第九話 ししとう・トラブル回避と新たなトラブル

 そのときだった。


「おはよう、久しぶり。唐島主任、長休だって? みんなサボらずにちゃんと仕事してるか?」


 のんきに笑いながら、西川さんが売り場に顔を出した。


「西川さん……!」


 すがりつくように、わたしは西川さんに駆け寄った。


「ど、どうしよう、西川さん。プリセットとJANが……」

「おい、落ち着け、瓜生。なにがあった?」


 動揺で言葉も出ないわたしに代わって、チェッカー主任が西川さんに状況を説明する。話を聞いていた西川さんの表情が、しだいに険しいものに変わっていった。


「それはまずい。……ちょっと、内線借りるぞ」


 キッチンに入ってきた西川さんは、固定電話の受話器を取り、どこかに内線をかけた。


「あ、情シスですか? 青果の西川です。青果の売価のデータが消えて、レジで読み取れないみたいで。商品マスタのバックアップ、残ってませんか? ……はい、そうですか。よかった!」


 情報システム課に商品マスタの復旧を頼んだ西川さんは、わたしのほうを振り向いた。


「これで商品マスタは、昨日の閉店時の状態に復旧するはずだ。あとは、今朝値段が変わった商品を直せばいい。プリセットは俺が登録し直す。瓜生はJANコードの変更をやってくれ。いそげ」

「はい」


 きびきびとわたしに命じると、西川さんはすぐにパソコンに向かい、プリセットの登録をはじめた。

 わたしも売り場に飛び出し、売価が変わったJANコード付きの商品をかき集める。プリセット登録を終えた西川さんと入れ替わりにパソコンに向かい、商品をスキャンしては売価を変更していった。


 すべての登録を終え、時計を見る。十時十二分。十二分間のロスはできてしまったけれど、どうにか商品マスタを正常に戻すことができた。


「なんとかなったな」


 西川さんも、ほっと息をついた。


「課長から、今日の早番は瓜生だけだって聞いて、様子を見に来たんだが……。俺がたまたま今日休みでよかったよ」


 いつもなら「俺のおかげ」がかんに障るところだけれど、今日にかぎってはほんとうに西川さんのおかげで命拾いした。

 わたしは深く頭をさげ、涙声でお礼を言った。


「西川さん、助けてくれて、ありがとうございました」


 まだ動揺がおさまらず、手が小刻みに震えている。

 もし、西川さんが来てくれなかったら、今ごろ食品フロアは大混乱に陥っていただろう。

 やはりバイヤーに抜擢されるだけあって、西川さんはいざというときに頼りになるひとなのだ。


「しかし、瓜生。いまだにこんなミスをしているなんてな。もう二年次なんだから、しっかりしてくれよ」


 西川さんが、眉を寄せて苦言を呈した。

 わたしは、言葉もなく、ただうなだれた。反論のしようがない。唐島主任には「まかせてください」と大見得を切ったものの、いまだにわたしはこんなミスをする、ダメ社員のままなのだ。


