第五話 咲洲陽菜の決断
「陽菜?」
美夜子の声で気がついた。
「ちょっと寝てたかも……」
そう言って私は湯船から出ると、一緒に出てきた美夜子は私の肩を抱えた。
「大丈夫? 寝てたって言ってたけど、そんな風には見えなかったよ?」
「平気……だけど?」
「逆上せたのかと思った」
「ああ、大丈夫、大丈夫だから」
そのまま脱衣所へ出て、扇風機の風に当たった。
「夏だけど、温泉もいいねぇ」
「うん。なんかお肌スベスベになったし」
「美夜子には必要ないでしょ」
私は化粧水を塗りたくりながら言うと「そういう意味で、私は特別なのかもしれないね」と、美夜子は言った。
「髪やったげるね」
美夜子は私の髪を乾かして、整えると「じゃあ美夜子のは私がやるね」と、ドライヤーとブラシを奪い取った。
美夜子の艶やかな黒髪を触ると、不思議と心が踊りだす。このふわっとした感覚が、恐らく恋なのだろう。
「綺麗だね……美夜子の髪って」
「髪はちゃんと手入れしてるし」
「そうなんだね」
私は丁寧に髪を乾かしてオイルを塗る。
「陽菜、上手ね」
「そりゃ、プロの所作を習ってるからね」
「そっか」
鏡越しに美夜子と目が合うと、美夜子は目をさっと逸らした。
私が微笑むと、それをチラッと鏡越しに見て美夜子も笑っていた。
部屋に戻ると、夕食の準備が始まっていて、数々の料理がそこには並んでいた。
「流石旅館……」
美夜子は慣れていないのか、その光景に驚いていた。
「今回は食事付きのプランだからね。この前泊まってた時は、撮影もあったから素泊まりだったんだけど」
なんだかんだ、私もこの光景に驚いていた。
海の幸から山の幸、更にはお米も富山産とのこと。
「文字通り、地産地消ね」
「お酒飲めたらやばいだろうね」
私達はオレンジジュースで乾杯した。
「せめて炭酸にすればよかったね」
「でも、さっきコーヒー牛乳飲んだから喉乾いてないし……」
そう言って美夜子はお造りを頬張っていた。
「美夜子って、美味しそうに食べるよね」
「そうかな?」
「うん。見てるだけで、美味しいのが伝わってくる」
私も同じようにお造りを食べると、本当にとろけるような食感で、私の幸福感は満たされた。
夕食を済ませて食後のお茶を楽しんでいると、スマホの通知に気づいた。
「あ、唯からだ」
「なんて?」
「楽しんでるかって」
私は美夜子と写真を撮って、唯に送った。
食器を下げに来た仲居さんが「お布団、敷きましょうか?」と訊ねて来たが、自分達ですると断った。
「うーん」
私は窓際の床の間で、ロッキングチェアに腰掛けて伸びをした。
「陽菜、よく伸びするよね」
「なんか、疲れがどっと出て来たかも」
「ずっと撮影だったもんね」
「うん。だから、温泉入るのが丁度いいかも」
窓の外の、雲に隠れそうな月を眺める。
月が照らす雲が神秘的で、私は見惚れていた。
「陽菜?」
傍まで来ていた美夜子に気付かず、私は少し驚いた。
「な、なに?」
「いや……ぼーっとしてるから」
「ごめん……」
「いいよ。謝らなくて」
美夜子は布団を敷いてくれていたようで、二つの布団がくっ付けられていた。
私は大きく息を吸い込んで、深く吐いた。
「早めに寝ようかな」
「うん。その方がいいよ」
温泉で一瞬意識が飛んだのは、もしかしたら、疲れが出てきたからかもしれない。
そう思って私は布団に入った。
「敷き布団で寝るのもいいね」
「美夜子はずっとベッド?」
「中学入る前までは敷き布団だったよ。中学入る頃に部屋のリフォームがあったから」
「あー、だから美夜子の部屋はモダンな感じなのか」
私は美夜子に擦り寄る。
美夜子の温もりが伝わってくる。
「そういえば……夏の快眠方法って知ってる?」
私は美夜子にそう訊ねると「何それ?」と訊き返された。
「部屋を結構冷やして、冷房をタイマー設定で朝に切れるようにして寝るといいんだって。人って体温が下がって眠気が来るでしょ? それで、睡眠導入時は冷やして、起きる時は暖かくしてってことらしいよ」
