15-10

 どこかから微かに綾香の声が聞こえた気がした。

 しかし幻聴だろう。

 いくら空気の読めない彼奴あいつとはいえ、まさかこの状況で大声で叫ぶはずもない。

 しかしながらさっきから不穏な予感ばかりが大きく膨らんでいく。

 ミシャは何か勘付いたようだが、尋ねてもクツクツと笑うばかりで何も教えてはくれない。おそらくはまだ完全には状況が把握しきれてはいないのだろう。もしくはこれから起こることはミシャでも予見が難しいのかもしれない。

 どちらにしてもあまりしつこく訊いてヘソを曲げられても困るので今は様子を見ておくしかない。

 とはいえ、とりあえず自分なりに辺りの気配を探ってみたが、やはり大きな霊力は感じ取れないままだ。


 いったい何が起きている。

 

 立ち止まってからおそらく数十秒が過ぎた。

 あのままペースを乱さずに歩いていれば、すでにガレージに到着して車に乗り込んでいる頃だろう。


 本当にここに留まっていて良かったのか。


 胸の奥でパチパチと小さな音を立てて逡巡の泡が弾けたが、俺はそれを掻き消そうと小刻みに首を横に振った。次いで周囲に視線を巡らせると立ち込めていた霧がさっきまでよりもずっと濃くなっていることに気がついて少しばかり唖然とする。また霧にまで自分が立てた計画を弄ばれているように思えて腹立たしくなった。するとまるでそのもどかしさを見透かしたようにさつきがいかにも焦ったい口調を向けてきた。


「石破さん、やっぱりこんなところで立ち止まっていても埒が開かないと思います。とりあえずガレージまで行きませんか。キヨさんからの続報はそこで受け取ればいいじゃないですか」


 もっともな意見だと思った。

 すぐさま肯首して「そうしよう」と声を放ちたかった。

 けれどそれを押し留める自制の力が辛うじて働いて、俺はためらいがちにかぶりを振る。


「もうちょっと待とう。状況が分からないまま動くのは危険だ」

「でもここで無防備に構えているのもかなり危険なのでは」


 その正論は雑賀さんの口から放たれたものだった。

 目を向けるとその顔にはこれまで見せていた柔和さが完全に消えている。

 恐怖を感じれば誰だって逃げ出したくなるものだ。その場に留まることは並の精神力では及ばない。いくら聖職者であるといってもそれは同じことなのだろう。

 しかし、その反論に簡単に頷くわけにもいかない。


「いや、もう少しだけ待ってください。今、状況を確認しているとこ……」

「状況確認ってなんですか。キヨさんとは長い会話ができるわけじゃないんですよね」


 睦月の真後ろに立ったさつきが訝しげに顔をしかめて俺の言葉を遮った。

 さらにその後ろで雑賀さんも頷く。

 その二人に対して俺は「まあ、そうなんだが……」と口ごもるしかなかった。

 確かに向こうの詳しい状況は分からない。

 けれど聡いキヨが早合点で「止まれ」という指示を出すとは俺にはどうしても思えなかった。


「もう少し、あと少しだけこのまま様子を見たい。頼む」


 別に謝る必要などないはずなのに俺はつい苦し紛れに片手拝みで軽く頭を下げてしまった。するとどういうわけか睦月がそれを見てクスクスと忍び笑いを始める。


「なんだよ、何が可笑しい」


 さすがに癪に触って憮然とした表情を向けると睦月は「ごめんなさい」と謝りつつ、笑声を抑え込むように口もとを手で塞いだ。俺はますます不機嫌になり、口をへの字にして目線を木立へと逸らした。

 けれどそのやりとりのおかげで残りの二人にも多少の余裕ができたらしい。


「しょうがないですね。じゃあ、あと少しだけ待ちましょうか」


 ため息混じりのさつきの声色にも心なしか和らぎを含んで感じられ、苦い顔のまま軽く頷いた俺はこめかみにそっと指を当てた。


『ところでミシャ、状況はどうなっている。いい加減に……』


 そのときだった。

 不意に一陣の風が木立をざざざっと音を立てて吹き抜け、そのまま行く手の先で小さなつむじ風を作った。それは最初、濡れた木の葉をいくつか巻き纏う程度のものだったが、ほんの一瞬のうちに見上げるほどの高さにまで吹き上げ、次の瞬間には木立全体を巻き込む巨大な渦となった。

 なんだ、と首を傾げる間さえなかった。

 たちまち地面ごとごっそり掬い上げられるような浮遊感と無数の小枝や小石が当たる衝撃と痛みに襲われ、俺は立っていることすらままならず両腕で頭部を守る姿勢を取ってその場にしゃがみ込んだ。


『なるほどのう、飛んで火に入る夏の虫とはこのことよな。落ち着いておったわけじゃ。これなら確かにわざわざそっちから出向く必要などなかろうよ』


 場違いに頭の中で響き渡ったミシャの呑気な声。

 けれどそのときの俺にそ味を問い糺すゆとりなどあるはずもなく、それどころか他の三人を気遣うことすらままならず、俺はその巨大な洗濯機の中に放り込まれたような旋風をやり過ごす為に肩膝立ちで地面に身を伏せているしかなかった。

 とはいえ、それはほんの数秒のことだったと思う。

 やがて風渦の勢いにわずかな翳りが見え始めたかと思うとそれは急速に衰え萎み、ひと呼吸後には余韻も残さずに消え去ってしまった。

 その唐突に訪れた穏やかな静寂の中で俺は頭部を覆っていた手を下ろし恐るおそる顔を上げた。そしてゆっくりと目蓋を開くと、矢庭に視界に映った全くありえない景色に俺は愕然として凍りついた。


「ど、どうして私たちはここに……」


 絶句した俺の真横でそう声を震わせたのはさつきだった。

 次いでそばで雑賀さんが引き攣った小さな悲鳴を上げる。

 俺もまた同時にぎりりと奥歯を噛み締めて呻き声を漏らした。

 気がつくと俺たち三人はさながら地に平伏する臣下のような格好で跡形もなく霧が取り除かれたその色鮮やかな光景を見つめていた。


**********


 近況ノートにて広大なる柏木邸の見取り図を公開いたしました。

 ストーリーを読み解く参照になればと思います。

 そして作者の絵の見事な下手っぷりを笑ってやってくださいまし〜


 https://kakuyomu.jp/users/edage1999/news/16818093078569095175

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