掌編

あるかもしれない未来の二人①

「今日、カレー食べたい」


 陽菜のそんな一言から始まった一日。バスに揺られながらそんな言葉を聞いたこともあった。

 送迎用のミニバンを運転しながら私はその言葉に頷いた。


「じゃあ、どこかいいお店見つけておくわね」


「違う。美夜子の作ったカレーが食べたいのよ」


「ああ、そういう……」


 私は赤信号で止まりながら頷いた。

 エンジン音が響く車内で、しんとした二人の空気。陽菜は助手席に座らず、私の真後ろに座っている。

 ハンドルを握る手に緊張を覚えた頃はそのほうが不安だったが、今はもう慣れていた。


「でも、今日の現場遅くなるでしょ? 私も付きっきりだし、終わってから作るとなるとかなり遅くなるよ?」


「でも、食べたいの」


 陽菜の悪い癖だ。たまにこうして甘えてわがままを言ってくる。

 私は仕方ないかと青信号に変わったことを確認してアクセルペダルをゆっくり踏み込んだ。

 過ぎる景色は見慣れたもので、陽菜の家から撮影スタジオまでの道のりは、随分前からナビなしで行けるようになっていた。


「それじゃあ、頑張ってね」


「あれ、付きっきりじゃないの?」


「ちょっと事務所に戻っていくつか事務作業があるから、たぶんお昼くらいには戻ってくる」


「……わかった」


 陽菜はそう言うと、腕を横に伸ばして十字架のように構えた。

 その構えを見せるとハグをしろという合図だ。私はシートベルトを外して運転席から降りると、陽菜の体をギュッと抱き締めた。


「何度も言うけど、美夜子のスーツ姿エロい」


「仕方ないでしょ。社長が一年目はスーツって決まりをいきなり作ったんだから」


 私がそう言うと、陽菜は一つ私にだけの笑みを見せてスタジオへ入って行った。

 車に乗り込み私は事務所へ向かう。ここから車で十分程度掛かるが、気づけばもう事務所の駐車場だった。


「おはようございます」


「おっ、おはよう美夜子ちゃん。陽菜ちゃんはちゃんと起きてた?」


「はい、大丈夫でした」


 陽菜の担当マネージャーとしては先輩にあたる佐竹さんは、私のデスクにコーヒーを置いてくれた。


「美夜子ちゃんはお砂糖たっぷりだったわね」


 そう言ってスティックシュガーを五本も持って来てくれたが、私は「最近二本で行けるようになりました」と伝えると、佐竹さんは驚いていた。

 私は事務作業を済ませると、時計を見てそろそろ行かないと、陽菜が怒るとオフィスから出て行った。


「美夜子ちゃん、頑張ってね」


「え、ちょっと……」


 佐竹さんは最近、スキンシップが多い。

 私はハグをされると、断るわけにもいかず少しだけ佐竹さんの背に腕を回してエレベーターに乗り込んだ。


「安心して。浮気させようとか、そう言うつもりないから」


「つもりだった困りますよ。陽菜の前ではやめてくださいね」


「あら、隠し事するつもり? それなら、目の前でなんともないハグを見せた方がいい気がするし私、陽菜ちゃんにもハグするけど?」


「それは私が困ります」


 そう言ってエレベーターの扉を閉めた。

 地下の駐車場で車のロックを解除してシートに座ると、私は溜息を吐いた。

 念の為陽菜に「今から向かう」とメッセージを送っておいた。もしも休憩とかでスマホをチェックしていたら確認してくれるだろう。そう思っていたが瞬時に既読が付いてスタンプが送られてきた。

 まあ、偶々かなと思いながら車を走らせる。

 撮影スタジオでパスを見せようと鞄を漁っていると、突然声を掛けられた。


「君……女優になりたいって思ったことない?」


「は、はい?」


 スカウトのつもりか、中年の小太りの男性が顎に手を当てて訊いて来た。


「スタイルもいいし顔立ちもいいね。どう?」


「ちょっと待ってください」


 私は名札を彼に見せると苦笑いを浮かべながら謝り去っていった。

 スタジオ内に入り、陽菜の楽屋に向かうとお弁当を食べている陽菜が頬を膨らませながらこっちを見た。


「お疲れ様」


「遅いよ。もう食べてる」


 モゴモゴしながらそう言うと、私を箸で指して来たので行儀が悪いと注意をした。


「それより、撮影は順調?」


「もちろん。私を誰だと思ってるの?」


「咲洲陽菜」


「そう、その通り」



 陽菜はそう言うと、隣に座るようにと空になっている座布団を叩いた。

 私はそれに従い座ると、ベッタリとくっ付いてきた。


「どうしたの?」


「いいでしょ」


 私はお弁当を開けようとすると「ダメ。その前にすることあるでしょ?」と、私の手を陽菜が押さえつけた。

 溜息を吐くと、陽菜は目を閉じて唇を差し出した。


「もう……」


 軽く唇を重ねると、陽菜は嬉しそうに「じゃあ食べていいよ」と言うが、手を離してくれない。


「私を食べていいよ」


「本当に? じゃあ食べるね」


 そう言ってまた唇を重ねると、舌を潜り込ませてそれを絡めあった。

 陽菜が食べた焼き魚の香ばしさのせいでお腹が空いてきた私はそのまま陽菜を押し倒した。


「本当に食べちゃうよ?」


「いいよ」


 少しヒートアップした所で、楽屋前で共演者同士の会話が聞こえてくる。

 ハッと我に帰ったように私達は座り直してお弁当を食べ始めた。


「ごめん。最近忙しくて……」


「ううん。私も忙しいし」


 お互いにそう言うと、陽菜は先に食べ終えて台本のチェックをし始めたのだった。

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