第十話 イタリアンパセリ・フルーツ姫とディナー

 主任が頼んでいったとおり、戸塚さんはわたしを定時の十六時で上がらせてくれた。

 今朝のレジでの騒ぎは、とっくに全館に知れ渡っている。批難の目を向けられるのも、気遣わしげに慰められるのも、すべてがつらかった。


 早く家に帰って、お酒を飲んで寝てしまおう。

 更衣室で私服に着替え、ロッカーの扉を閉めようとする。そのとき、ロッカーの片隅に置きっぱなしていた紙片が目に入った。

 フルーツ姫――篠井香さんの名刺だ。


「いつでも連絡してね」とは言われたけれど、客と従業員が個人的に親しくするのは、あまりほめられたことではない。名刺を受け取ったものの、彼女には一度も連絡をしていなかった。


 でも、今日は無性に誰かと話したかった。友達でも職場のひとでもない、まったく無関係の誰かに、胸の内を聞いてもらいたいと思った。


 自分のスマホを出し、篠井さんに「今日、お話できませんか?」とメッセージを送信する。少し待つと既読がつき、「今夜時間があるなら、一緒にお食事でもしましょう」と返事が返ってきた。


 待ち合わせ場所は、ドリームシティの最寄り駅のひとつ隣だった。

 改札でにこにこと手を振る篠井さんの姿を見るやいなや、安心感で体中の力が抜ける。今朝の失敗を引きずって、ずっと体がこわばっていたのだと、今さら気がついた。


「今日は、わたしの行きつけのお店に行きましょう」


 ドリームシティで接客しているときと同じように、篠井さんは艶やかな笑みを浮かべた。

 連れていってもらったのは、カジュアルな雰囲気のダイニングバーだった。

 篠井さんは白ワインを、わたしはアプリコットフィズを選び、食事のオーダーは彼女におまかせした。


「瓜生ちゃんから声をかけてくれるなんて、嬉しいわ」


 そう言ってワインを飲む篠井さんは、いつもと変わらずとても優雅だ。

 甘いアプリコットフィズを飲んでいるうちに、料理が運ばれてくる。


 グリーンカールとロメインレタスを使ったシーザーサラダ。ローズマリーで風味づけした若鶏のグリルには、にんじんのグラッセと焼いたパプリカが添えられている。スモークサーモンのマリネにはディル。イタリアンパセリを散らした、ズッキーニのチーズ焼き。


 つい、野菜にばかりに目がいき、野菜を見れば唐島主任が責められている姿を思い出して、ますます悲しくなった。

 うつむいて、ほろ苦いイタリアンパセリを噛んでいると、篠井さんに顔をのぞき込まれた。


「それで、瓜生ちゃん。なにかあったの? ちょっと元気がないように見えるけど。わたしでよかったら、話を聞くわよ」


 わたしはカトラリーを置き、膝の上で手を握りしめた。


「今日、仕事で大きなミスをしてしまって……。上司に迷惑をかけてしまいました」


 唐島主任の恋愛事情や、社内の機密を漏らさないよう内容はぼかしつつ、「自分の失敗のせいで、上司の長期休暇を台無しにしてしまった」と、篠井さんに話した。

 黙って話を聞いていた篠井さんは、バッグから出したハンカチをわたしに差し出した。話をしているうちに、いつの間にか泣いていたらしい。


「ごめんなさい。篠井さんはお客さまなのに、わたしの愚痴なんて聞かせてしまって……」

「いいのよ。こういう話は、同僚には話しづらいものね。わたしも、若いころにはたくさん失敗して、年上のひとたちに話を聞いてもらったものよ」


 篠井さんは手を伸ばし、指先でわたしの涙を拭ってくれる。ネイルをしていない彼女の爪を見て思い出した。そうだ、このひとも主任と同じ、野菜ソムリエプロだった。


「篠井さんが仕事で失敗するなんて、想像できないです。……あの、篠井さんは、野菜ソムリエプロなんですよね? お料理の先生をされてるんですか?」


 ちょっと困った顔をした篠井さんを見て、よけいな質問をしてしまったと後悔した。従業員がお客さまのプライバシーに探りを入れるなんて、あってはならないことだ。

 篠井さんはためらう様子をしながらうなずいた。


「ええ、まあ、そんなかんじの仕事ね」


 やっぱり、フルーツ姫はお料理教室の先生をしていたのだ。いつもきれいな格好をしているのも、人前に立つ料理講師の仕事ならば納得だ。


「やっぱり篠井さんはすごいです。ソムリエプロですもんね」

「たいしたことないわ。雇われの身だもの。でも、そのうち野菜ソムリエ上級プロをとって、独立できたらいいなと思っているのよ」


 野菜ソムリエ上級プロ。緑スカーフよりもう一ランク上の、紫スカーフの資格だ。野菜ソムリエプロとしての活動実績がなければ、受講することすらできない、超難関資格のはずだ。


 仕事でどんどん高みを目指していく、篠井さんがまぶしい。わたしも、今朝のようなつまらないミスをしている場合ではないのだ。


「がんばってください。応援しています。あの、今日は話を聞いてくださって、ありがとうございました」

「わたしでよければ、いつでも話し相手になるわよ。瓜生ちゃんの力になれたら嬉しい」


 篠井さんは店員を呼んで、締めのデザートに柚子ゆずのソルベを頼んでくれた。

 さわやかな柚子の香りと冷たいのどごしのおかげで、少しだけ仕事の失敗を忘れることができた。

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