第五話 アイスプラント・鬼上司のプライベート

「早めにあがっていいよ」と稲城さんに言われ、わたしは十七時に退勤した。パートさんたちに託されたベリークイーンを、主任の家に届けるミッションもある。

 シフトの関係上、同じ部門の社員同士は、休日も出退勤の時間もほとんど重ならない。だから、今まで主任とマンション内で顔を合わせたことは一度もなかった。


「たしか、605号室って言ってたっけ」


 せっかく、早く上がらせてもらったのだ。玄関先でイチゴを渡して、さっさと自分の家に帰ろう。で、デリカで買ってきたお惣菜そうざいを食べて、のんびりネットで動画でも観るのだ。


 鼻歌を歌いながら、エントランスのオートロックを開けようとしたとき、中から女のひとが飛び出してきた。


「わっ!」


 ぶつかりそうになって、とっさにけたわたしの前を、こんどは別の人影が走りすぎていく。唐島主任だった。


もえ! 待って!」


 大きな声で名前を呼び、主任は女のひとを追いかけていく。少し先の路上で、主任は女のひとの手首をつかみ、切羽せっぱ詰まった表情でなにかを訴えていた。

 わたしは呆気あっけにとられて、その状況を眺めていた。職場ではいつも余裕を崩さない唐島主任が、あんな必死な顔をするなんて……。


 しばらく言い争いをしたあと、女のひとは主任の手を振り払い、駅の方へと歩いていった。しばらく彼女のうしろ姿を見つめていた主任は、きびすを返し、足取り重くマンションの方へ戻ってくる。


 エントランス前まで来て、ようやく主任はわたしの存在に気がついたみたいだった。


「あ、えっと……、おつかれさまでーす……」


 なんとも気まずい場面に居合わせてしまった。へらへら愛想笑いを浮かべてマンションに入ろうとしたわたしを、唐島主任が呼び止めた。


「瓜生」

「は、はい!」


 なにも悪いことなどしていないのに、思わずビクついてしまう。


夕飯ゆうはんはもう食べた?」

「えっ、いえ。まだです、まだ! デリカで、チキン南蛮なんばんと揚げだし豆腐とお豆のサラダ買ってきたから、家で食べようかなーって……」


 緊張のあまり、聞かれてもいない惣菜の内訳までバラしてしまう。……うう、気まずい。早く帰りたい。


「よかったら、うちに夕飯食べにこないか? ちょっと料理作りすぎちゃって。ひとりじゃ食べきれないから」

「え……?」


 思いがけないご招待に、頭が真っ白になった。


「嫌なら断ってくれてもいいよ。……まあ、プライベートでまで、上司と顔合わせたくないよな」


 唐島主任の目が少し寂しそうに見え、わたしはとっさにお招きを受けてしまった。 


「いえ! とつぜんだったからちょっとびっくりしただけです! チキン南蛮と揚げだし豆腐とお豆のサラダは、冷蔵庫に入れとけば明日までもつんで! ごちそうになります!」


 なにを言っているんだ、わたしは……。お惣菜に執着する食いしん坊みたいじゃないか。

 どぎまぎしながら、主任のあとに続き、エレベーターに乗り込む。自分の家のある三階を通り過ぎて、六階でおりた。


 主任の家は鍵が開いたままだった。いつも隙のない仕事をする主任が、こんな無用心なことをするなんて。それだけ慌てて、さっきの萌というひとを追いかけたということか……。「からし主任」が鍵をかけ忘れるほど焦るって、彼女とはいったいどんな関係なのだろう。


「どうぞ。あがって」 

「はい、おじゃまします」


 小さな声であいさつをして、そろりと主任の部屋に上がる。同じマンション内のこと、間取りはまったく一緒だけれど、わたしの部屋とはずいぶん雰囲気がちがっていた。


「わあ……、シンプルで主任っぽいお部屋ですね」


 シンプルというより殺風景だ。ネイビーのカーテン、同じくネイビーの布団を敷いたパイプベッド。正方形の黒い座卓は、おそらくこたつ兼用だろう。


 インテリアに既視感があるなと考え、すぐに正体に思い至った。そうだ、三階の住居フロアに展示されている、自社ブランド商品のコーディネート例そのまんまなのだ。

 今日の服装も、制服とあまり変わらない黒のトップスとデニムだし、インテリアは住居フロアのコーデをそのまま移植しただけだし。主任って、青果に関わること以外は、ほんとうに無頓着っぽい。


 黒い座卓の上には、手つかずの料理が残されていた。

 スナップエンドウとアイスプラントのサラダ、オカヒジキとベーコンのガーリック炒め、豚肉を巻いたアスパラガス、たぶん新ジャガイモで作ったらしいポタージュ。それから白いごはんと行者ぎょうじゃニンニクの醤油しょうゆ漬け。


 おいしそう。おいしそうなんだけど……。


「なんていうか、青果の試食会みたいですね」


 失礼だとは思いつつも、正直な感想が口をついて出ていた。


 品数も多いし健康的だ。でも、豚肉とベーコン以外はすべて野菜。しかも、アイスプラントやオカヒジキ、行者ニンニクという、マニアックな食材が使われている。


「さっき、萌にも同じこと言われた」


 唐島主任は、ちょっとふてくされたように答えた。


「わたしといるときくらい、仕事のこと忘れられないの? って怒られた」

「はあ……」


 返答に困る。

 ええと、その「仕事とわたし、どっちが大事なの?」的な文句は、つまり、萌さんと主任は、ただのお友達や血縁関係ではない……、ということだよね?

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