「へぇ……じゃあ、寒くする?」
「いや、今で十分かも」
私は美夜子にくっ付く。美夜子は少し恥ずかしげにもじもじしたが、私に脚を絡めてくる。
「これで、逃げられないね」
「美夜子に力では勝てないからなぁ」
私は美夜子の首筋を甘噛みすると「それ、反則だから」と、美夜子はくすぐったそうにした。
「陽菜……疲れてるのね」
「……わかんない。体は元気なはずなのにね」
「悩んでる?」
「何を?」
私はじっと美夜子の目を見つめる。
「復帰するかどうか」
「復帰……ねぇ。多分、タイミング的には適してるんだと思う。映画の撮影を足掛かりにするってのは。でも……」
「監督さんの言葉があるから?」
「うん……」
美夜子は浅いため息を吐いた。
「それって、陽菜の意識じゃないでしょ? 陽菜がどうしたいって、そこにはないでしょ」
「美夜子……」
「こうしているのも、自分の為でしょ? 監督さんの為じゃない。だったら、もっと自分に素直になって欲しい」
私は黙った。その静寂は、空調の低い唸り声と体勢を変えた時の衣擦れ音のみが聞こえる。
「私は……戻りたい。でも、そうしたくない。わからないの、どうするのが正解か。あそこにいれば、また同じ事を繰り返すんじゃないかって思う。放課後とか、休日とか、殆ど仕事ってなるくらいなら、復帰はしたくない」
美夜子は返事をせず、相槌だけを打っていた。
「美夜子はそれを決めろって言うんでしょ? 残酷よね。どっちも好きだから、でも中途半端にしたくないから、私はその狭間で迷うことしかできない」
私はギュッと、美夜子の浴衣を握り締めた。
「映画の話、貰った時は嬉しかった。でも、撮影が始まってからずっと怖かった。またこの快感を味わってしまうと、辞められなくなるって。褒められて煽てられて、叱られてはまた褒められて……そうしているうちに、それらが全部心地良く感じちゃうの」
「じゃあ……戻る?」
「だから、わからないって言ってるでしょ!」
どうして急に美夜子が意地悪になったのか、私はわからなかった。
疲れていると誤魔化して、実は復帰するかで悩んでることを隠していた。
美夜子に隠し事はできない……と言うことなのか?
「泣かないで……陽菜。陽菜の思う通りにしたらいいの」
「だから、それを決めきれないって言ってるの。唯みたいにすればいいかもしれないけど、そうすると、どっちかが疎かになるんじゃないかって……。私、器用じゃないからさ」
美夜子は少し考えていた。
多分それは、私の為を思って、いい言葉を捻り出そうとしているのだと、察した。
「じゃあこうしましょう。陽菜が芸能界に復帰するなら、私、陽菜から離れるわ」
「え?」
「別れる……それでいい?」
「どう……して……」
私は言葉を失ったように黙った。
涙でぐちゃぐちゃな顔も今はどうでもいい。
「それくらいしないと、踏ん切りつかないんでしょ?」
美夜子を秤にかけるだなんて……私の選択肢を狭めることになる。
つまり、美夜子は復帰してほしくないってことかと、私は考えた。
でも、それは美夜子の為。私自身の為ではない。
泣きじゃくる私をあやす美夜子の顔を見上げると、どこか悲しげだった。
別れたくない相手に、少し形は違えど、別れを切り出したんだ。
美夜子だって……辛い。
美夜子のそんな顔は、見たくない。
美夜子には笑ってて欲しい。
自分の欲望に素直になればいいのであれば……。
「私……美夜子のそばに居たい」
「そう……」
「だから、今は復帰しない。約束通り、高校卒業まではこのままでいる」
「うん」
「だから、美夜子もそばに居てね」
「もちろん」
二人、体を抱き締め合う。
そしてそのまま、眠りに就いたのだった。
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