第七話 カラカラオレンジ・フルーツ姫の正体
稲城さんが長期休暇を終え、売り場に戻ってきた。
丸山さんとの旅行を満喫できたみたいで、かもしだす幸せオーラがまぶしい。朝、食品フロアに品出しに来た丸山さんも、いつもにまして笑顔がキラキラしていた。うんうん。幸せなのはいいことだ。
わたしたち社員三人と嘱託の戸塚さんは、パソコンスペースに集まって、ミーティングをしている。明日から、稲城さんと入れ替わりで、唐島主任が長休に入るので、その間の詳細な打ち合わせをしているのだ。
稲城さんがいなかった間の売り場の様子、それから今後十日間の販売計画などを話し、次はシフトの話題に移った。
「わたしがいなくても、稲城がいれば売り場はちゃんと回る。ただ、この日だけが心配なんだよな……」
主任がため息をついて、シフト表の三日目を指先で叩いた。
「この日は、稲城が三年次研修で事業本部に行かないといけないし、戸塚さんは午前に出勤できないし。早番が、どうしても瓜生ひとりになる」
「悪いねえ。この日の午前は、うちのばあさんを病院に連れていかないといけなくて」
申し訳なさそうに、戸塚さんがわたしに視線を向けた。
戸塚さんは、奥さんに任せきりにせず、自分でお母さんの介護をしている。定期的に通院しなければならないらしく、それが運悪く稲城さんの三年次研修と重なってしまったのだ。
以前、プリセットのミスをしてから、わたしが朝に商品マスタを触るときには、かならず他の社員が二重チェックをする体制ができている。三日目だけは、それができないのだ。
「大丈夫です! きちんとPOPも売価も確認しますから!」
わたしは胸を張って
みんなは不安そうな顔をしているけれど、わたしだってそれなりに成長している。あれ以来、プリセットでミスをしたことは一度もない。二重チェックがなくても、ちゃんと任務は遂行できる。
「心配しなくていいわよ、主任。わたしたちもいるんだからさ。荷受けも手伝うし、ちゃんと売変リストチェックしたか、お七ちゃんのお尻叩いて見張ってるから」
パートさんたちも、そう
「そうだな。最近は瓜生もミスしなくなったし、パートさんたちも頼りになるし。念のため、課長や他の主任たちにも、瓜生を気にかけてくれって頼んどくから。でも、万が一なにかあったら、わたしに電話してくれ」
主任はそう言ったけれど、わたしは「かならずひとりでやりきってみせる」と決意していた。
夏野菜の試食会をしたときの、主任のあの表情。少し顔を赤らめて、彼女さんの話をしていた。ふたりで一緒に過ごす時間を、主任も彼女さんもとても楽しみにしているのだ。
長期休暇の間は、仕事などぜんぶ忘れて、リソースを彼女さんに全振りしてほしい。そのためには、十日間ぜったいに、主任に連絡してはならないのだ。
わたしひとりが早番の日も、かならず滞りなく売り場を運営してみせる。ぜったいに、ミスはしない。
鼻息荒く売り場に出ていくと、ちょうどフルーツ姫が来店したところだった。
彼女は、満面の笑みでわたしに手を振った。
「瓜生ちゃーん、こんにちは」
はじめて接客した日から、フルーツ姫はほぼ毎日来店して、わたしに商品説明を求めていた。
今日から稲城さんが復帰するし、わたしはお役御免かなと思っていたけれど、意外にも姫はわたしのほうを選んだみたいだ。
でも、稲城さんは長休中に丸山さんと仲を深めたっぽいし、面倒ごとの種は、色恋に縁のないわたしが引き受けたほうがいい。
わたしも笑顔でフルーツ姫を迎えた。
「いらっしゃいませ。いつもご利用ありがとうございます」
ちょっと距離感が近いひとではあるけれど、毎日果物を買ってくれる上客にはちがいないし、こんな完璧なレディが親しげに話しかけてくれるのは、わたしも悪い気はしない。
「今日の瓜生ちゃんのおすすめは?」
フルーツ姫も、すっかりわたしを信頼してくれているようだった。
「今日は、きれいなシャインマスカットが入っています。あと、柑橘系ではカラカラオレンジが入荷してるんですよ。六月に入荷するのは珍しいらしくて」
「へえ、そうなの。カラカラオレンジって、あんまり聞いたことのない名前ね」
「はい。日本ではあまり出回っていません。カラカラ農場というところでできた品種なんです。名前とはちがって、すごく甘くてジューシーなんですよ」
売り場をひとまわりしたあと、フルーツ姫はわたしのおすすめどおり、カラカラオレンジを買うことに決めたようだ。
「瓜生ちゃんのおすすめは、ハズレがないのよね。いつもありがとう。そのうち、お礼にお茶でもごちそうさせてくれない?」
フルーツ姫は、バッグから名刺入れを取り出した。
「これ、わたしの連絡先。いつでもメッセージ送ってね」
わたしに名刺を渡し、フルーツ姫は手を振りながら去っていった。
名刺に視線を落とし、目を見張る。そこには、連絡先に加え、「野菜ソムリエプロ・
「ええ……? 野菜ソムリエプロ……?」
フルーツ姫こと篠井香さんは、なんと唐島主任と同じ、野菜ソムリエプロの資格保持者だったのだ。
そういえば、いつもフルーツ姫は昼間に来店している。
たぶん、会社帰りのひとたちをターゲットにした、料理教室でもしているのだろう。あれだけフェミニンな格好をしながら、ネイルをしていないのは、食関係の仕事をしているからだったのだ。
「嘘でしょ。恥ずかしくて死にそう……」
自分よりよっぽど野菜や果物に詳しいひとに、堂々と接客していたなんて。
羞恥のあまりへたりこみそうになったわたしに、「おーい、瓜生。午後便がきたぞ」と唐島主任が声をかけた。
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