう言った。売り場のみんなは気づいていないようだけど、やっぱりいつもより覇気がない気がする。
やっぱり、彼女さんとなにかがあったのかもしれない。もしそうだとしたら、完全にわたしのせいだ。
わたしは食品フロアで買い物をし、いそいで家に帰った。手洗いうがいをするとすぐ、マイバッグから食材を取り出す。
まずは、タマネギを半分に切った。片方はみじん切りに。もう片方は薄くスライスして水にさらしておく。
にんじんとマッシュルーム、ニンニクも細かく刻み、トマトは湯むきしてからざく切りにした。
赤いル・クルーゼの鍋にオリーブオイルとニンニクを入れ、香りがたったところで、タマネギと合い挽き肉を炒めはじめる。
タマネギが透き通ったら、トマトとハーブ、コンソメ、料理酒を入れて弱火でじっくり煮込む。無水で手作りするミートソースだ。
ミートソースを煮込んでいる間に、ポテトサラダを作る。キュウリを薄切りして塩もみし、水にさらしておいたタマネギを水切りする。ゆでたジャガイモをマッシュして、ハムと絞ったキュウリ、タマネギを混ぜ込んだ。
ポテトサラダができあがった頃に、ミートソースのほうも水気が飛んで良い加減に煮詰まっていた。
ポテサラを冷蔵庫に入れ、代わりに
「いたっ……」
とっさに手を引く。茄子がまな板の上に落ちて転がった。
新鮮な茄子は、へたやがくに鋭い棘がある。唐島主任がしっかり鮮度管理している、うちの売り場のみずみずしい茄子。
棘に刺された指先が、妙にずきずきと痛んだ。
わたしは茄子を拾ってていねいに洗い、厚めの輪切りにしていった。
両面をフライパンでじっくりと焼き、手作りのミートソースを乗せる。その上に、とろけるチーズを盛って余熱で溶かし、乾燥パセリを散らした。
これを今夜、主任の家に持っていこう。そう思った。
いちからすべて手作りしたからといって、謝罪の気持ちが伝わるわけじゃない。わたしがおかしたミスは帳消しにはならない。
ただの押しつけがましい自己弁護だとはわかっている。でも、こうしなければ、自分の気持ちが収まらなかった。
夜の九時四十五分に自宅を出て、エレベーターで六階に上がる。605号室のインターホンを鳴らしたけれど、応答はなかった。まだ、主任は仕事から帰っていないのだ。
主任のプライベートの連絡先は知っている。ひとこと、「帰ったら連絡をください」とメッセージを送ればいい。
けれど、わたしは自分に罰を与えるように、じめじめとした共用廊下で、主任の帰りを待っていた。
十時を過ぎ、エレベーターが上がってくる気配がした。扉が開き、共用廊下にエレベーターのあかりがこぼれ落ちる。
顔をあげると、唐島主任が驚いた表情で歩み寄ってくるところだった。
「瓜生? どうした?」
主任こそ、どうして元気がないんですか? 彼女さんとなにかあったんですか?
そう聞きたかったけれど、自分の罪を突きつけられるのが怖くて、けっきょく質問できなかった。
「あの、晩ごはん、食べましたか?」
「いや、まだだけど」
「よかったら、これ。お裾分けにと思って」
保存容器を入れた紙袋を差し出すと、唐島主任は
「ありがとう。ちょっと疲れてて、食事作る気になれなかったから。助かるよ」
きまずい沈黙が流れた。
退勤した他の部門の社員が帰ってきたのか、エレベーターが一階へと下りていく。雨が共用廊下の手すりを、音を立てて叩いていた。
「容器は明日、瓜生の家に返しに行くよ。じゃあ……」
おやすみ、とかすれた声で言って、彼女は自宅に入っていった。目の前でドアが閉まる。主任は、「上がっていけ」とは言わなかった。
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