15-9
『ちょっと待って。……なにかおかしい』
前を行くキヨちゃんが足を止めたので私も立ち止まり、とりあえず前に進もうとするさつきパパの歩みを片手で制した。
当然ながら不審げな顔を向けられたが私にも状況が分からない。
首を横に振ると彼は怪訝な表情で頷いた。
ただ、あるとすればやはり悪霊が動き始めた可能性が高いだろう。
いや、むしろそれしかないと思えたけれど、だとすれば彼女は計画通り速やかな後退を指示するか、あるいは即座に避難スポットを作ってそこに逃げ込む手筈を整えるはず。なのに今、彼女にそれらしい仕草はなく、ただ黙って不審げな目線を辺りに漂わせている。
『ねえキヨちゃん、おかしいって何が?』
ほんの数メートル先で立ち尽くす透けた背中に思念でそう問い掛けたが答えはなかった。けれど代わりに彼女はやがて巡らせていた目線を不意に地面に落とし、それからまた不安げな声色をこぼした。
『…………やっぱり変だ。ここはいったいどこなの』
一瞬、何かの冗談だろうと思った。
けれど緊迫したこの場面でまさかキヨちゃんがそんな悪ふざけをするはずがない。
そう考え直して周囲に巡らせた目線が捉えた不気味な光景に私は茫然として思わず手を口に当てた。
「えっ、これっていつのまに……」
それは濃厚なミルクの中にいるのかと見紛うほど真っ白な霧の世界だった。
霧は何もかもを覆い隠し、右手に聳えていた教会の尖塔、行く手に見えていた木立、振り返ればそこにあるはずの前庭や屋敷の影、その全てが完全に掻き消されている。
「こんな霧、さっきまで……」
私と同様、引き攣った声で呟いたさつきパパの姿さえドロリと淀んだ霧に霞んでいた。目を移すと、もともと透けて見えるキヨちゃんの体などはもはやその霧でかたどられた輪郭でしかない。
ただキヨちゃんが感じ取っている不可解さは霧の濃度だけではないような気がした。けれどその訝しさの核心が判然としない。
キヨちゃんはいまだ顔をうつむかせている。
その所作に倣うように地面を見下ろした私の視界は折り目がくっきりとした制服のスカートと濡れて黒ずんだ石畳を捉えている。
別段、何かがあるわけではない。
地表をゆったりと漂う霧が傾斜に合わせてやや上向いたローファーの爪先を見え隠れさせているだけだ。
しかしなぜかそこはかとない不自然さがその中に潜んでいることだけは確信できた。
なんだろう……。
そう呟きかけた瞬間、唐突に違和感の正体が浮き彫りなった。
そうだ、どうしてこの道は登っているの? 前庭を回り込むようにして降りた石畳の道は木立の方に向かってさらに緩やかに下っていたはず。それなのに……。
そのとき前触れもなく強く息の長い風が背後から押し寄せた。
風は私たちを嘲笑うかのようにするりとすり抜け、次いでまるで花嫁のベールを摘む指先の如く深く垂れた霧をふわりと上空へと持ち上げた。
するとそこにあまりにも信じがたい光景が現れて私は息を呑んだ。
それどころかしばし呼吸すら忘れ、立ち尽くした私がようやく吐き戻すとその呼気とともに唇から嘆息が漏れた。
「どうして……」
するとその弱々しい声をなぞるように愕然としたキヨちゃんの声が鼓膜の奥に響く。
『……そんなバカな』
おずおずとキヨちゃんに視線を差し向けると彼女もまた顔を上げて目を見開き、小さな肩をさらに萎ませていた。また同時に隣ではさつきパパが言葉にならない微かな呻きを響かせる。
私たちが目にしたもの。
それはほんの十数メートル先に口を開けた懐の深い石造りのポーチだった。
またそれはついさっきマーシャに見送られて後にした正面玄関に違いなく、力無い目線を上げるとさも当然のように円錐状の尖塔を高々と突き出した古城のような屋敷が濃い霧を燻らせつつも堂々と屹立していた。