「でもね、西川さん。お七ちゃんはちゃんと売価登録したのよ。わたしたちも見てたもの」


 パートさんたちが、おずおずとわたしの味方をしてくれる。


「でも、じっさい商品マスタは消えていた。瓜生、ちゃんと保存はしたのか?」

「はい。いつもの手順でやりました」

「画面閉じるときに、間違えて変なところ触ってないか?」

「はい……。たぶん、触っていないはず、です」


 質問されているうちに、だんだん自信がなくなってくる。

 たしかに、いつもの手順を踏んで売価変更をし、商品登録画面を閉じたはずだ。なのに、プリセットどころか全商品のデータが飛んでしまった。


「そもそも、瓜生をひとりにするから悪いんだ。シフトを組んだ唐島にも責任がある」


 忌々しげに吐き捨て、西川さんは業務用のスマートフォンを取り出した。


「唐島主任にも連絡を入れよう。これは始末書ものだぞ」


 バイヤーに貸与されている業務用のスマホには、各店主任の緊急連絡先が登録されているらしい。西川さんは唐島主任の電話番号を探しはじめた。


「だめです」


 長期休暇の初日、ちょっと照れくさそうに出かけていった主任の顔が、脳裏をよぎった。

 いま唐島主任は、彼女さんと一緒に過ごしているのだ。わたしのミスのせいで、ふたりの時間を邪魔したくない。


「待ってください、西川さん。唐島主任には連絡しないでください」


 商品マスタが消えたと聞けば、唐島主任は彼女さんを置いて、すぐにドリームシティに戻ってくるだろう。それだけは、なんとしても阻止したかった。


「ぜんぶ、わたしが悪いんです。唐島主任は関係ありません。だから……」

「唐島に怒られたくないからか?」

「ちがいます。主任はいま長休中だから……。長休中は、主任だって休む権利があるはずです」

「部下のミスは上司の責任だ。瓜生、これだけ大きな失敗をしておいて、俺のやることに口出しするな。誰のおかげで大事おおごとにならずに済んだと思ってるんだ」


 痛いところを突かれ、わたしは口をつぐんだ。

 目の前で、苛立った様子の西川さんが、主任に電話をかけはじめる。


「唐島主任か。いますぐ、ドリームシティに来てくれ。瓜生がとんでもないミスをした」


 それから約四時間後、主任が息を切らしてオープンキッチンに駆け込んできた。


「遅いぞ、唐島。電話でいますぐ来いと言ったはずだ」

「すみません。旅行で遠くに行っていて……」


 きっと、主任は電話を受けてすぐ、電車と新幹線を乗り継ぎ、ドリームシティに駆けつけたのだろう。

 ひとりで大丈夫だと豪語したくせに、けっきょく主任に迷惑をかけてしまった。申し訳なさと情けなさで、いたたまれなくなる。


「それで、商品マスタはどうなりましたか?」

「俺が、情シスに頼んで復旧してもらったよ。ほぼ無傷で済んだが、俺が様子を見に来なかったら、どうなっていたか……」

「ありがとうございます、西川バイヤー。助かりました」


 頭をさげる主任に、西川さんは居丈高に言いつのった。


「唐島、なぜ瓜生をひとりにした?」


 今日のシフトは、こうするしか仕方がなかったのだ。稲城さんは三年次研修で、戸塚さんはお母さんの介護があった。わたしがしっかりしていないのが元凶であって、唐島主任にはひとかけらの責任もない。


「西川さん、主任は悪くありません。わたしが……」

「瓜生は黙ってろ」


 西川さんに一喝され、わたしは口を閉じざるをえなかった。彼は、あくまでも唐島主任の責任を追及するつもりのようだ。


「瓜生が頼りにならないとは、わかっていたはずだ。なのに、なんで開店準備を瓜生ひとりにやらせた?」


 たしかに、二年次にもなって、こんな大それたミスをするなんて、頼りにならないとバカにされても仕方がない。西川さんの言葉が、わたしの胸を何度も切り裂いていく。


「申し訳ありません。わたしの責任です」


 主任は、なにも言い訳せず、潔く頭をさげた。わたしのせいで、一方的に西川さんに責められている主任を見るのがつらかった。

 ひたすら謝罪を続ける主任を、西川さんは鬼の首をとったかのように、言葉でいたぶり続けた。まるで、日ごろの鬱憤を晴らすみたいに。


 西川さんの理不尽な言動に不満は募る一方だけれど、元はといえばわたしが悪いのだ。いま、わたしが口出しすれば、ますます主任への風当たりが強くなるだろう。


 なにもできない悔しさに、涙が込み上げてくる。それを、わたしは懸命にこらえた。

 西川さんの前では、泣きたくない。

 わたしが涙を見せれば、きっと彼は「ほら、女は泣けば済むと思ってる」と、わたしと主任を責め立てるに決まっている。これ以上、西川さんに主任をいたぶる口実を与えるのは、ぜったいに嫌だった。


「もう、このあたりでいいじゃないか、西川くん」


 遅番で出勤してきた戸塚さんが、わたしたちの間に割って入った。


「今日のシフトに関しては、僕にも責任がある。僕に免じて、許してやってくれ」


 年上の戸塚さんに諭され、ようやく西川さんは矛をおさめた。「ふたりとも、二度とこんなミスはするな」と言い捨て、キッチンから出ていく。

 西川さんを見送ってから、唐島主任はバックヤードのほうを指さした。


「瓜生、ちょっといいか」


 こんどは主任に叱られるのだろうか。

 肩を落として、彼女の後に続く。バックヤードのひとけのない場所まで歩いてから、唐島主任は足を止めた。


「瓜生、よくがんばったな」


 怒鳴られても仕方がないと覚悟していたのに、思いがけず優しい声で労られた。わたしは不思議な思いで、唐島主任を見つめた。


「データがぜんぶ飛んで、怖かっただろう。ちゃんと復旧できてよかったよ。怖い目に遭わせて悪かった」


 頭をさげられ、わたしはふるふると首を振った。


「なんで主任が謝るんですか? わ、わたしがぜんぶ悪いのに。……ごめんなさい。彼女さんとの時間を邪魔してしまって、ほんとうにごめんなさい」


 西川さんの前では我慢していた涙が、せきを切ってこぼれ落ちた。


「わたしが、トラブルを起こさなければ、主任が西川さんに怒られることもなかったのに」

「いや、ちがうよ。今回の件は、ぜったいにおまえのせいじゃない」


 唐島主任が断言するのを聞き、わたしは顔を上げた。


「四か月前ならともかく、いまの瓜生がここまで大きなミスをするとは思えない。たぶん、システムになにか障害が起こったんだと思う。それか……」


 主任はなにかを言おうとして、口をつぐんだ。

 わたしのことを、唐島主任は信用してくれている。それなのに、わたしは信頼を裏切ってしまった。


「ごめんなさい、主任。せっかく彼女さんと一緒にいたのに……。彼女さん、怒ってますよね?」

「だから、おまえのせいじゃない。気にするな。萌のところには、いまから戻るから大丈夫だよ」


 主任が優しく励ましてくれるけれど、しゃくり上げるのが止まらない。


「でも、でも……」

「泣くなって。瓜生が泣いてたら、わたし、萌のところに戻れないよ」


 苦笑しながら、主任が背中をさすってくれる。

 そうだ。これ以上、主任と彼女さんの時間を奪ってはいけない。わたしは奥歯をぐっと噛んで、涙をこらえた。


「いいか。この件は、ぜったいにおまえのせいじゃない。だから、もう気に病むな。片付けは戸塚さんとバイトさんたちにまかせて、今日は早く上がらせてもらえ」


 唐島主任は、戸塚さんに後のことを頼んで、また彼女さんのもとへと帰っていった。

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