つまり、私たちはどういうわけか知らないうちにスタート地点に戻ってきてしまっていたのだ。
大いなる疑問符が頭を駆け巡った。
屋敷を出た自分たちは確かに前庭の斜面に施された道を降り、教会を右手に見遣りながら木立へと向かっていたはずなのにどうして。
その答えに見合う推論も理屈も思いつかない。
するとそれに答えるように、さつきパパが愕然と声を震わせた。
「こ、この霧はいったいなんなんだ。もしかして我々を惑わせているのか」
その言葉はフリーズしかけた私の思考力をたちまち修復する。
なるほど、そういう可能性もあるのか。
その推察を確かめるべく私は即座に霧を掻き分けるようにして数歩先に足を進め、花壇の傍らにしゃがみ込んで青く可憐に咲き誇っているネモフィラの小さな花弁のひとつを指先で摘んだ。
「ごめんね」
私はちぎった花弁を瞳の前にかざしてマジマジと見つめた。
霧によって幻を見せられているだけならこの花に実体はないはず。
また、もしそうなら私たちはまだ木立を目前にした道の途中にいる。
さらにそうであれば私たちはなんとかしてその幻影を打ち払って作戦を完遂させる必要がある。
幻覚ならばまだ打つ手があるかもしれない。
私は指先の小さな花が霧に溶けるようにして消えていくことを切に願った。
けれどしばらく待ってみても細い茎から切り離されたネモフィラの花弁はいつまでも私の指の上で健気に愛らしく咲いたままだった。
願望は潰えた。
私は花を花壇に戻し、それから唇を真一文字に引き絞って立ち上がる。
原理など分かるはずもないが、私たちがスタート地点である屋敷に戻ってきたことは厳然たる現実であり、間違いなくこれがカイセという悪霊の仕業であることも明白だった。しかしだからと言っていつまでも恐怖に苛まれているわけにはいかない。
切り替えて次善を講じる必要がある。
私はすぐさま鋭い思考を紡ぎ、それを振り向きざまにキヨちゃんに送った。
『睦月くんたちが危ない。知らせないと』
『うん、その場に止まるように警告はもう送った。でも……』
彼女が飲み込んだ懸念はすぐに私の頭にも浮かんだ。
そうだ。ここからキヨちゃんが送れる思念は短いアラートに限られる。
詳しい状況説明はできない。
ならばマーシャは今頃混乱しているだろう。
束の間、思案した私はゴクリと喉を鳴らす。
マーシャに伝える方法はやはりこれしかない。
私は背負っていた通学リュックを急いで肩から下ろし、サイドポケットからスマートフォンを取り出した。そしてすぐさま通話履歴を開き、画面にいくつか縦並びになったマーシャの文字を素早くタップする。
数秒が過ぎた。
けれどいつまで経っても発信音がコール音に切り替わらない。
不審に感じて画面の左上を注視した私はその我が目を疑った。
…………アンテナが立ってない。
途方に暮れた私はスマートフォンを持つ手をだらりと下げた。
おそらくこの霧が電波さえも遮ってしまっているのだろう。
とすればカイセは私たちの作戦など全てお見通しだったというわけか。
背筋にぞくりと悪寒が走った。
怖い。
できればこのまま屋敷の中に逃げ帰ってしまいたい。
そんな弱々しい衝動に駆られた私は奥歯を噛み締め左手で自分の頬を強く叩いた。
するとパチンという小気味の良い音とともに、扱い慣れた反骨心が蘇る。
私は負けない、絶対。
私はすぐさま今や背後とする木立へと振り返り、出せる限界の声量でこう叫んだ。
「マーシャッ! あんたもこんな奴に負けるんじゃないわよッ!」
真っ白な霧の世界に放たれた私の声が微かなリフレインを何度か繰り返した。
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